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比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〈延喜式内社 奄藝郡 比佐豆知神社の論社〉

比佐豆知神社(ひさずちじんじゃ)は 社伝によると創祀並に由緒は゛聖武天皇天平勝宝年間(749~757年)旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位し 往昔は萱葦の神祀六宇に鎮り座し東面した゛と伝えます 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社です

明神社(津市芸濃町楠原)〈延喜式内社 志婆加支神社・比佐豆知神社の論社〉

明神社(あきらじんじゃ)は 旧鎮座地は現在の愛宕山の西方に広がる丘の上でした 天正年中(1573~1591)荒廃し現在地へ奉遷 式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきのかみのやしろ)の論社とされ 又 御巫 清直〈江戸時代末期の国学者〉の説では 式内社 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちのかみのやしろ)とされます

奈具志理神社跡(亀山市田村町)〈延喜式内社 那久志里神社の旧鎮座地〉

奈具志理神社跡(なくしりじんじゃあと)は 明治41年(1908)能褒野神社に合祀された奈具志理神社〈延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)の論社〉の旧鎮座地でした 現在跡地には 奈久志里神社跡 東荒寺跡と刻まれた石碑が建照られています

能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉

能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』に記す日本武尊の御陵「能褒野墓」と治定〉その御霊を斎き祀る神社として御鎮座 明治41年(1908)には 村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました

縣主神社&椿護国神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉

縣主神社(あがたぬしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)の論社です 元々は川崎村〈亀山市川崎町〉に鎮座していた 俗称 縣大明神〈穗落大神社〉が 明治41年(1908)能褒野神社に合祀され 平成10年(1998)椿大神社 境内 椿護国神社の社地に遷座したものです

椿岸神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社境内 別宮〉

椿岸神社(つばききしじんじゃ)は 椿大神社境内の別宮 椿岸神社です 元々は 旧三重郡 椿尾山にあったが 毎年椿社祭祀の日に 神輿をその社頭まで昇って行く例でしたが 一里餘の遠程であったので ここに遷座したと云う 延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社てす

椿岸神社〈七郷の総社〉(四日市市智積町)〈延喜式内社 論社〉

椿岸神社(つばききしじんじゃ)は 昔は「七郷の総社」と呼ばれていて 七つの郷とは〔旧村の佐倉村(桜)・智積村・一色村・森村(菰野町神森)・赤津村(赤水・海老原村(上海老・下海老)・平尾村〕この七村の総氏神様という意味です 延喜式内社 伊勢國 三重郡 椿岸神社(つはききしの かみのやしろ)の論社です

石神社(亀山市三寺町)〈延喜式神名帳所載 論社〉

石神社(いしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社です 一般には 巨岩を神体とする石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)を推していますが 三寺町の石神社も゛広大な社地で樹木が鬱そうと茂りその地の岩を避け割ったようだ゛との通り参道は この岩の避け割った谷をの上り下りして進みます

石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〈古代から信仰の対象 巌岩〉

石大神(しゃくだいじん)は 鈴鹿山脈の断層によって形成された断層微地形「ケルンバット」(分離丘陵)で 急峻で錘状岩柱形の岩峯(がんぽう)地形の自然景観は 古代から信仰の対象となっており 社殿はありませんが巨岩を神体とする 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社とされています 敏達天皇が行幸されたという言い伝えもあります

〈伊勢國一之宮〉椿大神社(鈴鹿市山本町)〈地祇猿田彦大本宮〉

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は 社伝には 垂仁天皇二十七年 倭姫命の御神託により御船磐座の邉に 伊勢開拓神として猿田彦命を奉斎のため社殿を創建 神主は 代々山本家の世襲で 山本家は猿田彦大神の神裔とされます 社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝える 由緒ある伊勢国一之宮です

〈伊勢國一之宮〉都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)

都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)は 社伝には 雄略天皇の勅により 現在地に2つの社殿を造営したのが起源 明治時代に2社を合併し 両社の祭神は1つの社殿に奉祀されます 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 奈加等神社(なかとの かみのやしろ)都波岐神社(つはきの かみのやしろ)の論社です

〈元伊勢外宮〉豊受大神社(福知山市大江町天田内船岡山)

豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)は 第21代雄略天皇の御代に丹波国から伊勢神宮外宮に遷宮された゛豊受大神゛を祀ると伝わる 元伊勢伝承地の1つで 通称名を゛元伊勢外宮゛と呼びます 又 その境内を比沼の真名井ケ原と称したことから 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社でもあります

〈元伊勢〉藤社神社(ふじこそじんじゃ)(京丹後市峰山町鱒留)

藤社神社(ふじこそじんじゃ)は 崇神天皇の御代 比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ 古老の伝には 丹波道主命の創始とも伝えられます 雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された゛伊勢外宮の元宮゛とされる 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社です

〈元伊勢〉比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次字宮ノ谷)

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は 式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社 社傳には 第21代雄略天皇の夢の御告げ「丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神 豊受大神をば 吾許に呼寄せたい」があり 大佐々命を丹波国に遣わし 現在の伊勢(外宮)に御遷座あらせらた跡宮であると伝えます

〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)

眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します

〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)〈丹後國一之宮〉&天橋立

籠神社(このじんじゃ)は 宮司は83代も続く 海部(あまべ)家〈「国宝 籠名神社祝部海部直氏系図」あり〉その祖神゛彦火明命゛が゛籠船゛に乗り 海神の宮へ行かれた故事により゛籠゛の社名となります 正式名称は「丹後一宮 元伊勢 籠神社」一般呼称は「元伊勢籠神社」と呼ばれる由緒正しき古社です

佐紀神社〈西畑鎮座〉&釣殿神社(奈良市佐紀町字西畑)

佐紀神社〈西畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式(927年)所載 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)の論社です しかし 佐紀神社〈西畑鎮座〉を佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀とする説もあります 釣殿神社(つりどのじんじゃ)は 佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀であり 三社は同じ神を祀ります

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(奈良市佐紀町)〈延喜式内社〉

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)です 由緒は 天武天皇御宇 白鳳三年(674)鎮祀 寛平3年(891)官社に列し 治承4年(1180)焼失し 文治6年(1190)超昇寺と併せて再興 天正6年(1578)再び兵火のため焼失 その後再興されて現在に至ります

愛宕神社(堺市中区福田)〈延喜式内社 火雷神社の古社跡地〉

愛宕神社(あたごじんじゃ)は 延喜式内社 和泉國 大鳥郡 火電神社(いなひかりの かみのやしろ)の古社跡地です 愛宕大権現〈式内社 火電神社〉は 明治41年(1908)明治政府の「神社令」により 陶荒田神社に合祀されました 現在の社殿は 戦後新たに福田の人々の信仰によって 元の境内地の一隅に愛宕神が奉斎されたものです

葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

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