古天神遺跡(ふるてんじんいせき)は 文明九年(1477)多摩川の洪水を避けて この地から現在地〈布多天神社(調布市調布ケ丘)〉へ遷座した『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 多磨郡 布多天神社の旧鎮座地゛古天神の地゛です 遺跡の発掘調査では 1万年位前の旧石器・4、5千年前の縄文時代の人々の生活跡・5世紀頃の墓、7世紀の堅穴住居などが発見されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
古天神遺跡(Furutenjin ruins)
【通称名(Common name)】
古天神公園(ふるてんじんこうえん)
【鎮座地 (Location) 】
東京都調布市布田5-53-22
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
古天神遺跡(ふるてんじんいせき)
調布市布田五丁目五三番地
ここは昔から古天神(ふるてんじん)とよばれ、今から千余年前の『延喜式(えんぎしき)』という本にみえる、布田(ふた)天神のお社(やしろ)があった所といわれています。
昭和五十五年三月からこの一帯に住宅ができるため、遺跡(いせき)の発掘調査が行われました。
その時、今から一万年ぐらい前の旧石器(きゅうせっき)や、四~五千年前の縄文(じょうもん)時代における人びとの生活の跡などが発見されました。それらの近くには人を埋葬したまわりに、幅四~五メートル、深さ約四十~七十センチメートルの溝(みぞ)を直径三十一メートルにわたって掘りめぐらした、円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)とよばれる五世紀ごろのお墓や、七世紀ごろの竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の跡が三軒発見されました。その他にも鎌倉(かまくら)-室町(むろまち)時代ごろとみられる地下式横穴とよばれる、穴ぐらのような墓が十基分と、たくさんの河原石(かわらいし)を積んでこしらえた室町-江戸(えど)時代の墓が十数ヶ所発見されています。
なお古天神のまわりには、これらにつづく各時代の遺跡や遺物が広い範囲に発見され、市内でもとくに埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)の多い重要地帯の一つにかぞえられます。
昭和五十八年四月一日 調布市
現地案内板より
【由 緒 (History)】
古天神公園(上布田遺跡)
概要
ここは昔から古天神(ふるてんじん)と呼ばれ、今から千年前の「延喜式」という本にみえる布多天神社のあった所といわれています。
昭和55年に遺跡の発掘調査を行い、1万年位前の旧石器や4、5千年前の縄文時代の人々の生活跡、近くには5世紀ごろの墓、7世紀の堅穴住居3軒、鎌倉時代から室町時代頃の地下式横穴墓10基、河原石を積んだ室町時代から江戸時代の墓10数基が発見されています。
なお、古天神の周辺には、このような各時代の遺跡が多く発見されています。所在地
調布市 布田 5-53-22調布市役所HPより
https://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118969497/index.html
御由緒
布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第十一代垂仁天皇の御代、約1940年前の創建といわれております。
文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。
江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。 当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。
そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。布多天神社公式HPより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
現在の布多天神社について
・布多天神社(調布市調布ケ丘)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 布多天神社
[ふ り が な ](ふたての かみのやしろ)or(ふたのあまつかみのやしろ)
[Old Shrine name](Futate no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
社伝の゛廣福長者の調布(タフクリ)の故事゛について
゛廣福長者の調布(タフクリ)の故事゛
社伝によれば住古
「桓武天皇 延暦十八年 木綿の實 始めて渡りしかど 未だ布に製する事を知らず、其時 多摩川邊に菅家の所縁にて廣福長者といふ者あり、天神ノ社に参籠して神の告を蒙り、布を製する術を得たり、是れ本朝木綿の始なりと、帝其布を御覧じ御感斜ならず、調布と告給ふ、後長者の末孫 菅神の像を布多天神に配祀せり、云云」
けれど これは 社名に布の字が用いられる ことから調布(タフクリ)の故事を附曾したとも云われる それは 調布(タフクリ)の歌は萬葉集にも入り延暦に始ったものではないとする説があります
『式内社調査報告』に記される゛廣福長者の調布(タフクリ)の故事゛について
『式内社調査報告』には 次のように記されています
布多天神社
「布多」は調布(たづくり)(手作)と関係のあることばと考へられる。思ふに、「布」は太布(たふ)を意味し、その太布が多く産出される地といふことで、それが「布多」といふ地名となり、やがて社名となつたのではなからうか。したがつて、「布多天神社」とは布多(太布の多く産出する土地)にます立派な神社との意味であらう。
