平野神社(ひらのじんじゃ)は 延暦13年(794)平安京遷都の際 第50代・桓武天皇の命により 平城宮〈奈良〉で祀られていた今木神 久度神 古開神をこの地に遷座したものです 『六国史』に度々記載される由緒ある古社で 後に相殿に比賣神が祀られて四座となり『延喜式神名帳(927 AD.)』には゛山城國 葛野郡 平野祭神四座(ひらのの まつりのかみ よやしろ)並名神大゛と所載されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
平野神社(Hirano shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市北区平野宮本町1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
第一殿 今木皇大神(いまきすめおほかみ)
第二殿 久度大神 (くどのおほかみ)
第三殿 古開大神 (ふるあきのおほかみ)
第四殿 比賣大神 (ひめのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・源気新生、活力生成の神
・竈の神、生活安泰の神
・邪気を振り開く平安の神
・生産力の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧官幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
平野神社
平安遷都に伴って、奈良の平城京からこの地に移された神社で、祭神として、今木神(いまきのかみ)、久度神(くどのかみ)、古開神(ふるあきのかみ)、比賣神(ひめのかみ)の四柱を祀(まつ)っている。平安時代中期には、伊勢、賀茂(上賀茂・下鴨)、石清水(いわしみず)、松尾に次ぐ名社に数えられた。
桜の名所として名高く、古くから各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約五十種、約四百本の桜が植えられており、「平野の夜桜」として親しまれている。早咲きの品種は三月中旬、遅咲きの品種は四月二十日ごろに咲くといわれ、約一箇月間花見ができる。
歴代の朝廷に大変厚く崇敬され、律令の施行細目を定める「延喜式(えんぎしき)」で皇太子御親祭とされたほか、源氏や平氏をはじめ諸氏の氏神としても崇(あが)められた。
本殿(重要文化財)は、寛永年間(一六二四~一六四四)に建築されたもので、春日造(かすがづくり)の四殿を並べ、二殿ずつが「合の間」で連結されており「平野造(ひらのづくり)」又は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」と呼ばれている。南門は、慶安四年(一六五一)に御所の旧門を下賜されたもので、昭和十八年(一九四三)に現在の大鳥井の位置から移築された。
寛和(かんな)元年(九八五)四月十日に花山天皇が桜をお手植えされたことにちなみ、毎年四月十日には桜祭が行われ、多くの人でにぎわう。
京都市
西の鳥居付近の案内立札より
由緒
延暦13年(794)、桓武天皇の命によって当地(衣笠の地)に御鎮座。平安遷都に際し、御生母高野新笠姫を中心とする新進の大陸文化を導入した人々が平安の都づくりに優れた技術を用いた功績は多大であった。更に遷都後は外の護となったこと等に対して天皇の御親祭をみたもので、「延喜式」に皇太子みづから奉幣される定めになっている延喜式内社の名神大社。
平安中期以後は二十二社の五位として、伊勢・賀茂(上・下)石清水・松尾につぐ名社であった。
また源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等 八氏の祖神として崇められてきた。
明治4年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている。
現在の本殿(四棟)は、慶長3年・同9年、平氏の末裔で公家の西洞院時慶卿によって再建されたもので、「平野造り」または「比翼春日造り」と稱せられ、重要文化財。拝殿は、東福門院寄進によるもので「接木の拝殿」として有名である。
掲示の三十六歌仙は寛文年中、平松時量卿の寄進にして、その書は関白近衛基熈、絵は海北友雪。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【由 緒 (History)】
平野神社 御由緒
①鎮座地
京都市北区平野宮本町一
②御祭神四座
第一殿 今木皇大神(いまきのすめおおかみ)新生源気、活力生成の神)
第二殿 久度大神(くどのおおかみ)(竈の神、衣食住の生活安泰の神)
第三殿 古開大神(ふるあきのおおかみ)(邪気を振り開く平安の神)
第四殿 比賣大神(ひめのおおかみ)(生産力の神)③御社殿等
○ 御本殿は国指定の重要文化財。寛永二年(一六二五)南殿と、同九年(一六三二)北殿建立。東向きの「平野造」又は「比翼春日造」と呼ばれる二殿一体となった御本殿が二棟南北に建ち、北より②の今木皇大神より順に祀られています。東向きは宮中神であったことによります。
