羽浦神社(はうらじんじゃ)は 明治四十三年(1890)阿波國 那賀郡の延喜式内社の二つの論社〈・和耶神社(わやの かみのやしろ)・和奈佐意富曽神社(わなさおふその かみのやしろ)〉を含んだ 旧中庄村 旧宮倉村に祀られていた23社の神社が合祀されました この時 村社 八幡神社から羽浦神社と改称し 式内論社となりました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
羽浦神社(Haura shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉田別命(ほむたわけのみこと)
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
《配》綿津見命(わたつみのみこと)
〈明治四十三年七月十五日に合祀された神社の御祭神〉
《合》淡夜別命,大穴牟遅命,国常立命,少彦名命,弥都波能売命,和奈佐毘古命,和奈佐毘売命,天児屋根命,天照皇大神,大己貴命,少彦名命,事代主命,野槌命,菅原道真,水波女命,大国主命,市杵島比売命,手力男命,野槌命,建速須佐之男命,上筒之男命,中筒之男命,底筒之男命,宇摩志麻遅命,大山祇命,須佐之男命,誉田別命,天児屋根命,稲倉魂命,天照皇大神,大己貴命,少彦名命,埴安姫命,稲倉魂命,天照皇大神,大己貴命,少彦名命,埴安姫命,稲倉魂命,
当社に奉斎せられる御祭神
社名 祭神 合祀前の鎮座地 村社 八幡神社 誉田別命 足仲彦命
氣長足姫命
中庄村字千田池 式内社 和耶神社 淡夜別命 宮倉村字背戸田 村社 國中神社 大穴牟遅命 國常立命
少彦名命
彌都波能賣命
宮倉村字國中 (現在の春日野)
式内社 和奈佐意富曾神社 和奈佐毘古命 和奈佐毘賣命
宮倉村字羽ノ浦居内 無格社 春日神社 天兒屋根命 宮倉村字羽ノ浦居内 無格社 地神社 天照皇大神 大己貴命
少彦名命
稲倉魂命
埴安姫命
中庄村字千田池 無格社 事代主神社 事代主命 中庄村字千田池 無格社 野神社 野槌命 中庄村字千田池 無格社 天神社 菅原道實命 中庄村字千田池 無格社 貴船神社 水速女命 中庄村字高田 無格社 高田神社 大國主命 中庄村字高田 無格社 嚴島神社 市杵島比賣命 中庄村字那東原 無格社 住吉神社 綿津見命 手力男命
中庄村字トキ内 無格社 野神社 野槌命 中庄村字中塚谷 無格社 八坂神社 建速須佐之男命 羽ノ浦居内春日神社境内社 無格社 住吉神社 上筒之男命 中筒之男命
底筒之男命
同 境内社 無格社 宇多神社 宇麻志麻遅命 同 境内社 無格社 大山積神社 大山祇命 同 境内社 無格社 八坂神社 須佐之男命 宮倉字背戸田和耶神社境内 無格社 今宮八幡神社 誉田別命 同 境内社 無格社 吉野神社 天兒屋根命 同 境内社 無格社 稲倉穂神社 稲倉魂神 同 境内社 無格社 地神社 天照皇大神 大己貴命
少彦名命
埴安姫命
稲倉魂命
同 境内社 和耶神社相殿 今熊野神社 伊邪那岐命 宮倉村字背戸田 本碑 寄贈者 橋本一男 橋本栄子
発起人 山本晴雄 谷幸雄 井谷鶴太 湯浅義祐 豊朝正行 岩田福江現地石碑文より
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・諸厄諸災難除の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社を合祀
【創 建 (Beginning of history)】
羽浦神社 由緒略記
鎮座地 徳島県那賀郡羽ノ浦町大字中庄字千田池三十二番地
當社は 明治四十三年七月十五日 内務省神社局 及び 徳島県の訓令により村内の奉斎せられし 左記二十三社四十柱をこの地に鎮座の村社 八幡神社に合祀し社名を羽浦神社と改称 羽ノ浦の里の総氏神として奉祀せられ 昭和十二年六月三十日郷社に昇格現在に至る。
