走落神社(はしりおちじんじゃ)は この場所にあった小玉神社に 明治40年(1907)に東能勢村にあった8つの神社を合併して 計9つの神社が合併した神社です その際に合併神社の中でも由緒のある式内社の「走落神社」と名称を改称しました
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の神社で 「走落神社」の名称を持つ式内社と論社について
- 5 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 6 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 7 摂津国 式内社 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
走落神社(Hashiriochi Shrine)
(はしりおちじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
大阪府豊能郡豊能町木代1556
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
〈10柱の神〉
《主》天照大神・建速素盞鳴尊・少彦名命・五十猛命・水波能賣神・白山姫神・応神天皇・稲倉魂神・武内宿弥・天武天皇
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
走落神社の由緒
当神社はもと小玉神社といった。
明治40年に東能勢村にあった八つの神社を、この場所にあった小玉神社に合併して走落神社と名付けた。元々、走落神社は切畑にあり寛平元年(889)藤原氏が創立したといわれ、延喜式神名帳(平安時代の国家の法制)の巻一にのっていて、これは全国より3132社が選ばれており、現在でも「式内社」といって由緒ある神社とされている。
室町・桃山時代戦国動乱の時代となり、当地にも織田信澄等が乱入して、神社・仏閣を兵火かける恐れがあったので、大永年中(1546)同社の天照大神を木代の小玉神社に、少彦名命を切畑の稲荷神社に移したという。
この時、走落の社名も「藤の森神社」と改めた。明治の神社合併で9つの神社が合併したわけであるが、この時 神社の名前を合併神社の中でも由緒のある、式内社の「走落神社」を社名とせられた。
走落の名称の由来は、文筆が残っていないので分からないが、古来神社が生まれる場合、病気の人が温泉などに治療にきて治癒を祈って神社を祀ることがあり、初めは小さくでもだんだん大きくなる場合があると思う。「ハチ」は水の流れる形容であり、「オチ」は水が流れ落ちていたと言うことである。
事実この当たりには、湯谷・湯蜜・風呂の前の地名もあり、石風呂もあり、藤の森から移した「稲荷神社」も後に「走湯天王社」と改められている。境内掲示紙より
【由 緒 (History)】
由緒
走落神社はもと小玉神社と称した。明治40年、当時の東能勢村内にあった9社の神社を小玉神社に合併して社名を走落神社としたのである。明治39年8月、勅令として神社合併整理が行われた。
伝承によると木代庄は平安時代末の康治2年(1142)6月20日、貝川三位長乗が一族36人を率いて、都より来り開発の鍬を打ち込んだのが始まりと伝えられている。そして木代、切畑、大円という三村を開発した。この時の三ヶ荘の氏神として、木代庄大円村に延喜式内走落神社を創立したと伝えられている。
戦国時代、織田信長の兵火にかかるのを恐れてか、この頃、走落神社の御祭神を分散して相殿としてお祀していた天照大神を木代村に移して「小玉宮」を建立し、少名彦名命を切畑村に移して「走湯天王社」を建立し、元の走落神社は社名を改めて、鎮座地の字名“藤の森”を取って「藤森神社」とし建速素盞嗚命をお祀りしたという。
そこで、明治の神社合併で村内10社の神社が合併されたが、その中で社格の高く、もと御同殿にお祀り申し上げていた神様が再び、同殿、同床に鎮座されたことから社名を「走落神社」とした。
「走落」の社名と走落神社周辺の地名等から走落神社創生当時、その近辺に病気に効験のある冷泉か、温泉が湧出しており、湯治に集まった人等の尊崇を集めた神社ではないかと思うのである。先ず「ハシル」は、万葉集でも「岩走る垂水の」等、水の流れる形容に使われており、この様な事から「水が流れ落ちている所にある神社」ということが考えられる。又、走落神社が3社に分散した時の一社に「走湯天王社」があり、この社名は“湯が迸り出ていた”と解することが出来る。現在の走落神社の御本殿は、藤森神社の御本殿を移したものであるが、三間社流造の立派な建築である。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・秋葉神社《主》火之迦具土神・清正公社
・八幡神社《主》八幡神
・護国社《主》護国の英霊
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座 大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)島下郡 17座(大5座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 走落神社 鍬靫
[ふ り が な ](はしりおちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hashiriochi no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
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『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の神社で
「走落神社」の名称を持つ式内社と論社について
攝津國 嶋下郡 走落神社 鍬靫
・走湯神社跡(豊能町切畑)
・走落神社(豊能町木代)
近江國 伊香郡 走落神社
・走落神社(高月町馬上)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
箕面とどろみ I.C. (新名神)からR423号経由 約7.5km 車12分程度
余野川沿いに上止々呂美の山裾を北上します
社頭には 満開の桜があり 社号標には「延喜式内 走落神社」とあります
走落神社(Hashiriochi Shrine)に参着
一礼をして 社頭の鳥居をくぐります
鳥居は3連となっていて あと2つをくぐります
境内は広く 瓦屋根の拝殿が正面に建っています
拝殿にすすみます 扁額は緑色の文字で「走落神社」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は ・拝殿・幣殿・本殿と縦長に並び立派です
三間社流造の本殿は 藤森神社の本殿を移したもの
本殿の左右には 境内社があり お詣りをします
石燈籠の説明があり 明治40年(1907)の神社合併について記されています
木代走落神社(きしろはしりおちじんじゃ)石燈籠(いしどうろう)
この燈籠は、明治40年(1907)の神社合併のとき、余野にあたった天武天皇宮(てんぶてんのうぐう)から移設されたものである。
銘文(めいぶん)は、「大婦(たいふ)天皇御宮前」「正徳元年(しょうとく)(1711)9月吉日」とある。
天武天皇は、柏尾宮(かしのおのみや)、大武(たいふ)天皇宮とも呼ばれていたもので、大武を大婦の宮にあて表したと思われる。当走落神社は「延喜式」神名帳の島下郡(しましもこおり)17社の内に記される式内社で、もとは切畑に鎮座したと伝えられる。
現在の鎮座地は、もと走落神社の相殿神(あいどのしん)であった天照大神(あまてらすおおみかみ)を分祀(ぶんき)して祀った小玉神社のあったところである。
平成5年11月 豊能町教育委員会境内案内板より
境内から 参道を戻ると 学校帰りの小学生が神社の前で立ち話をしながら 神社に一礼をして歩いていきました 微笑ましい光景です
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
『先代旧事本紀』に祭神として速飄(ハヤラ)命 能勢郡切畑村に鎮座し「走湯天王」と称していると記しています
【意訳】
走落(ハシリオチノ)神社 鍬靫
旧事記 速飄(ハヤラ)命 『先代旧事本紀』
志 今在る 能勢郡切畑村 称す走湯天王
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
所在を能勢郡 切畑村〈現 走湯神社旧跡地〉に在るとし 走湯天王と称すと記しています
【意訳】
走落神社 鍬靫
走落は 波志里於知と訓ずべし
〇祭神詳らかならず
〇今 能勢郡 切畑村に在す 走湯天王と称す類社 近江國 伊香郡 走落神社
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
切畑村の走湯神社〈現 走湯神社旧跡地〉を論社と記しています
【意訳】
走落(はしりおちの)神社 鍬靫
祭神
祭日
社格 村社 明細帳能勢郡切畑村 元中野東村走湯神社あり之を指したる如し村社所在 中野東村 今 能勢郡
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』
走落神社(Hashiriochi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)