○ 摂末社は玉垣内本殿南に摂社県社鎮座。拝殿の北側には境内社として、西から春日神社、住吉神社、蛭子神社、八幡神社の末社が、参道には出世導引稲荷神社、猿田彦神社の二社が祀られております。
○ 拝殿は慶安三年(一六五〇)東福門院(後水尾天皇中宮・徳川秀忠の娘)建立。内部の三十六歌仙は寛文期に近衛基熙書、海北友雪画のものです。
○ 南門は慶安四年(一六五一)、御所の旧門を下賜されたもので、昭和十八年に現在の大鳥居の位置から南門として移築されたものです。
○ 東神門、同回廊、東大鳥居、手水舎、西北の五筋塀は昭和九年の室戸台風に於ける倒木により御本殿・諸殿舎等が甚大なる被害を受けた修復工事に、西大路新設事業が重なり、境内地は西大路六車線分割譲することとなり、大規模な整備事業が行われました。この一連の工事は昭和十八年に竣工しました。④沿革
奈良時代末期の延暦元年 (七八二)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城京の内に祀られていました。ここは桓武天皇の父光仁天皇の御所でした。この地には延暦十三年 (七九四 )平安遷都と同時に御遷座されました。
当初境内地は方八町余 (一 ・二km四方 )で、現在の京都御所とほぼ同じでしたが、時の変遷と共に現在の二百m弱四方となりました。⑤御神階
平安時代になると御祭神は急に位が上がり、貞観六年 (八六四 )には今木皇大神が正一位の位を授けられました。その前年 貞観五年には久度・古開両大神に正三位、比賣大神は従四位上に叙せられています。
⑥社格と称号
『延喜式』 (律令の施行細目、平安時代初期の延喜年間に着手され延長五年 (九二七 )完成 )によれば、全国唯一の「皇太子御親祭」が定められた神社です (別図参照)。
同式の「神祇官式・祝詞」には「皇大御神・皇大神」と称され、また「東宮坊式」には「神院」と言う宮中神と同様の扱いを受けております。『文徳天皇実録』仁寿元年 (八五ー )には勅使を「平野神宮」に遣わすとあります。全国でも数社に限られる「皇大御神・皇大神」「神宮」。宮中神である「神院」これらの尊称から宮中外の宮中神であったことが窺えます。このようなことから当社は皇城鎮護の神を定めた「二十二社」の五位に列せられました。また明治四年には官幣大社に列格しております。⑦宮中 平野御竃
『延喜式』の「内膳司式」によれば、天皇の食を饗する御竃には「平野・庭火・忌火」の三竃があり、庭火御竃は平時の食膳、忌火御竃は祭時の食膳を饗し、平野御竃は健康・吉祥を司る御竃であるとされています。これは平野四神の御神徳が一体となり常に宮中と関わりを持ち、天皇をお守りしていた事にほかなりません。
⑧八姓の氏神と伝奏家
〇 奈良時代末期から「臣籍降下 (皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること )」の制度が定まり、臣籍降下した源氏•平氏はじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠 各氏他天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されました。
当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようです。『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。
〇 江戸期には平氏嫡流の公卿、西洞院家が当社の伝奏家 (天皇に取次言上する役 )を勤め、現社殿の復興をいたしました。東大鳥居の「平野皇大神」の御神号額は当代の西洞院文昭氏の揮毫です。⑨異説
〇 中世期、仁徳天皇が平野の神であると言う説が広く信じられていました。これは仁徳天皇が民家の烟(煙)が立たないのを御覧になり、免税したと言う逸話を当社の竈神に付加した説です。
〇 江戸時代に国学者の伴信友が著作『蕃神考』で、「今木神は百済王なり」との説を、根拠となる史料を改竄 (自説に都台よく変える )して唱えました。今でもこの説を敷桁した説が時折出されますが、学問上では否定されています。⑩名所 桜苑
江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られ、特に珍種が多く現在も約五〇種約四〇〇本の桜が植裁されています。
現地案内文より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内案内図
・本殿
・縣社《主》天穂日命〈本殿 瑞垣内 向かって左(その南)に並び鎮座〉
・拝殿
・八幡社《主》品陀和気命
・〈四社併祀社〉
・春日社《主》天児屋根命
・住吉社《主》綿津見神
・蛭児社《主》蛭児神
・鈿女社《主》天鈿女命
・御神木 楠(くすのき)・参集殿
・すえひろがね
すえひろがね