茲に於てまず 八幡神社の縁起について記する。 創立年代不詳といえども古書 及び 社伝を見るに 天正年間 阿波國主 蜂須賀家政公 國内平穏 家運長久 御鷹狩安全祈願のため、當社に参拝 挙正寺をして八幡宮(後 八幡神社と称す)の別當職たらしめ、當社の社殿を再建す。又 慶長八年 國主 蜂須賀至鎮公 御成りの砌 蜂須賀家代々の祈願所に指定、下って萬治元年 蜂須賀光隆公 家運長久 御鷹狩安全の祈願を斎行せられ、山上に鎮座せし、社殿を現在地に建立 その折當社の社紋を鷹羽の打ち違えを用いるべき旨 仰せられ爾来 國主領主の祈願所とせらること久し。
次に合祀せられし神社の内 特筆すべきは宮倉字背戸田に鎮座の式内社 和耶神社(第五十六代 清和天皇貞観八年従五位上に叙せられる)である。 式内社とは今より約千百年前 第六十代 醍醐天皇の御宇 延喜式の神名帳に登載せられし神社をいい 由緒等最も古く、當時の古社であり 朝廷を始め國家よりの尊崇頗る篤く 阿波國で五十座年毎の祈年祭に國司の奉幣にあづかりし名社である。
和耶神社は 式内社 那賀郡七座の内の一座に数えられ 更に大日本史及び社伝に和耶神社祭禮「毎歳立春前一日村民集社前 追儺行事 畢三唱神謂之和耶和耶神事社名因茲夜不眠云々」とあり 節分の日 村民相集まり各自の厄除災難除祈願の追儺神事が盛大に斎行せられし事が明記され 御祭神が諸厄諸災難除の守護神とされている。
以上が當社の略記であるが、時代の推移にともない神社の御祭神 及び 由緒等不明の人々が多くなるを憂い このたび有志諸賢の発起と橋本氏の篤志により本碑を建立し、氏子崇敬者江湖に資するものである。昭和五十九年十月吉日 羽浦神社 宮司 中山敬子
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
式内社 羽浦神社 御由緒
明治43年中庄村、宮倉村に祀られていた和耶神社等23社を村社八幡神社に合祀して、羽浦神社と改称し、羽ノ浦の里の総氏神さんとして親しまれ、地域守り神として、また精神共同体の中心として、人々の崇敬殊の外厚く昭和12年郷社に昇格して現在に至る。八幡神社は、天正年間(1586頃)阿波蜂須賀家政公が国内平穏、家運長久、鷹狩り安全のため参拝され、慶長8年(1603年)蜂須賀至鎮公が蜂須賀家代々の祈願書と指定された。その後蜂須賀光隆公が祈願された際、社紋に鷹羽ねの打ち違えを用いるように仰せられ、爾来国主領主が祈願された。
和耶神社は、式内社とよばれ、後醍醐皇時代、延喜式(西暦905年編纂開始)の神名帳に搭載され、由緒等最も古く、当時、朝廷を始め国家から尊崇すこぶる篤く毎年祈年祭に国司の奉幣にあずかる歴史のある名社です。御祭神は諸厄・諸災難除けの守護神とされている。
その他
和耶神社は、大日本史及び社伝によると、節分の日村民の人々が相集まり、各自の厄除け、災難除け祈願の追儺(ついな)神事が盛大に執り行われたこと明記されている。
羽浦神社の祭礼に奉納される獅子舞は、明治8年ごろから那東原の弁財天の祀りに悪魔祓いとして始められ、羽浦神社に合祀後は那東原、中塚が合同して祭礼の宵宮に奉納するようになった。子供が拍子を打ち、青年によって舞い、舞は、獅子舞、ね舞、雲舞、谷渡りの舞、天井舞の5つの型に別れ、頭部と尾部の2人で舞う、全国的に珍しいので羽ノ浦町時代民族無形文化財(郷土芸能)として昭和39年に指定され、合併後阿南市に引き継がれている。
現在 寄付金募集中ー合祀100年事業として羽浦神社改築奉賛会、目標額1億3千万(23年から25年、3年間、一口1万円以上)
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・羽浦神社 社殿
・羽浦神社 拝殿
・拝殿前の鳥居
・鳥居脇の三連狛犬
・手水舎
・注連柱
・境内
・一の鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・羽浦神社に合祀された 和耶神社 旧鎮座地(阿南市羽ノ浦町宮倉背戸田)
宮倉能路寺山の西麓 能路寺山古墳の辺りにあったと伝わる
・羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曽神社 旧鎮座地(宮倉村字羽ノ浦居内)〉
羽ノ浦居内は 現在の羽ノ浦駅の辺りになり 詳細はわかりません
私の勘ですが 阿南市立羽ノ浦街区公園辺りではないでしょうか?
