林田八幡神社(はやしだはちまんじんじゃ)は 社伝には 寛平5年(893)五月 国土安穏と子孫繁栄の為 山城国 石清水八幡宮の分霊を勧請し創建と伝わり 旧 八幡宮境内には古くから 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)があったが 頽廃し 八幡宮に合祀されたと云う
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
八幡神社(Hachiman shrine)
【通称名(Common name)】
林田八幡神社(Hayashida hachiman shrine)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県姫路市林田町八幡749
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》品陀和気命(ほむたわけのみこと)
《配》足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
《合》五十猛命(いたけるのみこと)〈中臣印達神社〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
八幡神社
社伝によると寛平五年(八九三)に口佐見・奥佐見・林谷・林構・松山・山田・大堤の三六名が山城国 石清水八幡宮から当地 鈴が峯の山麓に分霊を勧請したという。三六名の子孫は小烏帽子(こえぼし)と呼ばれ、年二回遙拝式を行うなど当社の神事に深く関わってきた。源頼朝・赤松円心・新田義貞・羽柴秀吉・池田輝政ら名だたる武将の崇敬も伝える。
江戸時代には林田藩主 建部氏が当社を産土神・祈願所として崇敬し、建部政宇(たけべまさいえ)寄進の宇治川先陣図絵馬や政宇・政賢(まさたか)・政醇(まさあつ)寄進の石燈籠など藩主ゆかりの遺品も多い。現在の祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇。
平成一四年九月 姫路市教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由 緒
寛平5年(893)五月、林田庄内(今の林田町)の有志36名により、国土安穏と子孫繁栄の為、神祇に祈らんとする念が強かった。その時、今の鎮座地の峯に鈴の鳴る音が頻に聞こえ、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。
人々はこれを神を祀るべき地の瑞兆として評議一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請して奉る為に、この社地より南十町の所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して、山城国男山に上り、八幡宮の分霊を勧請具奉して還った(寛平5年8月15日)(893)。同月28日、社地を定め幣物を捧げ、再び9月2日に三村左近藤原兼久以下35人が列座し、神酒を捧げ、同月8日に仮殿を設けて遷し奉る。これが当社の創立である。延元元年(1336)新田義貞が戦勝を祈願して「神祇」の二大文字額(弘法大師の書)を納めた。また、江戸時代には池田輝政が当社を崇敬し、木製の高麗狗二躯を奉納した。
林田藩主の建部公は、8代250年の間、明治維新まで代々当社を産土神とし、祈願所として強く崇敬し、石灯燈等の奉納がある。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6316302.html
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・林田八幡神社 本殿
・林田八幡神社 社殿
・林田八幡神社 拝殿
・〈本殿奥の高台 境内社2社〉
・高良神社《主》武内宿禰
・松尾神社《主》木花之佐久夜毘賣命
・〈拝殿の向かって右の境内社 3社合殿・聖社・天神社・稲荷社〉
・絵馬殿・舞台殿
・絵馬〈延元元年(1336)新田義貞が戦勝を祈願して「神祇」の二大文字額(弘法大師の書)を納めた物の写し〉
・その他の絵馬
・参道石段
・隋神門
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・
・・・海神社三座 粒坐天照神社一座 中臣印達神社一座 家嶋神社一座 伊和神社一座〈已上播磨国〉
・・・
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 中臣印達神社(名神大)
[ふ り が な ](なかとみ いんたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakatomi intachi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)の論社
・中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)
・林田八幡神社(姫路市林田町)
・魚吹八幡神社(姫路市網干区宮内)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR姫新線 東觜崎駅から北上 約6.4km 県道519号で揖保川の支流 林田川を渡るとすぐ 車で10分程度
県道519号から案内板に従って左折
直ぐ右手に参道があり 社頭に通じています
林田八幡神社(姫路市林田町)に参着
林田八幡神社の祭礼一覧があり 中臣印達祭 四月十五日 とあり 祭神 五十猛命(いたけるのみこと)〈中臣印達神社〉の祭日が記されています
祭記事◆中臣印達祭(4月15日)
◆中臣印達祭(4月15日)当年の作付けの稲の品種を占う祭りとして早稲、中稲、晩稲の稲穂を供え、豊作を占い氏子の人たちが撤饌として稲穂を持ち帰り播種する
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6316302.html
一礼をして 隋神門をくぐります
なだらかなスロープの石畳が 参道となっていて その先は石段の参道となります 石垣で養生されており まるで城壁の様にも感じられます