京へ都が遷された頃から既にみちのくとの往来は盛んでありました。そして古くから不思議な力を持った石の存在は知られていました。三種の神器のひとつもこの石から作られていたと言う話もあります。村の人にとっては、不思議な力を持っていることから、粉にして邪気を吸い取る薬としても用いられていました。また古くは神様が宿っておられるのではないかと伝えられ、神秘の石゛鉄尊様(てっそんさま)゛と崇められていました。
この度、縁あって『活力を与えて下さるという神様を祀られる平野神社に奉納したい』とはるばるみちのくから運び込まれました。大層大きく非常に重い石で、摩訶不思議なことに磁石を引きつけるのです。
これは「餅鉄(べいてつ)」というもので、別名「すえひろがね」というまことにめでたい名前の石。しかも専門家に見ていただいたら“日本最大のすえひろがね”ということ。
この不思議な力を持った石を広く参拝者の方々にもお頒ちしたいと、この度お祀りするに至りました。
平野皇大神(ひらのすめおおかみ)は活力を与え幸せへと導いてくださる神様、生命の象徴でもある樹齢400年をこえる大きな楠の元にお祀りしました。参拝者の皆様には『すえひろがね』の名前のごとく、未知なる力を授かって、嬉しきこと楽しきこと多く幸せに過ごしていただきたいと願います。 平野神社社務所
現地案内より
・平野の桜
・神門
・廻廊
・手水舎
・稲荷社《主》倉稲魂命
・猿田彦社《主》猿田彦命
・参道
・東鳥居
・西参道
・西鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1(四時祭上) 大中小祀条
【抜粋意訳】
凡践祚大嘗祭為二大祀、祈年、月次、神嘗、新嘗、賀茂等祭為二中祀、大忌、風神、鎮花、三枝、相嘗、鎮魂、鎮火、道饗、園、韓神、松尾、平野、春日、大原野等祭為二小祀、
〈風神祭已上、並諸司斎之、鎮花祭已下、祭官斎之、但小祀祭官斎者、内裏不レ斎、其遣二勅使一之祭者斎之〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 四月祭 平野神四座祭 条
平野祭が記されています
【抜粋意訳】
巻1神祇1 四時祭上 四月祭 平野神四座祭
〈今木神(イマキノカミ)久度神(クトノカミ)古関神(フルセキノカミ)相殿ノ比賣神(ヒメノカミ)〉
五色帛三丈二尺、絹三丈二尺、倭文一丈六尺、絲四絇、綿四屯、木綿、麻各十六斤、裹幣料布三丈二尺、〈已上幣料、〉米四斗、糯米四斗、大小豆各一斗、油一斗三升、〈雑料通用、〉鰒、堅魚、海藻各廿四斤、腊四斗、塩一斗六升、折櫃十六合、壷、酒坏各廿四口〈備酒台、〉瓫、堝各十六口、由加、缶各四口、韓竈八具、匏十六柄、食薦廿枚、柏一百六十把、八足案四脚、桧榑八村、薪九擔、輿篭三脚、覆、敷料曝布五端二尺、懸燈料綿三屯、酒五斗三升三合、調布二端、〈已上祭神料、〉絹一丈二尺、五色絁各一丈二尺、倭文一丈二尺、木綿、麻各四斤、〈已上散祭料、〉
五色帛各八尺、絹四丈、倭文四尺、木綿、麻各四斤、鍬八口、稲八束、〈神祇官所充、〉米八斗、酒二斗七升、糯米二斗、大豆、小豆各八升、堅魚、鰒、海藻各八斤、腊四斗、塩八升、瓫、叩盆各八口、坏卌口、匏四柄、柏八十把、輿篭三脚、食薦八枚、薪五擔、雑物直、調布四端、祝詞料庸布六段、〈已上解除并竈井祭料、〉木綿四斤、米四斗、糯米四斗、大豆八升、小豆一斗二升、酒三斗、鰒、堅魚、海藻各四斤、腊四斗、〈已上山神祭料、〉
米二石、瓺(ミカ)三口、大案三脚、臼三口、酒槽三隻、杵六枝、箕三枚、匏三柄、〈已上六種、随損可替、〉布三端、薪五擔、〈已上醸神酒料、〉飯三石九斗、海藻十六斤、腊六斗、塩八升、〈膳部十六人、衛士卅人二箇日食料、〉
斎服料
物忌王氏夏絹五疋、〈冬加一疋、〉綿十屯、紅花小六斤、銭一貫六百卅文、〈冬料准此、〉和氏、大江氏、並夏別絹二疋、〈冬加一疋、〉綿三屯、紅花小三斤、銭六百卅文、〈冬料准此、〉弾琴二人、夏別絹三丈、布二丈八尺、冬黄帛三丈、絹一疋、綿三屯、膳部十六人、夏別絹三丈、布三丈二尺、紅花一両一分、冬黄帛三丈、絹三丈、布一丈二尺、炊女(カシキメ)四人、夏別絹四丈五尺、布一丈、冬絹一疋三丈、綿二屯、布一丈、神主二人、夏別軾料絹三疋、絲三絇、卜部四人、夏別絹一疋、絲一絇、布二丈八尺、冬亦如之、神主二人、神祇官人二人並給当色、〈祢宜祝亦同、〉冬祭給禄十八人、神主二人、官人二人、弾琴二人、長上二人、史生二人、神部五人、卜部三人、禄法有差、
右夏四月、冬十一月上申日祭之、並用官物、其所供神物、神祇官請受儲備、雑給所須者、所司各供備之、祭日平明、所司設皇太子軽幄及群官幄於祭院、大臣以下各就座、訖監祀官進申行事参議以上、即令治部調歌吹、大蔵賜鬘木綿、次神主中臣二人進宣祝詞、訖奏歌舞、〈先山人、次神祇官一人、次神主中臣一人、次侍従二人、次内舎人二人、次大舎人二人、〉既而給群官酒食、訖各去、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
園神社一座
韓神社二座〈已上坐宮内省〉賀茂別雷神社一座
賀茂御祖神社二座
松尾神社二座
稲荷神社三座
