日吉神社(ひえじんじゃ)は 国の史跡「布勢古墳」と同じ丘陵地にあり 俗に「布勢の山王さん」と呼ばれ親しまれています 境内摂社の天穂日命社〈あめのほひのみことのやしろ〉は 山王社地宝筐印塔(さんのうしゃじほうきょういんとう)を御神体とする式内社 因幡國 高草郡 天穗日命神社の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
・日吉神社(Hie shrine)
・天穂日命社〈Amenohohinomikotonoyashiro〉〈境内摂社〉
[通称名(Common name)]
・山王さん(さんのうさん)
・布勢の山王さん
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市布勢469
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴神(おほなむちのみこと)
大山咋神(おほやまくいのかみ)
《配》大山津見神(おほやまつみのかみ)
少名毘古那神(すくなひこなのかみ)
猿田彦神(さるたひこのかみ)
《合》素盞嗚尊(すさのをのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
ふるさと文化探訪
日吉(ひえ)神社
日吉神社は、国の史跡「布勢古墳」と同じ丘陵の山地内にあって、俗に「布勢の山王さん」と呼ばれ親しまれている。
室町時代の守護大名山名氏が天神山城を因幡支配の拠点とするとき、近江国の坂本から日吉神社の御分霊を勧請して祀ったのが始まりと伝えられる。
小児の疳を治す神社としても有名である。
平成四年三月 鳥取市教育委員会現地案内板より
【由 緒 (History)】
拝殿に掲げられた但書 昭和29年とあり 当時の宮司さまのものだろうか 御神威の登揚が創建時より記されています
東に千代の廣野を越えて久松を望み 西に清澄なる長者の湖面を控へて 宛も屋形に似たる丘陵眺望と要害に富む天恵の地 緑樹鬱蒼の霊地 誠に日吉の神域 神霊鎮まり給ふなり
山名の城趾として 史実は遠ひ千百歳の昔日を偲ふ宣なる哉 六百年の歳月を遷して 茲にそれを播く遠く 興国六年 足利将軍の氏神と定めし近江日吉大社の御分霊を此の地に勧請し 因伯但木義の鎮台 山名氏の守護宮として 當日吉神社の奉斎を企て 以来九年の歳月をついて 着社表を整へ正平九年 大願主 山名伊豆守時氏の名を以て奉祭安鎮の典儀を了へ 国家安泰 領国繁昌を祈って自ら神領の保護に任しけり怒へは 創草以来 當日吉神社の御神威の煌こたる希勢城主世代は申すには及ばす 亀井氏に至って新に神領を加へて尊崇殊更なりし自つと藩士領民この風を習ふ
池田因伯太守の守護神としては位格別に遇せらる 以来 歴代嫡嗣を始め姫君を當宮のつけ氏子と定めて崇敬を篤うし
明治初期に至って 山王子供講社の設定を見る 創祀六百年 春夏秋冬 祭事は繰返へされたる 創業を追慕し 永なへに神験のかかやかしきを賛奉つて 報本反始の至誠を協せ社境を安堵し社殿環を修覆し以て御神徳に応へ奉らむとす山名の誠心を承けつきて弘く奉賛の儀を進め御神威を登揚して小國民安泰の悲願茲に成就せしこそ誠に世紀のつとめなり諸の願なり大神威裕く豊に垂れ給へと御神霊の大前に精進祈念の辞を捧く維時 甲牛 昭和二十九年のよきひ 勤白
拝殿に掲げられた但書より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・小日吉神社《主》大己貴神,大山咋神
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境内摂社《式内社の論社》
・天穂日命社(あめのほひのみことのやしろ)《主》天穂日命
天穂日命
この社は天穂日命(出雲臣らの祖先とされた神)を祀ったものです。ご神体は社務所の裏庭に奉られている宝筐印塔(穂拾塔)と言い伝えられている。現地立札より
御神体とされる宝筐印塔(穂拾塔)について
山王社地宝筐印塔(さんのうしゃじほうきょういんとう)
市指定有形文化財 昭和五十六年七月三十日山王社地宝筐印塔が文献に最初に現われるのは、
江戸時代前期の著作『因幡民談記』で、布施(勢)城図の中に「ホヒロヒ五リン」として山王社参道脇に図示されています。
江戸時代中期の著作『因幡誌』は正しく宝筐印塔とし「昔は山王の社前の松原の道より北の方の田の中にありしと、近年社司の後園に安んず。(中略)按ずるにその型式宝経印塔なり」と記しています。「近年社司の後園に安んず」というのは現在の位置(社務所の裏庭)に相当すると考えられ、参道脇から移されて約二百年ほど経過したことになります。
石塔は花崗岩(かこうがん)でつくられ表面の摩滅(まめつ)が著しく、相輪部(そうりんぶ)は失われています。基礎の側面には「中心飾りつき格狭間(こうざま)」をもっており、これは但馬(たじま)・丹波(たんば)地方の特色です。塔身(とうしん)の四面すべてには、月輪(がちりん)で囲まれた金剛界四仏(こんごうかいしぶつ)の梵字(ぼんじ)が刻まれ、笠は標準的な段型で隅飾(すみかざ)りはやや外側へ傾斜しています。製作年代は南北朝前期から中期にかけての頃と推察されています。