踊場には 青銅の神馬像があり 石灯籠が構え 石段の下には注連柱があり 一礼をして 石段を上がります
向かって左手の上に 絵馬殿があり゛神祇゛の文字が掲げられています
この゛神祇゛の文字は
延元元年(1336)新田義貞が戦勝を祈願して「神祇」の二大文字額(弘法大師の書)を納めた物の写し
拝殿にすすみます
奉献酒の樽酒゛八重垣゛
扁額には゛八幡宮゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿は奥行があり その奥に幣殿・本殿が続いています
参拝日は1月28日でした 厄神祭の立札が置かれていました
祭記事◆厄神祭(2月19日)
◆厄神祭(2月19日)江戸時代より続く厄除け祭、早朝より厄除け祈祷を行う。地元の厄年(男)総出で樽酒、おでんの振る舞い、福引、大もちまき等で行われる。多数の参拝者で賑わう。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6316302.html
社殿に一礼をして 参道石段を下ります
石段を下り終えると スロープになっている石畳の参道の先に隋神門が見えてきました
社頭に止まっていた軽トラの荷台には゛厄神祭の立札゛が積まれていました
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 中臣印達神社について 所在は゛揖西郡中陣村に在す、゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達神社
中臣は 奈賀止美と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕中臣
印達は 伊多知と訓べし、和名鈔、飾磨郡印達 假字の如し、射楯兵主神社の射楯と同じ地名と思はるれば、今 伊多天と讀り、此帳の假字インタチとあるは、後人の所意なる事明かなるべし、
〇祭神詳ならず
〇揖西郡中陣村に在す、〔播磨鑑〕今 雑王権現と稱す、〔式社記〕
古跡便覽に、其所しれずといひて、中陣村雜王権現を夜比良神社とす、今暫く多分に從ふ、猶考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 中臣印達神社について 所在は゛今 揖東郡中陳村にあり、産土神とす、゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達(ナカトミイダテノ)神社
今 揖東郡中陳村にあり、産土神とす、〔播磨事始、龍野藩式社取調帳〕
盖 五十猛命を祭る、〔日本書紀、延喜式、〕〔〇按 倭名鈔、本郡中臣郷にあり、蓋此地也〕
平城天皇 大同元年、中臣神に神封五戸を充奉る、盖此神也、〔新抄格勅符〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 中臣印達神社について 中臣とは゛中臣は中臣氏の事にあらすして地名と聞ゆれば 中臣の地にます印達神と云ふ゛と記し
所在は゛揖東郡奥佐見村 松尾山に鎭座の八幡宮゛〈現 林田八幡神社(姫路市林田町)〉だが
その他の説に゛八幡宮舊境内 東方に八幡より古く 在來の社とて舊趾は一坪餘の本殿と九坪餘の拜殿と思敷所あり 以前 頽破の時 八幡宮へ神體を遷奉りし也 其邊の地をナカトビと稱來れりと云り゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉
又゛播磨揖束郡 宮内村 魚吹八幡社゛〈現 魚吹八幡神社(姫路市網干区宮内)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達神社(名神大)
祭神
今按 祭神は中臣印達神とあるを以て 中臣氏によしある神の如く思はるれと 中臣は中臣氏の事にあらすして地名と聞ゆれば 中臣の地にます印達神と云ふにて 五十猛命を祭れるなるへし祭日 九月八日
社格所在
今按 注進狀 揖東郡奥佐見村 松尾山に鎭座の八幡宮を往古より 中臣印達神社と稱し 守札に中臣印達神社の朱印を捺し來る事も久しき也
さて古老の傳に 中臣印達社は八幡宮舊境内 東方に八幡より古く 在來の社とて舊趾は一坪餘の本殿と九坪餘の拜殿と思敷所あり 以前 頽破の時 八幡宮へ神體を遷奉りし也 其邊の地をナカトビと稱來れりと云り
然るに播磨揖束郡 宮内村 魚吹八幡社を中臣印達神社なりとも云へと 更に其證みえす 又 播磨鑑に中陣村にありともあれは 今決めかたし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)について 縣社と記し
式内社の論社として・林田八幡神社(姫路市林田町)も挙げています
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)の境内に 式内社 阿波庭神社もあったが今は廃絶とも記しています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 揖保郡揖保村大字中臣村
縣社 中臣印達(ナカトミイダテノ)神社
祭神 五十猛(イタケルノ)命
本社は舊 雑王権現 又は 中陣明神とも稱す、創建は光仁天皇 寶龜元年六月にして、萬延元年、脇坂中務少輔安宅再建し奉る、
延喜の制 小社に列せられ、新抄格勅符抄に、大同元年神封五戸を寄せられし古社にして、古來 近郷四ヶ村の産土神たり、播磨國式内神社考に云く、「今 雑王権現と唱ふ、揖西郡中陣村〔龍野に近し〕にあり、〔〇中略〕中陣村、出屋鋪、吉田村、山下村、四ヶ村の産社なり、祭主山伏實相院、
榮亮曰く、印達神社は中陣にてはなし、揖東郡林田東之宮 今は八幡宮と唱ふ」明治七年二月、村社に列し、十二年五月五日、縣社に昇格す。
社殿は本殿、拜殿、舞殿、神供所、及社務所を備へ、境内は二千八百七十五坪 (官有地第一種 )あり。
大日本地名辞書に云く、「中臣印達神社は、新抄格勅符抄に、大同元年中臣神々封五戸の事見え、今中臣の中陣明神是なり、中陣とは中臣の訛とす、播州神社記に太神二十四社のーなる射楯太神 蓋是のみ、後を姫路の射楯神に比すれば甚々衰へぬ、田問わっかに小祠を見るのみ、播磨事始に 延喜式阿波庭神社も中陣に在りしが、今亡びぬと云ふ」
境内神社
阿波庭神社 嚴島神社 天満神社 藥司神社
【原文参照】