貴布祢神社一座
鴨川合神社一座
御井神社一座
葛野月読神社一座
木嶋坐天照御魂神社一座
平野(ヒラノノ)神社四座
梅宮神社四座
乙訓神社一座
酒解神社一座〈亦号山崎神〉〈已上山城国〉
・・・
・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻8 神祇八(祝詞)平野祭条 久度古関条
【抜粋意訳】
巻8神祇 祝詞 平野祭
天皇我御命尓坐世、今木與利仕奉来流皇太御神能広前尓白給久、皇太御神乃乞志給乃麻尓麻尓、此所能底津石根尓宮柱広敷立「弖」、高天乃原尓千木高知弖、天能御蔭日能御蔭登定奉弖、神主尓神祇某官位姓名定弖進流神財波、御弓、御大刀、御鏡、鈴、衣笠、御馬乎引並弖、御衣波明多閇照多閇和多閇荒多閇尓備奉利弖、四方国能進礼流御調能荷前乎取並弖、御酒波瓺戸高知、瓺腹満並弖、山野能物波甘菜辛菜、青海原乃物波、波多能広物、波多能狭物、奥都毛波、辺津毛波尓至麻弖、雑物乎如横山置高成弖、献流宇豆乃大幣帛乎、平久所聞弖、天皇我御世乎堅石尓常石尓斎奉利、伊賀志御世尓幸閇奉弖、万世尓御坐令在米給登、稱辭竟奉久登申、⇒又申久、参集弖仕奉流親王等王等臣等百官人等乎母、夜守日守尓守給弖、天皇朝廷尓伊夜高尓伊夜広尓、伊賀志夜具波江如久立栄之米令仕奉給登、稱辭竟奉久止申、
巻8神祇 祝詞 久度古關
天皇我御命尓坐世、久度、古關二所能宮尓之弖、供奉来流皇御神能広前尓白給久、皇御神能乞比給万比之任尓、此所能底津石根尓宮柱広敷立、高天能原尓千木高知弖、天能御蔭日能御蔭止定奉弖、神主某官位姓名定弖、進流神財波、御弓、御大刀、御鏡、鈴、衣笠、御馬乎引並弖、御衣波明多閇照多閇和多閇荒多閇尓備奉弖、四方国乃進礼留御調乃荷前乎取並弖、御酒波瓺乃閇高知、瓺能腹満並弖、山野物波甘菜辛菜、青海原乃物波、鰭乃広物、鰭乃狭物、奥都毛波、辺都毛波尓至末天、雑物乎如横山置高成弖、献流宇豆乃大幣帛乎平久所聞弖、天皇我御世乎堅石尓常石尓斎奉利、伊賀志御世尓幸閇奉弖、万世尓御令坐米給登、稱辭竟奉久登申、
又申久、参集弖仕奉親王等王等臣等百官人等乎毛、夜守日守尓守給弖、天皇我朝廷尓彌高尓彌広仁、伊賀志夜具波江能如久立栄之女令仕奉給登、稱辭竟奉良久登申、
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)葛野郡 20座(大14座・小6座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 平野祭神四社(貞・並名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](ひらのの まつりのかみ よやしろ)
[Old Shrine name](Hirano no matsurinokami yoyashiro)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻16(陰陽寮) 庭火并平野竈神祭〈坐内膳司〉の条
【抜粋意訳】
巻16 陰陽寮 庭火并平野竈神祭〈坐内膳司〉
神座十二前、〈各六前、〉
名香二両、紙六十張、布一丈六尺、黍稷飯各一斗二升、酒二斗、鯉魚四隻、乾魚、鮓各二斤、東鰒二斤、堅魚六斤、豉(ミソ)、鹽各二升、赤白餅各卅六枚、棗、栗各二升、糈米[白米散米也黒米散米也]、馬穀[神馬秣也黒米也]各二斗、椀十二口、坏卌口、盤卌口、折櫃六合、桶一口、杓二柄、缶一口、中取一脚、柏六把、炭五斗、松明廿把、席四枚、食薦八枚、浄衣六具、〈料庸布六段、〉巾二条、福酒[礼畢後祝着執盃飲之不撤次次飲之謂之福酒諸祭皆有此礼云々]料銭一貫文、
右毎月癸日之中、択其吉日祭、〈若当御忌避之、〉其料物者、前祭申省、省移所司請受
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻38(掃部寮)凡四月平野祭の条
【抜粋意訳】
巻38 掃部寮 凡四月平野祭
神殿前舎北第一間南面、設女王座、東廂西面北上内侍已下座、南三間舎設皇太子御座、南舎北面東上設親王已下参議已上座、其後五位已上座、西壁下東面勅使座、其南舎北面東上設四世已上王、外記、史、中務丞録、内舎人、諸司判官、五世已下王座、其後和大江等氏人及諸司主典、大舎人座、其後太政官并諸司史生已下座、北舎南面東上神祇官人、神主、御琴師座、其後史生、官掌座、其後中臣、卜部座、南面東上治部、雅楽官人座、其後史生已下座、其後歌女座、十一月亦同、
【原文参照】
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平野神社の御祭神 四柱〈①今木神②久度神③古開神④比賣神〉について
御祭神四座
第一殿 今木皇大神(いまきのすめおおかみ)新生源気、活力生成の神)
第二殿 久度大神(くどのおおかみ)(竈の神、衣食住の生活安泰の神)
第三殿 古開大神(ふるあきのおおかみ)(邪気を振り開く平安の神)
第四殿 比賣大神(ひめのおおかみ)(生産力の神)
①第一殿 今木皇大神(いまきすめおほかみ)