古墳のような盛土 社日碑が気になります
これは 推測ですので つまり正しいかどうかは わかりません
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
式内社の論社 2社〈・和耶神社・和奈佐意富曽神社〉を合祀しています
①明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和耶神社
[ふ り が な ](わやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Waya no kaminoyashiro)
②明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和奈佐意富曽神社(宮倉村字羽ノ浦居内)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和奈佐意富曽神社
[ふ り が な ](わなさおふその かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wanasaofuso no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『出雲国風土記』(和銅6年(713))の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の伝承について
『出雲國風土記』大原郡 条 船岡山(funaoka yama) に記される伝承
『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります
【抜粋意訳】
『 船岡山(funaoka yama)
郡家の東北16里の所にあります
阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』
【原文参照】
『出雲国風土記』大原郡〔不在神祇官社〕船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社
・船林神社
・貴船神社
船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)について
この神名「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから
『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富曾神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています
阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります
阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社
①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32
《主》神功皇后(じんぐうこうこう)
諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命
➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1
《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命
➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町
《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神
④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32
《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
この4社の中で
④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています
同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています
こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります
延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます
古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます
これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません
阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています
出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう
但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります
出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています
『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承
「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています
【抜粋意訳】
丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社
丹後国風土記に云う
丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る
此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る
此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た
ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う
この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った
「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」
遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う
また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です
【原文参照】
延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)
・奈具神社(宮津市由良)
・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承
『播磨国風土記』美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています
【抜粋意訳】
美囊郡(みなぎのこほり)
美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する
志深里(しじみのさと)土中中
志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する
【原文参照】
延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)
志深里(しじみのさと)に鎮座する 式内論社
・御坂神社(三木市志染町御坂)
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和耶神社(わやの かみのやしろ)の論社について
阿南市の文化財
阿南市文化財保護審議会 会長 湯浅良幸
阿南市の式内社 (三) 和耶(わや)神社
阿南市内には 延喜式内社 (小社)が五社あった。和耶神社、室比売神社、建比売神社、賀志波比売神社、八鉾神社である。五社のうち延長年間から継続しているのは八鉾神社のみである。社名に「比売」の付いているのは祭神が女神 (姫・媛 )であるからだ。
さて、和耶神社については 阿南市羽ノ浦町中庄説 と 海部郡美波町日和佐の八幡神社説の二つがあり、現在では確定出来ない。
以下、代表的な説を紹介 (原文は文語体であったり表現が学術的過ぎるので筆者が分かりやすく書き改めた)しよう。
『徳島県史』では「羽ノ浦町宮倉の能路寺(のろじ)山西麓にある熊野権現を充てている。この社では、毎年立春の前一日に゛ワヤワヤ神事゛を行っている。これには村民こぞって参拝し、ワヤワヤと三回唱えて鬼払いをした。また、倭名抄に見える和射郷(わさごう)に注目し、和射 (日和佐)辺りでないかとしている。和那佐には和奈佐富意曽(わなさふいそ)神社がある。
つまり、県史は羽ノ浦説と日和佐説を紹介し地 (郷)名から日和佐説をとっている。
倭名抄には 那賀郡に山代、大野、島根、坂野、幡羅(はら)、和泉、和射(わさ)、海部の八郷があったと記している。郷名についてはいずれ詳しく紹介したい。
『徳島県神社誌』では、明治四十三年、羽ノ浦町宮倉及び中庄にあった和耶神社と二十二社を共に八幡神社に合祀し、羽浦神社と改称した。和耶神社はもともと羽ノ浦町宮倉背戸田にあった」としている。
『阿波式内神社考』 (長谷川定彦 )では、和耶神社は宮倉村能野寺山の西麓にあり今、熊野大明神、一説には熊野権現と称している。三尺四面の小社である。
毎年正月七日の夕方、能路寺の坊さんと所の山伏が社前で読経し法螺(ほら)を吹いた。この行事を待って家々では豆を打ち追儺(ついな)をしたとある。追儺は鬼やらいといわれ、節分行事である。大豆を煎って「鬼は外、福は内」の豆まき行事である。
坊さんの読経が終わると、村の老若男女こぞって゛ワヤワヤ゛と三回繰り返して唱えた。そのため゛ワヤワヤ神事゛といわれた。ワヤは和耶神社にかけたものとしている。『阿波志』にも「『延喜式内社』である。宮倉村にある。今、熊 (野)権現という、毎歳正月七日村人集まって鬼やらいをし神名を三回唱える」とある。
『阿府志』にも「宮倉村にあり、今熊野権現と称している。別当は能呂寺である。当社毎年節分の黄昏村人豆を煎って持参し修験 (山伏)に渡す。神前でお参りがすむと、ワヤワヤと大声で三回唱えてわが家へ帰った」とある。
これらは宮倉説をとっている。
(続く )
広報あなん 5月号〈平成26年(2014年)5月1日〉より抜粋
・羽浦神社(阿南市羽ノ浦町)
〈式内社 論社 和耶神社(宮倉村字背戸田)を合祀〉
・日和佐八幡神社(美波町日和佐浦)
・宮倉神社(阿南市羽ノ浦町西春日野)〈元は隣接地の 羽ノ浦町宮倉にあり〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR牟岐線 羽ノ浦駅から県道274号を北へ約950m 車で3分程度
観音山の南南西の方角に参道は伸びていて 田の中に一の鳥居が建ちます
境内の脇には 羽浦公園と刻された石碑があり 観音山へと上る道なのか? 境内の裏手に回る道〈バリアフリー的な〉なのか? 道が付けられています
羽浦神社(阿南市羽ノ浦町中庄千田池)に参着
境内は広く 敷地は三段の境内からなっています
一番下の境内には注連柱 二段目の境内には鳥居 三段目の境内には社殿が建ちます
それぞれの段は 城壁のような立派な石垣で養生されていて 中々見事な景観です
二段目の境内の右手には 石碑があり゛郷社 羽浦神社゛と刻されています
手水舎で清めてから 鳥居をくぐり
拝殿にすすみます
拝殿は南南西を向いて建てられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が一体となった社殿です
社殿に一礼をしてから 参道石段を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛在宮倉村 林木欝然 今稱に今熊権現゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十一 那賀郡 祠廟 和耶祠
延喜式爲小祀 在宮倉村 林木欝然 今稱に今熊権現 每歳孟春七日 民聚為儺名三唱神名 赤堀良亮嘗取以為證 舊事紀云 饒速日尊十世之孫 孫淡夜別尊 大海部直等祖 弟彦命之子