ちなみに、萬葉集巻十四の東歌に、「玉川に晒す調布、さらさらに、何ぞこの児の、こゝだかなしき」とある歌は、この地を詠んだものといふ。
『萬葉集(Manyo shu)〈7世紀前半~759年頃〉』に詠まれる゛廣福長者の調布(タフクリ)故事゛の歌
萬葉集には 調布(たづくり)(手作の布)が 多摩川に晒されている様子が詠われています
【抜粋意訳】
萬葉集 巻第十四 東歌 武蔵國相聞往来九首
〈漢字本文〉
多麻河伯爾 左良須弖豆久利 佐良左良爾 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎〈読み〉
たまがわに さらすてつくり さらさらに なにぞこのこの ここだかなしき〈読み下し〉
多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき〈意訳〉
多摩川の水にさらす 手作りの布のように さらさらに どうして あの子が愛しく思えるのだろう
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
この地を詠んだ 万葉集について記し 朝廷へ調布を貢せし事が細やかに記されています
布多天神社(調布市調布ケ丘)について 所在は上布多驛舎(うえふたえきしゃ)の辺〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉としています
昔は多磨川の岸頭〈現 古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)〉にあったが 現在地に遷座した 今も元地を元天神と称して小祠がある と記しています
【抜粋意訳】
江戸名所圖會巻九
万葉
多麻河伯爾 左良須弖豆久利 佐良左良爾 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎
タマカハニ サラステツクリ サラサラニ ナニコソノコノ ココタカナシキ家集
万葉集多磨を多麻に作り 布田も又布多とす 往古 麻の布を多く産せしにより 仮名にはあれど其意を含みて麻には作るならん欺(か) 当国の府は 此地より西南にありて其間遠からず 古しへ毎国 朝廷へ調布を貢せし事国史等に詳なり 風土記多麻川の条下に 里人調布を作り内蔵寮に納とあり 然れば此国より貢奉る処の調布は 当国に産するものを集めて 此川辺にて晒し しかして府に携へ 国司の許へ出せしなるべし 依 多麻川の水流を考ふるに 府中の辺より水源は 河瀬狭くして巨石多く 布田より下流は漸海に近きが故に 潮の盈虚ありて調布に便りよろしからず たゝ此布田の辺のみ河瀬の広狭水流の滔々たる 実に布をさらすによろしと思はる 故に合せ考ふれば 此辺其実跡なるべからん・・・・・〈挿絵〉
布多天神社〈本文〉
布多天神(ふたてんしん)社上布多驛舎(うえふたえきしゃ)の辺より右の方 四丁のほうにあり
別當は真言宗にて廣福山栄法寺と号す 浅尾王禅寺に属す
祭禮を隔年九月二十五日に修行す 当社祭神詳なれど 今 菅神を相殿に勧請して二座とに 当社 昔は多磨川の岸頭にありしを洪水の難に罹るの後 今の地へ迁すといえり 今もその地を元天神と称して小祠を存せりといへり延喜式神名記曰 武蔵國多磨郡 布田天神社 云云
【原文参照】
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京王相模原線 京王玉川駅から西へ約750m 徒歩11分程度
現在は 古天神公園となっています 北側の公園入口
古天神遺跡(調布市布田)に参着
旧石器時代以降の様々な時代の遺物が発掘されている場所で
延喜式内社 布多天神社が かつて鎮座していた場所です
この地から現在地への遷座の理由は「文明九年(1477)多摩川の洪水を避けて」とあります
現地に赴くとわかりますが 多摩川の北岸から500m程の南斜面にあり 高台になっています 当時の川筋はわかりませんが ここまで多摩川が氾濫したのだとびっくりしたものです
公園南側の斜面
現地でお年寄りに伺ったのですが 文明九年(1477)多摩川の洪水で 村ごと現在地に移転したとも云われています
萬葉集巻十四の東歌に「玉川に晒す調布、さらさらに、何ぞこの児の、こゝだかなしき」とある歌は この地を詠んだものと云われます
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 布多天神社について 所在は布多村〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉 土人〈土地の人〉には 布田ノ天神 フダテンノ社 と呼ばれている と記しています
【抜粋意訳】
布多(フタ)天神社
地考 布多村と云ふあり 布田ともかけり 府中より卯方一里半
式考 祭神 少彦名命
〇邑人 大八木範竝云 今布田村に布田ノ天神と云ふなり 土人 フダテンノ社とも云へり 近年 天満宮の扁額を掲けたり これ式社なる「决しと云へり」
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
布多天神社(調布市調布ケ丘)について 式内社 布多天神社であると記しています 元は 村内 今の古天神と云ふ所〈現 古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)〉から 上布田宿〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉に遷座した
又゛桓武天皇 延暦十八年 木綿の実始めて渡りしなれど゛と云う故事は 疑わしいとも 記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿巻之九十三 多磨軍之五 府中領 上布田宿
布多天神社
社地除 六段九畝二十歩 上宿の北裏にあり 此神社は当郡の古社にて 延喜式神名帳に多摩郡布多天神社あり 相傳ふ 祭神 少彦名命なりと