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
延暦元年(七八二)十一月丁酉〈十九〉
○丁酉
叙に 田村後宮 今木大神 従四位上
【原文参照】
上記 六国史での初見は『続日本紀』延暦元年(782)11月丁酉(19日)条所在地は゛平城京の田村後宮゛となっています
それ以前の鎮座地については 諸説あり定まっていません
代表的な説を二説
㊀神名の「今木」とは「今来」すなわち新しく来た渡来人の意味であり 大和国高市郡(今来郡)において渡来人により祀られた渡来神であったとする説
㊁平野神社の社説 江戸期に、国学者の伴信友(ばんのぶとも)が諸作『蕃神考(ばんしんこう)』で、「今木神は百済王なり」との誤った説を、根拠となる資料を改竄して唱えました。今でもこの説を敷衍した説が時々出されますが、学問上では否定されています
②第二殿 久度大神 (くどのおほかみ)
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
巻第卅七 延暦二年(七八三)十二月丁巳〈十五〉
○丁巳
大和國 平群郡 久度神 叙従五位下 為官社
《巻尾》続日本紀巻第卅七
【原文参照】
上記 六国史での初見は『続日本紀』延暦2年(783年)大和國 平群郡 久度神が 官社に列したと記されています この時の鎮座地は゛大和國 平群郡゛でした・久度神社(王寺町久度)
奈良の平城京から平安遷都〈延暦十三年(794)〉に際し創建された 平野神社(京都市北区平野宮本町)の第二座に ゛大和國 平群郡゛から遷された゛久度神゛が祀られています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
承和三年(八三六)十一月庚午〈五〉
○庚午
從四位上 今木ノ大神ニ 奉授ニ 正四位上ヲ 從五位下 久度 古開(フルアキノ)兩神ニハ 並ニ從五位上ナリ
【原文参照】
平野社の祭神として 上記 六国史での初見は『続日本後紀』承和3年(836)11月庚午(5日)条に・今木大神・久度、古開両神の三柱が 神階を奉授されていますこの久度神は 神名の「くど」は(竈、かまど)の意味゛竈の神゛であるとされます
③第三殿 古開大神 (ふるあきのおほかみ)
上記 六国史での初見は『続日本後紀』承和3年(836)11月庚午(5日)条に・今木大神・久度、古開両神の三柱が 神階を奉授されています
神名の表記に「古開神」・「古関神(古閞神/古關神)」等があり いずれが正しいかは不明 祭神の詳細も諸説あり不詳
④第四殿 比賣大神 (ひめのおほかみ)
上記の 六国史での初見は『続日本後紀』承和3年(836)11月庚午(5日)条に・今木大神・久度、古開両神の三柱が 神階を奉授されていますが 比賣神は いまだに見えていません
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷十三 承和十年(八四三)十月壬申〈十七〉
○壬申
梅ノ宮 從四位下
酒解子ノ神一前 平野社一前 預ラシム之ヲ 名神ニ
【原文参照】
六国史での『続日本後紀』承和10年(843)10月壬申(17日)条で 「平野社一前」が 酒解子神(梅宮4柱の末神)とともに名神に預かったと記されます この「平野社一前」を平野社の末神の比賣神であるとする説があります この場合 承和3年(836)~承和10年(843)の間に合殿に祀られ 第四の神なったとする説もあります『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
卷十八 嘉祥元年(八四八・承和十五年)七月壬午〈廿五〉
〇壬午
奉授ニ 正四位上 今木ノ大神ニ從三位 從五位上 古開(フルアキノ)神 久度(クトノ)神ニ 並正五位下 无位ノ合殿 比咩ノ神ニ 從五位下ヲ
【原文参照】
上記 六国史での初見は『続日本後紀』嘉祥元年(848)7月壬午(25日)条に合殿比咩神として記載され これによって 平野神社の御祭神 四柱〈①今木神②久度神③古開神④比賣神〉が明確になります
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平野神社の御祭神 四柱の神階 奉授の履歴一覧
平野神社 御祭神 四柱の神階 |
|||||
『六国史』 | 今木神 | 久度神 | 古開神 | 合殿 比咩神 | |
① | 『續日本紀』延暦元年(782) | 従四位上 | |||
② | 『續日本後紀』承和三年(836) | 従四位上 →正四位上 | 従五位下 →従五位上 | 従五位下 →従五位上 | |
③ | 『續日本後紀』嘉祥元年(848) | 従三位 | 従五位上 →正五位下 | 従五位上 →正五位下 | 無位 →従五位下 |
④ | 『文徳天皇実録』仁寿元年(851) | 正三位 →従二位 | 正五位上 →従四位下 | 正五位上 →従四位下 | 正五位下 |
⑤ | 『日本三代實録』貞観元年(859) | 正二位 | 従四位下 →従四位上 | 従四位下 →従四位上 | 正五位下 →正五位上 |