平成十五年三月 鳥取市教育委員会現地案内板より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
境内摂社
・天穂日命社《主》天穂日命《式内社の論社》
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高草郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天穗日命神社
[ふ り が な ](あまのほひのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanohohi no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社で 天穗日命神社と称するのは 三ヶ所あります
山城國 宇治郡 天穂日命神社
・天穂日命神社(伏見区石田森西)
因幡國 高草郡 天穗日命神社
・天穗日命神社(鳥取市福井)
・天穂日命社〈日吉神社 境内摂社〉(鳥取市布勢)
出雲國 能義郡 天穗日命神社
・支布佐神社
・能義神社
・切川神社《参考》
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
湖山池東岸の丘陵上には 約1500年前の前方後円墳・布勢古墳〈古墳時代後期における因幡地方の有力首長墓の系列を形成する古墳〉があり 同じ兵陵の山地内の卯山(40m)に鎮座する
社殿 境内は 東を向いていて 背中に湖山池がある
参道は社頭から 西へと湖山池東岸の丘陵にある境内に向かうように続き
鳥居が建ち 山王宮日吉神社と記されています
鳥居をくぐり 参道を進むと
日吉神社(鳥取市布勢)&天穂日命社〈境内摂社〉に参着
参道石段下の手水舎には 珍しい お猿さんが持った打出の小槌から水が出ています
傍らには 水神でしょうか 小さな石祠が祀られています
石段の下には
《式内社の論社》天穂日命社(あめのほひのみことのやしろ)の御神体と伝わる「山王社地宝筐印塔」についての説明があります
石段を上がって行くと 山王宮の社号提灯を提げる社殿が見えてきます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座し 本殿の脇にはブロンズ製のお猿さん像があり 向かって右には幣を持つ 向かって左は小猿を抱き抱えています
境内社にお詣りをします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承
日吉神社について 「5月15日の例祭日には 参拝人が2万を越え 山陰本線が臨時列車を増発した」近郊の人々の崇敬が厚かったことが記されています
【抜粋意訳】
村社 日吉神社
氣高郡松保村大字 布勢字村土居鎮座祭紳 須佐之男命、大山津見神、猿田毘古神、少彦名紳、大穴牟遅神、
由緒
当社は俗に布勢山王と称し、其の創立は興國年中 山名伊豆守時氏 因幡國高草郡布勢村天神山に本城を構へ、因幡、伯耆、丹波、丹後、美作の五ヶ國を領せし頃、布勢村宇山に社殿を造営し、近江國坂本なる日吉神社の御分霊を勧請して奉祀せるに始まる、尚唐崎、八王子の両社を本社の左右の丘上に鎮祭し、社殿の構造等専ら近江日吉神社に模倣せり、天正八年豊臣秀吉因幡諸城を攻略するに際し時氏の天紳山城亦陥落す、従って宇山なる本社も社殿悉く兵焚に罹り、神領も亦没収せらる、其後亀井武蔵守気多郡鹿野城に居を定ひるや、深く当社を尊崇し、社殿を修理し、神領一石六斗五升三合を寄進す、次いて享保元年松平壹岐守仲澄社殿及び外構を修理す、嘉永三年松平因幡守慶行社殿其他を再建せり、爾来藩主池田家の尊崇篤く、其の誕生に際しては当社を以て産神となし、歳歳月々の参拝を怠らず、加ふるに紳輿を始め祭具一切に至る迄藩の造営に係れり、慶應年中社領を上地す、明治五年郷社に列せられ、次いて同年十一月郷祀を罷めて村社に列格せらる、明治四十年四月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、尚當神社は小児守護の神又疳病の神として霊験著しく、焉に因幡一圓及伯者但馬に亘りて地方民の尊崇信仰篤く常に賽者腫を接す、殊に毎年五月十五日例祭日には参拝人實に二萬を超へ、山陰線亦臨時列車を増発するの盛儀を呈す。
境内神牡 小日吉神社 祭神 本社に同じ
例祭日 五月十五日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、紳輿庫
境内坪数 五百三十八坪
氏子戸数 三十九戸
【原文参照】
式内社 因幡國 高草郡 天穗日命神社の伝承について
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の氏神・天穂日命 六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
【抜粋意訳】
天穂日命(アメノホヒノミコト)神社
三代実録 貞観九年五月二十一日己未 詔又以・・因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社
志 大谷保福井村氏神 華表額曰 天穂日命六王神社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
