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別宮大山祇神社(今治市別宮町)
別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)は 社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 伊豫国一之宮 大三島鎮座・大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)〉として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります
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大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う
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當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)
當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)〈相殿 多理比理神社〉は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた 延元元年(一三三六年)『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀し 現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀が執り行われています
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多理比理神社〈吉備津神社 境内〉(福山市新市町)
多理比理神社(たりひりじんじゃ)は 一説に もとは品治郡服部村大字服部本郷に鎭座していたが 何時の頃か社が荒廃し 吉備津神社の境内に移された また一説に 多理比理神社が 品治郡宮内村に当初より鎭座していて 後に分祠であった吉備津神社が備後一宮として移されたとする説もあります 『延喜式神名帳』には 多理比理神社は記載があり 備後吉備津神社は記載がありません
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吉備津神社(福山市新市町)〈備後一宮〉
吉備津神社(きびつじんじゃ)は 神秘的な正中光〈ご神体〈御鏡〉が朝日を反射して 参道の正中を貫く現象〉が 年に二度〈2月と9月〉おこります 創建は 大同元年(806年)と古く 備後國一之宮として 一宮(いっきゅう)さんと呼ばれ親しまれています
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吉備津彦神社(岡山市備前一宮)
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)は 備前国一之宮で 備前国と備中国の境界ある吉備の中山(標高175m)の北東麓に東面して坐ます 太古の太陽信仰の形を留める場とされ 夏至の日に正面鳥居から差し込んだ朝陽が 祭文殿の御鏡に入る造りで 太陽を真正面から迎え鎮座するので朝日の宮(あさひのみや)とも称されます
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吉川八幡宮(吉備中央町吉川)
吉川八幡宮(よしかわはちまんぐう)は 永長元年(1096)京都 石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり その後 慶長年中(1596~1615年)に断絶したが 後光明天皇 寛永21年(1664)に寄付の記録があります 『備中誌』に 吉川村の村内に布郡(ふこほり)と呼ばれる地名があり ここが式内社 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の所在ではないかと記しています
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古郡神社(総社市総社)& 古郡神社々跡
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)は 創建年代は不詳 正長元年(1428)の大風により倒壊し 久米村御崎神社に合祀奉遷された 嘉永四年(1851)足守藩木下利成の援助により 西山の旧社地に社殿を造営し再興された 明治初期造営の社殿は倒壊していて 現在は 小祠と古郡神社々跡の石碑が残ります
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池田神社(総社市槙谷市井谷)〈元槇谷鎮座 古郡神社を合祀〉
池田神社(いけだじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国(びっちゅうのくに)賀夜郡(かやのこおり)古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社であった 元 槇谷鎮座 村社 古郡神社を 大正二年(1913)十二月十三日に合祀していて 現在 式内社の論社となっています
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吉備津神社(岡山市北区吉備津)〈備中国一之宮〉
吉備津神社(きびつじんじゃ)は 社伝によれば 第十六代 仁徳天皇が吉備国に行幸された時 ゛大吉備津彦命〈第七代 孝霊天皇の皇子〉゛(第十代 崇神天皇の御代に吉備国に下られ 鬼の温羅(うら)を平らげた)を祭神として御創建になられたと云う 後に延喜式では 名神大社に列し やがて最高位の一品の位になり 一品吉備津宮ともいう
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高千穂神社(高千穂町三田井字神殿)
高千穂神社(たかちほじんじゃ)は 垂仁天皇の御世 創建と伝わり 高智保皇神(たかちほのすめかみ)として 六国史『続日本後記』『三代実録』に記述がある国史見在社ともされます 天慶年問(938~947年)豊後国の豪族 大神惟基の子・政次が 高知尾(高千穂)氏を興し 十社大明神を高千穂18郷(高千穂八十八社)の総社として崇め 広く郷民の信仰を集めたといいます
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霜神社(阿蘇市役犬原)
霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央に位置する役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
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阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)は 阿蘇神社の奥宮〈奥の院〉とされ 古くから阿蘇火山を鎮める神社として朝廷の崇拝を受けてきました 社記には「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り社家の内笠忠基をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う」と伝わります
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青麻神社(仙台市宮城野区岩切)〈青麻岩戸三光宮〉
青麻神社(あおそじんじゃ)は 社伝によれば 仁寿2年(852)現社家の祖 穂積保昌が 都よりこの地に来て 土民に麻の栽培を教え 一族の尊崇する日月星の三光神を窟中に奉祀したのが青麻岩戸三光宮の創始で 天和2年(1682)に常陸坊海尊(長寿伝説)が下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し中風病退除の神として 各地に青麻神社が広まりました
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美和神社(長野市三輪)
美和神社(みわじんじゃ)は 善光寺七社の一つとされ 長野電鉄本郷駅の西側に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』信濃国 水内郡九座の筆頭に記される式内社で 三輪山をご神体とする奈良県〈大和国〉の大神神社と同じく古代の大三輪氏大神一族によって祀られたとされます 社頭には三輪鳥居が構え 美和神社付近の住所は三輪(みわ)と呼ばれています
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讃岐国 式内社 24座(大3座・小21座)について
讃岐国(さぬきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 讃岐国 24座(大3座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について
若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について
出羽国(でわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 出羽国には 9座(大2座・小7座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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西寒田神社(臼杵市野津町西寒田)
西寒田神社(ささむたじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社「豊後国大分郡 西寒多神社」の論社です・『豊後国志』・『太宰管内志』では こちらが本祠であって 応永15年(1408)3月に大友親世が現在地〈西寒多神社(大分市寒田)〉に遷座したと伝えています
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西寒多神社(豊後大野市犬飼町)
西寒多神社(ささむたじんじゃ)は 社伝によれば『延喜式神名帳927 AD.』所載の豊後國 大野郡一座大 西寒多神社であり 文化九年(一八一二) 白川神紙伯の「鎮國一宮 西寒田神社」の社号をうけていると伝えています 式内社の論社でもあり 豊後国一之宮の論社でもあります