⑥ | 正二位 →従一位 | 従四位上 →従三位 | 従四位上 →従三位 | 正五位下 →従四位下 | |
⑦ | 『日本三代實録』貞観五年(863) | 従三位 →正三位 | 従三位 →正三位 | 従四位下 →従四位上 | |
⑧ | 『日本三代實録』貞観六年(864) | 従一位 →正一位 |
① 『續日本紀』延暦元年(782)11月丁酉〈19日〉叙に 田村後宮 今木大神 従四位上
②『續日本紀』承和三年(836)11月庚午〈5日〉從四位上 今木ノ大神ニ 奉授ニ 正四位上ヲ 從五位下 久度 古開(フルアキノ)兩神ニハ 並ニ從五位上ナリ
③『續日本紀』嘉祥元年(848・承和十五年)7月壬午(25日)条 奉授ニ 正四位上 今木ノ大神ニ從三位 從五位上 古開(フルアキノ)神 久度(クトノ)神ニ 並正五位下 无位ノ合殿 比咩ノ神ニ 從五位下ヲ
④『文徳天皇実録』仁寿元年10月(851)乙卯(17日)条
遣使者。向平野神宮・・・故是以。正三位今木大神〈乎波〉從二位〈爾〉。正五位上久度。古開等二前〈乃〉神〈乎波〉從四位下〈爾〉。合殿坐〈須〉比〓神〈乎波〉正五位下〈乃〉御冠〈爾〉
⑤『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日甲申条 京畿七道諸神、進階及新叙。惣二百六十七社。奉授・・平野 今木神並正二位・・・平野從四位下 久度古開神從四位上・・・正五位下合殿比咩神正五位上
⑥『日本三代実録』貞観元年(859)7月14日丁卯条 授 平野正二位今木神從一位 從四位上久度神 古開神並從三位 正五位下合殿比咩神 從四位下
⑦『日本三代実録』貞観5年(863)5月2日甲子条 平野從三位 久度神 古開神 並加正三位 從四位下合殿比咩神 從四位上
⑧『日本三代実録』貞観6年(864)7月10日甲午条 進平野從一位今木大神階加正一位
八姓の氏神について
社説によれば
゛奈良時代末期から「臣籍降下(しんせきこうか・皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)」の制度が定まり、臣籍降下した源氏・平氏をはじめ、高階・大江・中原・清原・秋篠各氏ほか天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇(そんすう)されました。当社が宮中外に祀られたのは、この臣籍降下と深く関わっているようです。『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現(けんげん)であるとの説も一理あるようです゛
『二十二社註式』によれば
八姓〈源氏・平氏・高階氏・大江氏・中原氏・清原氏・菅原氏・秋篠氏〉の氏神と記しています
【原文参照】
平埜
第一 今木神 日本武尊 源氏氏神
第二 久度神 仲哀天皇 平家氏神
第三 古開神 仁徳天皇 高階氏神
第四 相殿比賣 天照大神 大江氏神
縣神〔天照太神子 穂日命〕中原・清原・菅原・秋篠 已上四姓氏神
【原文参照】
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
北野白梅町駅から西大路通を北上 約500m 徒歩8分程度
平野神社 西鳥居があります
平野神社(京都市北区平野宮本町)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 西参道を進むと
表参道に合流する辺りに 手水舎があり 清めます
参道を進み 神門をくぐります
正面には 舞殿のような 拝殿があります
拝殿でもお祈りは出来るのですが 本殿前の神門でもお祈りが出来ますので
拝殿を廻り込みながら 神門にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
振り返ると拝殿があり 御神木の楠が見事です
拝殿を廻り込みながら 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
平野祭神四社(並 名神大 月次 新嘗)
平野は 比良乃と訓べし
〇祭神 今木神、久度神、古開神、比賣神、〔祝詞式〕
〇平野村に在す、〔山城志〕
例祭 四月上申日、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭 二百八十五座、〔中略〕山城國平野神社四座、
〇江家次第云、祈年穀奉幣、平野、〔同賀茂〕廿二社注式云、上七社、〔弊数四本〕
〇拾芥抄云、卅番神平野、〔十六目〕
廿一社記云、平野社常ニハ仁徳天皇ノ垂迹卜中ス、或又仁徳ノ御弟卜モ中シ、舊記不祥、当社源氏ノ長者管領之正統〔是 神主ヲ云也〕・・・・・・・
・・・・・同注式云、第一今木神、日本武尊、源氏氏神、 第二久度神 ,仲哀天皇、平家氏神、 第三古開神、仁徳天畠、商階氏神、 第四相殿比賣、天照大神、天江氏神 ,縣神、天照大神子穂日命、中原清原菅原秋篠、已上四姓氏神、・・・・・