【原文参照】
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十一 那賀郡 祠廟 蛭子祠
在に 和食村國初山田三哲為行營而居 又有に 八幡祠 和食 中山 二村共に祀る 又有に 古戸祠野里祀之
【原文参照】
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛舊在 鞆浦大宮山 慶長九年移之干大里松林中゛〈旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1604)に大里松林中の現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)に移した〉里人が云うには 日本武尊を祭ると云う と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十二 海部郡 祠廟 和奈佐意富曾祠
延喜式小祠たり、今八幡と稱す、古鏡及び金口 (鰐口)各一枚を納む、舊 鞘浦大宮山にあり、慶長九年 之を大里松林中に移す、興源公、屡々米若干を賜ひ、以て重葺之料となす、鞘浅川等二十一村共に祀る、
土人曰く、日本武尊を祀る也と、景行、成務、仲衣、神功、應神五帝及び息長田別皇子を以て配食す
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛祭神 在所等詳ならず゛祭神 所在は不明であると記しています
式内社 和奈佐意富曾神社と同じ所にあるのではないかと推測しています
【抜粋意訳】
和耶神社
和耶は假字也、和名鈔〔郷名部〕和射、
〇祭神 在所等詳ならず
〇播磨國風土記云、〔美囊郡 志深里の下〕伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」、下略
伴信友云、秘釋和那とある誤也、此下 和奈佐神社とあるも同じ處ならば、和射もワナサなるべし、然らばこの和邪もワナサなるべし、和那邪の三字なるか、一字脱たるにやといへり
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在・祭神はわからない と記しています
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
和奈佐意富曾は 假字也、和名鈔、〔郷名部〕和射
〇祭神詳ならず
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 和耶神社について 所在は゛今 宮倉村にあり、今 熊野権現といふ、゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
【抜粋意訳】
和耶神社
今 宮倉村にあり、今熊野権現といふ、
凡 毎年正月七日 村民豆を擲て追儺す、名て和也々々の神事といふ、〔阿波式社略考〕
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在は゛海部郡 奈佐湊の邊にあり、゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
※慶長九年 (一六〇四 )以前は現 海部町鞘浦那佐港に鎮座
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
今 海部郡 奈佐湊の邊にあり、〔阿波志、阿府志、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛宮倉村 (那賀郡羽ノ浦村大字宮倉)
、今熊野權現と云ふ゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
又 節分の日に村民相集まり 各自「わや わや わや」と三唱しての豆をまき その神事を゛わやわやの神事と云゛とあり これは和耶(ワヤ)神社に違いないと記しています
【抜粋意訳】
和耶(ワヤ)神社
祭神
今按 阿波志に舊事記を引て淡夜別命 大海部直等祖とあり 又 三代實錄元慶二年二月十九日 從五位下 山脊忌寸大海全子 以奉幣 氏神向 阿波國云々と見え 此郡 中山代郷の所在も此あたりなれば 卽本社祭神 此命なるべしと國人は云へり祭日
社格 (無格社)所在 宮倉村 (那賀郡羽ノ浦村大字宮倉)
今按 阿府志 阿波志 式社略考に宮倉村にあり 俗 今熊野權現と云ふ 是社 例年節分に邑人豆を持て家々誘引し 和耶々々に行よし云て 此社に打群れ往き 事終れば 諸人同音に三度わあと云て 各家歸る 之をわやわやの神事と云とみゆ されば此祭事あるによりて 和耶神社の當地なる事明かなり
式内社 和奈佐意富曾神社について 所在について 三ヶ所を記しています
゛阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號す゛〈現 大里八幡神社(海陽町大里松原)〉
゛明細帳には 八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれ゛〈現 和奈佐意富曽神社(海陽町大里松原)〉
゛式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむ゛〈現 那佐神社(海部郡海陽町宍喰浦那佐)〉
【抜粋意訳】
和奈佐意富曾神社
祭神
今按 和奈佐の和奈は 野にて烏獸を捕るの具 佐は 網の義にや
意富曾は 式社略考に罸は鳥獸を覆ふとかゝる辭ならんと云る さもあるべくや されど神名は意富曾ノ神にて 大麻神なるべし 本國に大麻比古神社 讃岐多度郡 大麻神社あり由ある神なるべし祭日
社格所在
今按 阿府志 海部那大里浦にあり八幡宮と號すとみえ 明細帳には八幡宮と別社にして 同村に和奈佐意富曾神社とあれど 式社略老に同郡穴喰浦に奈佐と云處あり 其處に三島社と云ある是ならむと云り この奈佐の號 和奈佐に由あれば 此奈佐の地にて熟く探索し 猶徴を担るを俟て考ふべきなり 古本播磨風土記に志深里土中に所以號志深者伊射封和氣命 御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁彌時 勅云 此具者於阿波國和那散我所食之貝哉 故號志深里と見ゆ 後案のために揭け添へつ
【原文参照】