【抜粋意訳】
天穂日命神社
天穂日は 阿麻乃保比と訓べし
〇祭神 明らかなり
〇大谷保福井村に在す、今 六王神社と称す 因幡志類社 山城國 宇治郡 天穂日命神社
官社 三代実録 貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
祭神の考証がなされていて 興味深い
【抜粋意訳】
天穂日命神社
祭神 天之菩卑能命
今按〈今考えるに〉
天穂日命 天日名鳥命は
出雲国造神賀詞に
「出雲臣等が遠祖 天穂比命を國體見に遣はしし時に 天の八重雲を押し別けて天翔り國翔りて 天下を見廻りて返事申し給はく 豊葦原の水穂國は 昼は五月蝿如す水沸き夜は火瓮の如く光く神在り 石根木立青水沫も事問ひて荒ぶる國なり
然れども 鎮め平けて皇御孫命に安國と平けく知ろしめし坐さしめむと申して 己命の児 天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し遣して荒ぶる神達を撥ひ平け 國作しし大神をも媚ひ鎮めて大八嶋國の現事顕事事避らしめき」とみえたるを神代巻に
「高皇産靈尊は 八十諸神を集めて問うに
「吾は 葦原中国の邪神を追い払い平定するに 誰を派遣せればよいか ここに居る神々よ 知ることは隠さず申せ」
神々の答え「天穗日命(あめのほひのみこと)が優れている 試すべきだ」
そこで高皇産靈尊は 神々の意見に従い 天穗日命を葦原中国に送り 平定しようとした
しかし この天穗日命は 大己貴神(おほなむちのかみ)の機嫌を取り 三年たっても 報告しなかった 云々」
また 神代巻一書「高皇産靈尊 勅して 大己貴神曰 云々 当主として 汝の祭祀者は 天穗日命(あめのほひのみこと)なり」とあるによりて賀茂真淵が説に
穗日命は スサノヲノ命の御子なり 大名持命はスサノヲノ命の六世の孫也 され共 大名持命は天神 スサノヲノ命の詔を受得て天下を平らげ 諸の国を作り成りて大国主におはすれば 天つ神王といへども 遂には媚玉ひて言治め成ましつ 然れば 穗日命の天降て三年なるまでに 漸に媚和し宣しき時を以って 天に復命申て 遂に 天夷鳥命 布都奴志命を天降し 建き御稜城と和し治むると二つもて 大名持命の日隅宮をば天津神の御巣如て祟み斉ひ祭らむてふ契して避ひそまりまさしめたるは 専穂日命の思兼によれり 故に終の祭をば この命のなさむものとは詔ひしなりけり
この事 古事記 日本紀の一わたりの言にのみよらば罪有るべきをさはなくて 此命に大名持命の祭をなさむものと詔ひ 又 この命 天へ帰りまさすは 此神王の命も有べからず 末にも下つ国に此命の坐よしも有べし 父命の命に順と云るも かく媚すは治むべからずをもてのわざと知らる
古事記と紀とにもれたる事を 此 神賀詞の古き伝へを むかへて思ひはかるべきなりと 云れたるが如く 其の功烈あらざらんには 何て神社に祭らるべきかかる理を知りて 此神の祭るる故をも思辨ふべし 況や 此以下の数社みな野見宿祢を祭れるに附て其の氏人の祟め祭れる者なるをや官社
清和天皇 貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社祭日 四月九月 九日
社格 村社(明細帳に明治四年郷社に列せられ云々あり)
所在 大谷保福井村 字村字谷ノ二(氣髙郡大郷村大字福井)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉としていますが
もう一ヶ所 布勢村に一社あり〈現 日吉神社境内社 天穗日命神社(布勢)〉も記しています
【抜粋意訳】
〇鳥取縣 因幡國氣髙郡 大郷村大字福井字宮ノ谷
郷社 天穂日命(アメノホヒノミコトノ)神社
祭神 天穂日命(アメノホヒノミコト)
本吐一に天穂日命六王神社と称すること鳥居の額に記せり、創立年代詳ならず、三代実録に「清和天皇貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社云々、上世当国神社位授ニ三位者無一二紳外」とあり、以って当社の如何に住昔より朝廷の御崇敬厚かりしを知るべし.降って延喜の制式内小社に列せらる。実に旧髙草郡七座の一にして、古来当村の鎮守たり、明治四年郷社に列す.社殿は本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫等にして.境内千八百坪あり
式の所謂 天穂日命神社と称するもの.別に布勢村に一社あり.為めに因幡志の如き之を決する能はずして、
「南北保布勢村山王権現 摂社保比呂比の五輪と称する碑碣 是也と
叉大谷保福井村の氏神 天穂日命六王神社と号するあり、正しく花表の額に註せり、二所紛亂として決しがたし」と云えり、五輪と称する碑碣、是著者の大に感ふ所なるべし。
伴氏神名帳考証に「大谷保福井村氏神 華表額曰 天穂日命六王神社」と注し、神祇志料更に「今大谷保福井村に在り」と云い、又「天穂日命六王神社と云ふ」と付記せるあれば参考すべし。
【原文参照】
日吉神社(鳥取市布勢)&天穂日命社〈境内摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)