三僧記〔三位僧都禮覚記也〕第十云、入道兵部卿云、一ノ殿〔平氏〕、二ノ殿〔源氏〕、三ノ殿〔江家〕、四殿〔髙階〕也、代々社務ハ皆親王ナリ、・・・
考証云、平野桓武天畠外祖神也、中古以來異説乱眞、或爲ニ八姓祖神、・・・・
抑 平野神と申すは、専ら今木神を主と祭りしにて、こは和(ヤマト)氏〔後改ニ高野〕の祖神に坐し、其和氏なる光仁天皇の皇后髙野新笠〔桓武天皇御母〕崇敬異なれば、桓武天皇御宇 大和國に坐し時、田村後宮に移し祭り叙立なしめ、山城國に遷都の頃、また今の平野に祭られ、共に和氏人をして仕奉らしめ給えるならん、
〇今木神と稱するは、大和國の地名と聞えて、欽明紀に、大和國今来郡、・・・
其は戎入の帰化せるを安置れたるにて、今来の義ならん、今木の地今詳ならず、吉野郡に今木村といふあり、此處か、今木神は和氏の祖 百済より帰化せるはじめ、其今木に祠を建て、今木神を崇め奉りしに、恐らく違ふまじ袋草紙に平野の御歌「白壁のみこの みおやのおほらこそ 平野の神のひゝこなりけれ(白壁王(光仁天皇)の皇子(桓武天皇)の御母(高野新笠)の祖父(和某)は平野神の曾孫である)」と見えたり、されば今木神は、百済国王なる事明らか也、」
續日本紀、延曆八年十二月乙未、・・・・・」など考合すべし、〇久度古開〔或は古開、又古関とも見ゆれど、多きに依て古開とす、假字もフルアキを用ふ、〕
両神、その久度神は、大和國平群郡久度神〔淡路國三原郡久度神社もあり〕なるべし、古開神は未考へ得ず、當社に移しし後は廃亡せるにや、この両處も祭神詳ならずといへども、かならず、和大江両氏に由縁ある神なるべし、・・
さて、當社今木神は、和氏の祖神たるに依て、其裔なる和氏、また由縁ある大江氏等をして、神司とせし事は、太政官の文にて明らか也、・・・〇平氏の祖としたるは、公卿補任に、・・・・・・・平野社は即ち平の字にて、・・・桓武天皇の建立し給ひし社なれぱ、當社に天皇をしも合せ祀り、氏社とき成たるならんか、・・・・日木紀畧寬仁三年十一月八日庚申、・・・・など見ゆるも、藤氏の繁榮を羨むよりの事なるべし、もとより氏社の慥ならざる故なりけり・・
〇源氏の祖としたるは、左經記、寛仁四年四月三日、・・・」中院通秀公記、文明十三年三月廿五日、・・・・」これも平氏と同じく、當社を氏社と崇めしなるべし、かくて平野神を八姓の祖神といふことは、何の時より始りけん祥ならず、・・・上に引る廿ー社記の文を見るべし、かへすかえすも當社の御祭を、廿二社注式に云る如きは不審の事也、
ただ中昔に諸蕃の神を祭るといふを、卑しきやうに思へるよりの志わざならん、・・・・但し四座に並びます縣宮 祭神 穂日命とあるは、舊は傳へなるべし、・・・」〇蕃神考に、此四座を、今木神は百済聖明王、」久度神は土師氏始祖土師部臣某、」古開神は桓武天皇外曾祖父大江朝臣某」比賣神は同外曾祖母毛受氏と考識志たるは、卓見ながら、神の御事をかく推量に究め申さんは、恐れある事なれぱ、穴賢いかにとも論せず、
鎮座
廿二社注式曰、延喜格云、桓武天皇延曆年中、立ニ件社之日、點ニ定四至、云々
神位 官社 名神
續日本紀、
延暦元年十一月丁酉、叙ニ 田村後宮 今木神 從四位上、
延曆二年十二月丁巳、大和國 平群郡 久度神、叙ニ 從五位下、爲ニ官社、〔以上平野鎮座以前〕
續日本後紀、
丞和三年十一月庚午、從四位上 今木大神、奉レ授ニ正四位上、從五位下 久度古開両神、並從五位上、
同十年十月壬申、平野社一前預ニ之名神、
嘉祥元年七月壬午、奉授ニ正四位上 今木大神 從三位、從五位上 古開神、久度神、並正五位下、无位合殿比咩神從五位下、
文徳實錄、
仁壽元年十月乙卯、遣ニ使者向ニ、平野宮、策命曰、〔中略〕故是以正三位 今木大神 從二位爾 正五位上 久度古開等二前乃神 從四位下爾、合殿坐須 比咩神 正五位下乃御冠、上奉利崇奉流狀乎、参議從四位下左大辨兼行左近衛中将 陸奥出羽按察使 藤原朝臣良相乎差使、中奉出須云々、三代實錄、
貞観元年正月廿七日甲申、奉レ授ニ平野今木神正二位、平野從四位下 久度古開神 從四位上、正五位下 合殿比咩神 正五位上、・・・
同年七月十四日丁卯、授ニ平野 正二位 今木神從一位、從四位上 久度古開神 並從三位、正五位下 合殿 比咩神 從四位下、
同五年五月二日甲子、平野從三位久度神古開神 並加ニ正三位、従四位下 合殿比咩神 從四位上、
同六年七月十日甲午、進ニ平野従一位 今木神階、加ニ正一位、官幣 神寶
三代實錄、
貞観七年四月十七日丁卯、参議從四位下守右大辨兼行播磨権守大江朝臣音人、向ニ平野社 奉ニ楯鉾御鞍等、」
同十二年十一月十七日乙丑、・・・
同十四年三月廿三日癸巳、今春以後、・・・・
元慶元年七月十九日戊午、・・・
同二年三月九日乙巳、・・・
同四年二月五日己丑、・・・
仁和元年九月廿二日癸卯、・・・社地 造営 遷宮
類聚三代格、貞観十四年十二月十五日、・・・
百練抄、建長六年十月廿九日戊戌、・・・
祭祀
公事根源云、平野祭 ,四月上申日、・・・
甘二社注式云、清和天皇貞観元年十一月九日、・・・臨時祭
日本紀略、寛和元年四月十日甲申、・・・
行幸
廿二社注式云、圓融院天元四年十二月廿日始、
