大神社 旧鎮座地(松阪市深長町)〈延喜式内社の旧鎮座地〉
大神社 旧鎮座地(おおみわじんじゃ きゅうちんざち)は 明治四十一年(1908)高福神社〈現 伊勢寺神社〉に合祀された 延喜式内社 伊勢國 飯高郡 大神社(おほみわの かみのやしろ)の旧跡地です 現在は地域の鎮守の森のような存在で かつて境内にあった泉は 近隣の田畑を潤し 松坂城主の茶の湯にも使用されたと云う
久々比神社(豊岡市下宮字谷口)〈コウノトリの伝説or物部氏の伝承〉
久々比神社(くくひじんじゃ)は コウノトリが棲む地を「久々比(くくひ)」と呼び 社を建て木の神 久々遅命(くくのちのみこと)をお祀りして 始まったと云い 又 一説『国司文書 但馬故事記』には 物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉を祀るとします 延喜式内社 但馬國 城崎郡 久久比神社(くくひの かみのやしろ)です
韓國神社(豊岡市城崎町飯谷)〈延喜式内社 物部神社〉
韓國神社(からくにじんじゃ)は 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべのまとり)が 韓國へ派遣された後 但馬の楽々浦に着き 都へ報告に上った その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥と称し その子・墾麿(こま)は 城崎郡司に任命され その孫・物部韓國連 鵠(くくひ)が創建した物部神社とされます
高牟神社(名古屋市名東区高針)〈延喜式内社の論社〉
高牟神社(たかむじんじゃ)は 元々は尾張物部氏の武器庫であり 高牟(たかむ)とは 古代の武器゛鉾゛の美称とされます 高針村の産土神として 江戸時代には應神天皇を祀り八幡社と称していました 昭和26年(1951)高牟神社と改称されました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 高牟神社(たかむの かみのやしろ)の論社です
高牟神社(名古屋市千種区今池)〈古井之八幡(こいのはちまん)〉
高牟神社(たかむじんじゃ)は 元々は尾張物部氏の武器庫であったと云う 境内に 元古井(もとこい)古井ノ坂の地名の由来となった古井戸〈霊泉〉があり 「むすびの神」を祀る神社で゛古井(こい)の水を飲めば恋が生まれる゛と 縁結びのご利益信仰を集めます 延喜式内社 尾張國 愛智郡 高牟神社(たかむの かみのやしろ)の論社です
御器所八幡宮(名古屋市昭和区御器所)〈八所大明神〉
御器所八幡宮(ごきそ はちまんぐう)は 第54代 仁明天皇の勅願所として熱田社の鬼門を守護するために創建と社伝に云う 御器所(ごきそ)の地名は『吾妻鏡』に この地で熱田社の神事に使う土器を焼いていたことから名付けられたと記述があり 尾張國 愛智郡の二つの式内社〈・高牟神社・物部神社〉の論社となっています
物部神社(名古屋市東区筒井)〈御神体の霊璽゛一塊の巨大な石゛〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 御神体の霊璽が゛一塊の巨大な石゛で 初代 神武天皇の御代に当地の凶魁を討たれ この石〈俗に要石 鎮撫石 根石とも云う〉を国の鎮めとされ 石神様とも呼ばれます 第11代 垂仁天皇の御代 初めて社殿が造営された云う 延喜式内社 尾張國 愛智郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
白山建岡神社(山梨市上栗原)〈上栗原村〔小市明神〕を合祀か?〉
建岡神社(たておかじんじゃ)は 江戸時代には〔白山権現〕と呼ばれていました 同じく上栗原村にあった〔小市明神〕は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)であるとの一説もあります 現在〔小市明神〕は 建岡神社に合祀されているのか?
