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香取御児神社(栗原市築館久伝)〈旧鎮座地〉
香取御児神社(かとりみこじんじゃ)〈旧鎮座地〉は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 栗原郡 香取御兒神社(かとりみこかみのやしろ)の論社地です 『観跡聞老志區別帳』『登米縣の注進』に「所在は築館村 二尺程の石をたてて 香取神社と彫付ありと云る」と記されています
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和渕神社(石巻市和渕町)
和渕神社(わぶちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)の論社です 大古 香取神社の神船が 常陸より牡鹿郡 和渕山の西辺(船島)に着き その東方に船を留め(船澤)山頂に宮柱を立て神様を祭祀したとも 坂上田村麿将軍が 大同二年(806)遠田郡箆岳へ十一面観音を建立の節に和渕山本宮に「木船明神」を勧請したのがはじまりとも伝えられる
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香取伊豆乃御子神社(石巻市折浜竹沢)
香取伊豆乃御子神社(かとりいづのみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 陸奥国 牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社(かとりいつのみこ かみのやしろ)とされます 御祭神は 香取神宮の苗裔神(びょうえいしん)〈香取伊豆乃御子神(阿佐比古命)〉とされます
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速谷神社(廿日市市上平良)
速谷神社(はやたにじんじゃ)は 正史上に初見するのは古く『日本後紀』弘仁2年(811)7月 速谷神〈速谷神社〉と伊都岐嶋神〈厳島神社〉が名神例に預かったと記されます 古代 神祇官〈朝廷〉から毎年四度の幣帛を受ける官幣大社で 安藝一之宮でしたが 厳島神社が平安末期から平氏〈平清盛公〉に崇敬されるにつれて 衰頽し 安芸国二之宮と称されるようになっていったとされます
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松崎八幡宮跡(安芸郡府中町宮の町)
松崎八幡宮跡(まつざきはちまんぐうあと)は 平安時代末~鎌倉時代初めに 京都石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり 元暦2年(1185)源頼朝の下文に「松崎別宮」と記されます 江戸時代には 境内 たけい社を『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)であると主張して総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった松崎八幡宮の旧跡です
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総社跡(安芸郡府中町本町)
総社跡(そうじゃあと)は 安藝国 府中の在庁官人(ざいちょうかんにん)となった田所氏が平安時代終わり頃に創建した総社と思われます 江戸時代には『延喜式神名帳927 AD.』記載 多家神社〈名神大〉(おほいえの かみのやしろ)の所在をめぐり南部の八幡社と総社との争いが絶えず 明治7年(1874)創建した多家神社に合祀されて廃社となった総社の旧跡です
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多家神社(安芸郡府中町宮の町)
多家神社(たけじんじゃ)は 延喜式に載る 安藝国 名神大社 多家神社(おほいえの かみのやしろ)の後継社です 中世になると社運が衰え 江戸時代には南氏子(松崎八幡宮 まつざきはちまんぐう)と北氏子(総社 そうじゃ)が 互いに多家神 埃宮を主張して論争対立が絶えず 明治六年(1873)松崎八幡宮と総社を合わせ現在の社地「誰曽廼森(たれそのもり)」に多家神社を復興したものです
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春日大社(奈良市春日野町)
春日大社(かすがたいしゃ)は 社記によると 神護景雲二年(768)・武甕槌命〈常陸国 鹿島神宮〉・経津主命〈下総国 香取神宮〉・天児屋根命〈河内国 枚岡神社〉・比売神〈河内国 枚岡神社〉を併せ 御蓋山(みかさやま)麓に四殿の社殿を造営し 四座が鎮座して 春日大社が創建されたと伝えています
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春日大社(奈良市春日野町)・摂社・末社
春日大社(奈良市春日野町)の・摂社・末社について 記載しています
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隼神社〈角振明神〉(奈良市角振新屋町)
隼神社(はやぶさじんじゃ)は 平安京への遷都によって京都に遷座された式内社の隼神社の本社と伝わります 御祭神 角振隼総別命(つのふりはやぶさわけのみこと)は 鎮座地 角振新屋町の地名の由来ともなっています 角振明神(つのふりみょうじん)とも呼ばれます
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采女神社(奈良市樽井町)
采女神社(うねめじんじゃ)は 現在 春日大社の末社で 猿沢池のほとりに鎮座します 『大和物語〈平安時代(951年頃)までに成立〉』には 奈良時代 天皇の寵愛が薄れたことを嘆き 猿沢池に身を投じた采女(うねめ)の物語が記されています 神社の創建は この采女の霊を慰めるために祀られた祠が始まりです
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浮雲神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
浮雲神社(うきぐもじんじゃ)は もと興福寺の子院・四恩院の鎮守社として祭祀されていましたが 明治の廃仏毀釈により現在地に遷座し 春日大社境内社となっています 「御蓋山(みかさやま)の頂上 浮雲峰(うきぐものみね)」に鎮座する本宮神社(禁足地内 一般参拝不可)と同体とされます
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宅春日神社(奈良市白毫寺町)
宅春日神社(やけかすがじんじゃ)は 社伝では 天児屋根命は神護景雲二年(七六八)河内国枚岡から大和添上郡高円山麓に移座〈高円山の社とは当社地のこと〉同年十一月九日に現 春日大社の社地に留まられたとあり かつて山の辺の道沿いの当地方は大宅郷と称し 物資豊かで古代豪族の大宅氏が北大和を領有していた要衝であったと伝えられている
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春日神社(山添村春日)
春日神社(かすがじんじゃ)は 平城京遷都に伴なって〈神護景雲二年(768)の「春日大社」創建の際〉鹿島神宮から武甕槌命の御神霊が奈良〈春日大社〉へ向かう際 立ち寄って一泊した所〈山添村春日〉と云う その跡地に春日神を祀った神社とされ 式内社 春日神社の論社でもあります
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榎本神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
榎本神社(えのもとじんじゃ)は 春日大社の境内社で 本社廻廊の南西の角に鎮座します 式内社 春日神社(かすかの かみのやしろ)の論社です 春日大社が 現在地(春日野)に創建される以前からの 当地の地主神で 一時安倍山(現奈良県桜井市)にお遷りになったが 承平5年(935)再びこの場所へ御帰座になったと伝えられています
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鳴雷神社&高山神社〈春日大社末社〉(奈良市春日野町 春日山内)
鳴雷神社(なるいかづちじんじゃ)&高山神社(こうせんじんじゃ)は 佐保川と能登川の源流 春日山の分水嶺 香山(こうせん)に鎮座する水神様 水源祭祀の御神体として龍王池を祀る鳴雷神社は 明治8年(1875)までは香山龍王社とも呼ばれ 又『延喜式神名帳AD.927』所載 宮中神 36座 主水司坐神(もいとりのつかさにましますかみ)1座 鳴雷神社は 大和国の式内大社 鳴雷神社〈当社〉を遷座したものとされます
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穴栗神社(奈良市横井)
穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています
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宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)
宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります
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井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります
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初宮神社(奈良市鍋屋町)
初宮神社(はつみやじんじゃ)は 平城京〈710~794年頃〉奈良時代 宮中の神祇官にて祀られていた八神殿の跡〈第九代 開化天皇の時代〈BC.157~BC.98年〉の八神殿であるとも伝〉とされる聖地です 八神殿は その後 京都への遷都とともに京都に遷り 現在は東京の皇居に鎮座しています 現在の初宮神社は 世界遺産・春日大社(かすがたいしゃ)の境外末社となっています