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三島神社(南伊豆町下小野)
三島神社(みしまじんじゃ)は 古くは門野明神 江戸時代には大宮と称して 上下小野の総鎮守であったとされ 村の古老の伝えでは 青野村の三島神の妹神であると云い 式内社「阿米都加多比咩命神社(あめつかたひめのみことの かみのやしろ)」に違いないとの説もあり 比定社とされています
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波布比咩命神社(下田市東本郷)
波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 2つの式内社〈 ①波布比賣命神社 ➁大津往命神社 〉の論社とされています ①波布比賣命神社は 伊豆大島の波浮港に鎮座する波布比咩命神社の遥拝所であろうとされていて ➁大津往命神社は 大きな津〈港〉を守護する女神であろうとされています
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三島神社(南伊豆町妻良)
三島神社(みしまじんじゃ)は 2つの式内社〈 ①大津往命神社 ➁阿米都加多比咩命神社 〉の論社とされる古社と伝わります 祭神の大津往命(おほつのゆきのみこと)は 大津(港)を守護する姫神とも 三嶋神の御子神とも 大国主命の妻神とも伝わります
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三島神社(南伊豆町二條)
三島神社(みしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「加毛神社 二座(かものかみのやしろ ふたくら)」の内 一座(ひとくら)とされています 社頭には伊豆半島でも屈指の樹齢千年以上の大楠2株「夫婦楠」があり その存在感には圧倒されます
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加畑賀茂神社(南伊豆町町下賀茂)
加畑賀茂神社(かばたかもじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社「加毛神社 二座」の内の一座とされ 創建は 平安時代初期 大同年間(806~810)と伝えられています 御神木 ビャクシン(イブキ)の樹齢は1200年で その頃からあるとされます
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羽黒三田神社(奥多摩町氷川)
羽黒三田神社(はぐろみたじんじゃ)は 社伝によると「貞観二年(860)出雲国の人 土師連行行基が東国に下向し 御嶽山に詣り神告を得て 当地に高皇産霊神 少彦名神の二神を祀り 穴澤天神と号した」と伝わり式内社の論社です その後 永禄九年(1566)六月 穴澤天神の社内に羽黒権現が合祀されましたが 今は 羽黒権現を本殿とし 穴澤天神が合殿となっています
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穴澤天神社(あきる野市深沢)
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 式内社「武藏國 多磨郡 穴澤天神社」の論社「棚澤天神」ではないかとの誤説もあるようですが 棚澤天神は 奥多摩町棚澤に鎮座しています この神社は 深澤村の各神社を合祀した同名の参考神社として ご紹介します
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穴澤天神社(稲城市矢野口)
穴澤天神社(あなさわてんじんじゃ)は 社伝によれば 第6代 孝安天皇4年(紀元前389年頃)の創建 主祭神は少彦名命を御祀りした社と伝わり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社と比定されている大変由緒ある神社です
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走落神社(高月町馬上)
走落神社(はしりおちじんじゃ)は 高月町馬上(まけ)にあり 社伝によると神亀年間(724~729)の創祀と伝わる延喜式内社です 仁和年間(885~889)の頃 この地で名馬が産まれ 宇多天皇に献上し「馬上」の 2文字の宸筆の額を賜り その後 祠堂を建立し 鳥居に「馬上」の額を掲げ この鳥居を通過する際は 必ず下馬し拝礼したと伝わっていますが 天明 7 年(1787)の大火で この扁額や社蔵文書を焼失しています
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走落神社(豊能町木代)
走落神社(はしりおちじんじゃ)は この場所にあった小玉神社に 明治40年(1907)に東能勢村にあった8つの神社を合併して 計9つの神社が合併した神社です その際に合併神社の中でも由緒のある式内社の「走落神社」と名称を改称しました
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走湯神社旧跡地(豊能町切畑)
走湯神社旧跡地(はしりゆじんじゃ あと)は かつて走湯天王と称し『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「走落神社(はしりおちの かみのやしろ)」とされています 明治40年(1907)9月 小玉神社〈現 走落神社〉に合祀され 現在は旧跡地となっています
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大神岩〈久須夜神社旧地〉
大神岩(おおかみいし)〈久須夜神社旧地〉は 久須夜神社の由緒によれば「境内 山中に岩があり大神岩という 往古 大神がこの岩上に鎮座されたという 里人は 狼岩といって畏怖している 若狭国の名山 久須夜岳は 久須夜神社の名に依って生まれ 久須の夜雨は若狭八景に数えられている」
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物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
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欅原神社(小布施町都住)
欅原神社(くぬぎはらじんじゃ)は 高井郡に鎮座した式内社「小内神社」の論社とされます 有力論社の小内八幡神社の神職家である片山家は六川(小布施町)で神官を担っていたと伝えられ 六川(小布施町)に隣接する小布施町都住に鎮座する〈当社〉﨔原神社も同じく論社とされています
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小内八幡神社(中野市安源寺)
小内八幡神社(おうちはちまんじんじゃ)は 貞観年間(859~877)の草創といわれ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされます 永禄4年(1561)社殿が 戦火にかかり烏有に帰し 寛文5年(1665)飯山藩主松平忠倶により再建されました 明治6年4月には郷社に列しました
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諏訪社(長野市若穂綿内)
諏訪社(すわしゃ)は 式内社 越智神社(をちの かみのやしろ)の旧社地とされ その跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです 越智神社の創建は 天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀ったのが開基で 『延喜式神名帳(927年編纂)』の頃は 現 宮王神社(長野市若穂綿内)に鎮座 鎌倉時代頃(1192~)清水の片山地籍〈当社 諏訪社〉へ さらに室町時代後期の永正元年(1504~)現 小内神社に遷座と伝わります
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宮王神社(長野市若穂綿内)
宮王神社(みやおうじんじゃ)は 創建は天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の頃には この地に鎮座したと伝わります 越智神社は 鎌倉時代(1192~)に清水の片山地籍へ さらに室町時代後期の永正元年(1504)に現 小内神社に遷座しました 現在の宮王神社はその跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです
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小内神社(長野市若穂綿内)
小内神社(おうちじんじゃ)は 社伝及び古文書に 住古は妙徳山頂の小祠が本社で 越智神社と称し 幾度かの水害により社号額流失の伝承が残る 永正元年(1504)2月現在地に遷宮 寛延年間の式内社定め時(1624~1644)互いに論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載する
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越智神社(中野市越)
越智神社(おちじんじゃ)は 口碑によれば 天武天皇 白鳳13年(684)の勧請 往古 越智山の頂上に鎮座し その嶺が険しく里社を造営し後 現地に奉遷 旧地には石祠を建て天神社と称し 旧越村の産土神である 即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるはこれなりとする 式内社の論社です
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越智神社(須坂市幸高)
越智神社(おちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「信濃國 高井郡 越智神社」の論社です 湧水池の多いこの地に移住した越智氏の祖神 饒速日命を産土神として 後 諏訪神 建御名方神を勘請し神社名を諏訪大明神とし 寛延3年(1750)神社名を越智神社に改め 延喜式内社として今日に至ります