大石神社(甲州市塩山赤尾)〈延喜式内社 物部神社の論社〉
大石神社(おおいしじんじゃ)は 社伝に 第21代 雄略天皇御宇 詔(みことのり)により海部直赤尾物部兎代宿禰(あまのあたいあかお もののべのとよのすくね)によって勧請されたと伝わります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社とされ 明治時代には 物部神社と称したと云う
大石神社(山梨市西)〈巨大な花崗岩のご神体が坐します〉
大石神社(おおいしじんじゃ)は その名の通り 巨大な花崗岩のご神体〈磐座信仰〉が坐します 社殿の周囲にも数々の巨大な石〈磐座〉があり 不思議な景観となっています 社伝によると 古くは物部神社と称していたとあり 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社となっています
物部神社(笛吹市石和町松本)〈『六国史』物部神・『延喜式』物部神社〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷の使者として武内宿禰(たけのうちのすくね)らが東方巡察の折 物部氏の従者により創祀されたと云う 『六国史』には゛物部神゛に神階の奉授が記され 『延喜式』に甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)と所載されます 当初 御室山に鎮座し 鎌倉時代に現在地に遷座と云う
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈『延喜式』物部神社〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・『延喜式』物部神社〉
物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です
八幡社(三木市志染町安福田)&〈境内社〉御坂社
八幡社(はちまんしゃ)は 戦国期の三木合戦で羽柴秀吉が戦勝祈願の為に安福田の八幡社に出向き 帰りに麓の庄屋で休息を取ったと云い 〈境内社〉御坂社(みさかしゃ)は『播磨国風土記』「志深里(しじみのさと)三坂社の神」の伝承地にある 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社とされます
御酒神社(三木市細川町垂穂)〈延喜式内社の論社〉
御酒神社(みさかじんじゃ)は 口伝に゛大己貴命が天降りし時 西南麓を流れる小川の辺りを霊地とし鎭座されたのを起源゛と云う 往古は岩宮と称し 磐座を拝し奉り社殿は無く 天應元年(781)社殿建立 天平2年(730)社殿再建の時 神告により氏子の酒造家等は祈願を籠めて美酒を釀造したので 御酒神社と改稱したと伝わる
御酒神社(三木市別所町石野)〈神功皇后が三甕の酒を捧げた 延喜式内社の論社〉
御酒神社(みさかじんじゃ)は ゛神功皇后が三韓征伐より凱旋され この地へ御幸 天神地祇を親祭せられ 御酒神社に大己貴神坐すとお聞きになり 三甕の酒を捧げた゛と云う 第36代 孝徳天皇 白雉五年(654)創祀と伝わり 元亀元年(1570)大物主神・天太玉命・天鈿女命を勧請 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社の論社です
三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉)〈延喜式内社〉
三坂神社(みさかじんじゃ)は 浸水の為 長享元年(1487)現在地に遷座 天保元年(1830)炎上 嘉永3年(1850)再築と伝わります 古老の口碑傳説などによれば 天之御中主尊 三坂神社として大柿 (豊地)に鎮座まします 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)とされます
三坂神社(三木市加佐)〈神功皇后由来の伝承を持つ延喜式内社の論社〉
三坂神社(みさかじんじゃ)は 口碑に゛神功皇后が三韓征伐の帰途 当地に立ち寄られ 俄雨で衣を湿らせた この時 竹の皮の大きな笠を奉る者に「笠(かさ)人」と勅命し この「笠人」が皇后はじめ諸神を祀り創建した゛と鎮座地「加佐(かさ)」の由来も伝えます 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社です
美坂社(三木市別所町東這田)〈延喜式内社の論社〉
美坂社(みさかしゃ)は 神号゛美坂゛は 神功皇后から賜ると云う 鎮座地の這田は 元々は 神社に新米を供える田があり「祝田郷」と云ったが「祝田(ほうだ)」に改められ 田圃の世話は這うことから 現在の「這田(ほうだ)」に改められたと云う 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社です
御坂神社(三木市志染町御坂)〈播磨国風土記 三坂社の神・延喜式内社 御坂神社〉
御坂社(みさかしゃ)は 『播磨国風土記』「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 履中天皇が許曽社で勅した故に美囊(みなぎ)となり 阿波国の和那散で食した信深貝(しじみがい)を見た故に 志深(しじみ)里となり 三坂社の神が坐すと記される 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の有力な論社です