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見上神社(壱岐市郷ノ浦町若松触)
見上(みかみ・みのえ)神社は 壱岐の最高峰 岳ノ辻(たけのつじ)に鎮座します 対馬と九州本土を見渡せるこの地は 古代より峰火台や遠見番所などが設置され国を守る要所として重要な役割を果たし 峰火と海上の守り神として三上大明神と呼ばれていました 延宝4年(1676)式内社改めにより 見上神社と改称しました
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爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)
爾自神社(にしじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 壱岐の島まで軍を進め〈対馬へと渡る為には東風が不可欠〉風待ち停泊した時 東風石(こちいし)と呼ばれている巨石に東風の順風祈願をした すると石が二つに割れて さわやかな東風が吹きおこり 順調に三韓に渡航して戦勝した 帰朝の際 ここに風の神を祀られたと伝わります
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西八幡神社(壱岐市郷ノ浦町初山西触)
西八幡神社(にしはちまんじんじゃ)は 当初は 初山の宗廟であり尒示八幡宮(にしはちまんぐう)と称され 式内社 爾自神社(にしの かみのやしろ)とする説があります 中葉より 鏡の霊験により鏡岳神社(初山東触)が初山村の新たな宋社となってしまい その影に埋もれてしまったとされます
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志々岐神社(壱岐市石田町南触)
志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地名 印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う」
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國津意加美神社(壱岐市郷ノ浦町本村触)
國津意加美神社(くにつおかみじんじゃ)は 社記に 神代 素盞嗚尊が韓国を巡られて 御帰朝の際 壱岐国 郷ノ浦江上に着岸され 後に宮殿を建て村浦の宗廟と崇敬し奉ってきた妙見宮と申す と伝わり 壱岐嶋に24座ある式内社の一つで 藩政時代には毎年の祭礼に藩主の代参があったほどの由緒ある神社です
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本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています
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兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています
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大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました
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比賣神社(壱岐市芦辺町深江鶴亀触)
比売神社(ひめじんじゃ)は 太古 目の前が海岸〈湿地帯〉であった時 真埼(まさき)の渡所であったので砥宮(とのみや)〈渡ノ宮〉と呼ばれていた 式内社 弥佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)は 御崎渡(みさきと)の意であり 壱岐氏系譜にも 弥佐支刀社に壱岐眞根子連〈玉比賣の遠祖〉を祀るとあり 式内社の論社とされます
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彌佐支刀神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)
弥佐支刀神社(みさきとじんじゃ)は 太古には この地域の東側が沼地のように広がる内海であったとされていて この内海を渡る「海辺の出崎の渡にして御埼渡(みさきと)」その岬にあるのが式内社 彌佐支刀神社(みさきとの かみのやしろ)だと伝わっています
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物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
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熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)
熊野神社(くまのじんじゃ)は 鯨伏郷の産土神で 神社考には「立石村の海辺に温泉あり 昔の代には 地名を「アタミ」と言えり 今は湯ノ本と言う 温泉に近い熊野権現を湯屋権現とも言えり」とあり この「アタミ」から式内社 阿多彌神社(あたみの かみのやしろ)とされます 傳では 橘貞兼が神功皇后の新羅出兵の際に祈った紀伊国 熊野神を 帰国後 ここに祀ったとされます
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阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)
阿多彌神社(あたみじんじゃ)は 『神社考』に 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが 延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり この音より 式内社として比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉したとあります
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佐肆布都神社(壱岐市芦辺町箱崎大左右触)
佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 昔は 境内には椎や松が茂り 川が流れ 瀬戸もあり 眺望は無双の地であったと伝わります 『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐郡 同 佐肆布都神社(おなじき さしふつの かみのやしろ)とされます 同じ壱岐郡には佐肆布都神社も所載されており 同郡に同名の神社が連続して記載されている大変珍しい神社です
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月読神社(京都市西京区松室山添町)
月読神社(つきよみじんじゃ)は 『日本書紀』顕宗天皇の段 三年(487)に 壱岐島から月神(つきのかみ)を勧請したと 創建について記されます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 山城國 葛野郡 葛野坐月讀神社(名神大 月次 新嘗)(かとのにます つきよみの かみのやしろ)に比定され 現在は 松尾大社の境外摂社となっています
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男嶽神社(壱岐市芦辺町箱崎本村触)
男嶽神社(おんだけじんじゃ)は 天比登都柱(あめのひとつばしら)・月讀命(つくよみのみこと)が 降臨された地との伝承があり 元の月讀宮とされます すなわち式内社 月讀神社(名神大)〈現 箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)〉の当初の鎮座地です 現在の境内には御祭神 猿田彦命にちなみ並ぶ石猿群が有名です
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月讀神社(壱岐市芦辺町国分東触)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 延寶4年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉により 里人が鎮座地の「清月(きよつき)」を「ふかつき」〈深淵 ふかふち〉とも呼んでいたことに因り 式内社 月讀神社(名神大)(つきよみの かみのやしろ)と比定されましたが この比定は誤りとする説が有力視されます 延寶の調以前は「山の神」と称されていた云われます
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箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
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高御祖神社(壱岐市芦辺町諸吉仲触)
高御祖神社(たかみおやじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁2年(811)に建立とあります 紀州田邊の熊野権現を勧請したとされ 延寶の調(1676)〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉により 式内社 高御祖神社と改められました
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水神社(壱岐市勝本町布気触)
水神社(みずじんじゃ)は 社伝に 御祭神 速秋津日神が 布氣川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています 式内社の水神社(みつの かみのやしろ)とされています