神田 月料 社領
三代實禄、
貞観七年四月十七日丁卯、・・・
仁和元年二月八日甲牛、・・・大炊式云、平野古開久度三神、各物忌一人、
〇當代 社領御朱印高、百石、
社職 宮寺
式三、臨時祭 凡平野神殿守者、以ニ山城國 搖丁一人
〇符宣抄、天曆三年七月廿五日、・・・
日本紀畧、天元四年二月廿日戊子、・・・雑事
・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
【抜粋意訳】
平野祭神(ヒラヌノマツルカミ)四座
今 平野にあり、〔山城志〕
今木神(イマキノカミ)、久度神(クトノカミ)、古開神(フルアキノカミ)、合殿に坐(マス)比咩神(ヒメノカミ)を祀る、〔貞観儀式、延喜式〕桓武天皇 延暦十三年、始て社を建つ、〔類聚三代格、江家次第、十三年據一代要記、〕〔〇按年中行事秘鈔、諸神記並に云、延曆年中社を立つ、其幾年を言はず、故今要記に從ふ〕
初 今木神、久度古開神、並に大和國に坐しが、此に至て神等の請し給ふままら之を遷し奉りき、〔延喜式〕〔〇按 比賣神も同しく此時に移奉りしなるへけれと考ふる所なり、後考を俟つ〕
盖 桓武天皇の御母 高野(タカヌ)皇太后 天高知日乏子姫(アメシラスヒノミコヒメ)尊の遠祖、百済國(クダラノクニ)主を祭る、〔参取續日本紀、新撰姓氏録、袋草子〕
聖明王の大祖 都慕王は、其生るる時 日神の霊を降し給ひ、即 百済を開きし人也、〔續日本紀〕
久度ノ神 古開ノ神、及此咩神は、盖皇太后の御母 大枝朝臣(オホエノアソミ)の祖(オヤ)、及族類の神を祭れり、
此故に、桓武天皇の後王及 大江(オホエ)和(ヤマト)氏人、みな其祭に預る、〔延喜式〕
仁明天皇承和三年十一月庚午、從四位上 今木大神に正四位上を授け、從五位下 久度古開二神に從五位上を加へ、十年十月丙辰、平野社一前を名神に預らしめ、〔〇按 一前は、即 今木大神なり、〕
・・・・
・・・・
・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
平野(ヒラヌノ)祭ル神四座(並 名神大 月次 新嘗)
祭神
今木(イマキ)ノ神
久度(クト)ノ神
古開(フルアキ)ノ神
比賣(ヒメ)ノ神今按二十二社註式に 第一今木ノ神ハ 日本武尊源氏氏神 第二久度ノ神ハ仲哀天皇平家氏神 第三古開ノ神ハ仁徳天皇高階ノ氏神 第四相殿ノ比賣ハ天照大神ノ大江氏神とあれど 更に證なければ信がたきこと
神名帳考証に
平野ハ桓武天皇外祖神也 中古以來 異説乱レ眞ヲ爲ニ八姓祖神或爲 仁徳庿皆齟齬于式文とあるが如し祝詞考に
此社の始のことは廃帝未だ大炊ノ王と聞えて 奈良の田村に おはしたるを天平寶字元年四月 皇太子に立玉ひたり 其田村におはします 今木ノ大神を天皇と聞え奉りて 殊に崇みませしを 後に桓武天皇平安城へ遷し奉り玉へるなるべし久度古開の二社も田村におはせしか異所なれどよし有て同じく遷し奉られ玉へるが未だよく知らずとみえ神社覈録に
平野神と申すは、専ら今木神を主と祭りしにて、こは和(ヤマト)氏〔後改ニ高野〕の祖神に坐し、其和氏なる光仁天皇の皇后髙野新笠〔桓武天皇御母〕崇敬異なれば、桓武天皇御宇 大和國に坐し時、田村後宮に移し祭り叙立なしめ、山城國に遷都の頃、また今の平野に祭られ、共に和氏人をして仕奉らしめ給えるならん、今木神は 和氏の祖 百済より帰化せるはじめ、其今木に祠を建て、今木神を崇め奉りしに、恐らく違ふまじ袋草紙に平野の御歌「白壁のみこの みおやのおほらこそ 平野の神のひゝこなりけれ」と見えたり、されば今木神は、百済国王なる事明らか也、」
續日本紀、延曆八年十二月乙未、・・・・・」など考合すべし、・・・・・神位
續日本紀、
延暦元年十一月丁酉、叙ニ 田村後宮 今木神 從四位上、
延曆二年十二月丁巳、大和國 平群郡 久度神、叙ニ 從五位下、爲ニ官社、〔以上平野鎮座以前〕
續日本後紀、
丞和三年十一月庚午、從四位上 今木大神、奉レ授ニ正四位上、從五位下 久度古開両神、並從五位上、
同十年十月壬申、平野社一前預ニ之名神、
嘉祥元年七月壬午、奉授ニ正四位上 今木大神 從三位、從五位上 古開神、久度神、並正五位下、无位合殿比咩神從五位下、
文徳實錄、
仁壽元年十月乙卯、遣ニ使者向ニ、平野宮、策命曰、〔中略〕故是以正三位 今木大神 從二位爾 正五位上 久度古開等二前乃神 從四位下爾、合殿坐須 比咩神 正五位下乃御冠、上奉利崇奉流狀乎、参議從四位下左大辨兼行左近衛中将 陸奥出羽按察使 藤原朝臣良相乎差使、中奉出須云々、三代實錄、
貞観元年正月廿七日甲申、奉レ授ニ平野今木神正二位、平野從四位下 久度古開神 從四位上、正五位下 合殿比咩神 正五位上、・・・
同年七月十四日丁卯、授ニ平野 正二位 今木神從一位、從四位上 久度古開神 並從三位、正五位下 合殿 比咩神 從四位下、
同五年五月二日甲子、平野從三位久度神古開神 並加ニ正三位、従四位下 合殿比咩神 從四位上、
同六年七月十日甲午、進ニ平野従一位 今木神階、加ニ正一位、祭日
四月二日
社格
官幣大社
所在
平野村(葛野郡衣笠村大字小北山)
【原文参照】