古は 村内今の古天神と云へる所にありしに 文明の頃 多摩川関崩るによりて 今の地へ遷せり その時 初て菅神の像を配祀す 故に今の神体は菅神の木像にて 長一尺許なり 縁起ありて承応二年の撰述のよしをいへど 記す處 妄誕にして その頃のものともみえず 但その中 調布の濫觴をいへることみえたり
是又さだかなりがたき説といへども 姑く其略をつんでここにのすと云
桓武天皇 延暦十八年 木綿の実始めて渡りしなれど 人いまだ布に製することをしらず 其時 多摩川邊に菅家の所縁にて 近国に名を顕はせし広福長者といへるものあり 天神の社へ七昼夜参籠して 不思議に神の告を蒙り 布を製するの術を得て 多摩川にさらして これをととのへて奉りぬ 是乃本朝木綿の初なりとかや 帝御感浅からず 即ち其布を調布とのたまへり それより此邊 武州調布の里といへり 後に広福長者の末孫菅原を修して 原永法となのり この処にありしに 後 菅神の肖像を造立して 布多天神に配祀せり
永法 後に発心して 永法坊と改め 草庵を結て両社の守りをなし 年月を送ける所に 永延年中に院号を下されて 広福山常行院永法寺と号し 別当となしたまひしといふ 此社傳と口碑に傳ふる所と 年代合はず されど今より考ふるによしなし 必ずあやまりあるべし
社地の外免田三段一畝九歩 免畑一段二十三歩あり
当社は 上下布田 小島分 国領 上給 矢ヶ崎等の村々鎮守にて 例祭 年々九月二十五日 その外毎月二十五日月並の祭礼あり
本社二間に四間 拝殿四間に二間 石の鳥居あり鳥居の西邊に制札をたてりこれは太閤秀吉のあたへしものにて 其文左のごとし
禁制
武蔵國多東郡 補陀郷
一 軍勢甲乙人等監妨狼藉事
一 放火等
一 對地下人百姓非分之儀申懸事右條々堅令停止訖若於違犯輩者速可被處厳科者也
天正十八年四月日末社
金比羅社 本社の西にあり
稲 荷 社 金比羅社の傍にあり別當 永法寺・・・・
稲荷社二社 一は 甲州街道 南裏にあり 一は 三軒山にあり・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 布多天神社について 所在は 府中領上布田村〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉であり 祭神は少彦名命であるのに 近年 天満宮〈祭神 菅原道真命〉の扁額を挙げているが 全くの誤りであると 記しています
【抜粋意訳】
布多天神社
布多天は假字なり
〇祭神 少彦名命、地名記
〇府中領上布田村に在す、同上
例祭 月 日、邑人 大八木範竝云、近年 天満宮の扁額を擧たりと云り、全く誤れるなるべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 布多天神社について 所在は 舊 多摩川の岸〈現 古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)〉から 布田村〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉に遷座したと記しています
【抜粋意訳】
布多天神(フタノアマツカミノ)社
舊 多摩川の岸にあり、後之を布田村に遷す、布田の天神と云、
神名帳考土代、巡拝舊祠記、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 布多天神社について 所在は 玉川の邊 今の古天神と称する處〈現 古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)〉から 上布田村〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉に遷座したと記しています
【抜粋意訳】
布多天神社
祭神
祭日 九月二十五日
社格 郷社所在 上布田村
今按 土人 口碑に 往古 此社 玉川の邊 今の古天神と称する處にありしが 文明中 玉川の水 社頭に漲溢するを以て 今の地に遷されとなりと云り
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
布多天神社(調布市調布ケ丘)について 式内社 布多天神社であると記しています 元は 村内 今の古天神と云ふ所〈現 古天神公園〈古天神遺跡〉(調布市布田)〉から 調布町大字上布田驛〈現 布多天神社(調布市調布ケ丘)〉に遷座した
又゛調布(タフクリ)の故事を附曾した゛故事について記しています
【抜粋意訳】
〇東京府 武蔵國 北多摩郡調布町大字上布田驛字天神前
郷社 布多(フダ)天神社
祭神 不詳
創建年代詳ならずと雖、延喜式神名帳にある布多天神社是なり、相傳ふ、祭神は少彦名命なり、然るに神名帳考証には豊宇気姫と見ゆ、古は村内 今の古天神と云ふ所にありしに、文明の頃 多摩川闕崩し、今の地に遷せり、その時初めて菅公を祀る、邑人 大八木範並云く、近年天満宮の扁額を擧げたりといふも是に依れるなるべし、当社の縁起に貞応二年の撰述の由いへる者あり、悉く信すべからすと雖、今其概略を示せぱ節ち左の如し、
「桓武天皇 延暦十八年 木綿の實 始めて渡りしかど 未だ布に製する事を知らず、其時 多摩川邊に菅家の所縁にて廣福長者といふ者あり、天神ノ社に参籠して神の告を蒙り、布を製する術を得たり、是れ本朝木綿の始なりと、帝其布を御覧じ御感斜ならず、調布と告給ふ、後長者の末孫 菅神の像を布多天神に配祀せり、云云」
されど是社名に布の字用いらるゝより調布(タフクリ)の故事を附曾したるものにて、タックリの歌は萬葉集にも入り、延暦に初まりしものに非ずといふ。
明治六年十一月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿を具へ、境内九百十九坪(官有地第一種)を有す。
境内神社 琴平社 稲荷社 御嶽社 祓戸社
【原文参照】
古天神遺跡〈古天神公園〉(調布市布田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)