shrine-heritager

王子和田津美神社(徳島市国府町和田宮ノ元)〈式内社 和多都美豊玉比賣神社の論社〉

王子和田津美神社(おうじわたつみじんじゃ)は 徳島藩の地誌『阿波志』には゛延喜式小祠と為す 和多村に在り 今王子と称す゛と記され 延喜式内社 阿波国 名方郡 和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)の論社とされています

雨降神社(徳島市不動西町)〈延喜式神名帳所載 論社〉

雨降神社(あまたらしじんじゃ)は 創建年代は不祥です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載の 二つの式内社〈①天石門別豊玉比賣神社(あめのいはとわけ とよたまひめの かみのやしろ)②和多都美豊玉比賣神社(わたつみとよたまひめの かみのやしろ)〉の論社です 近世では゛雨降大明神゛と称し 雨乞の霊験が伝わります

荒田神社(多可町中区 安楽田(あらた))〈式内社 荒田(あらたの)神社の論社〉

荒田神社(あらたじんじゃ)は 天平神護元年(765年)創建の古社〈兵火により荒廃し 寛文年間(1661~72)現在地に社殿が復興〉鎮座地名は゛安楽田(あらた)であり ゛延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とされ 中世以降に隆盛を極めた加美町の二宮荒田神社と式内論社の本家争いをしたと伝わります

荒田神社(多可町加美区的場)〈播磨國二之宮〉

荒田神社(あらたじんじゃ)は 社伝に゛孝謙天皇 天平勝寶元年(749)゛少彦名命゛が降臨し創建と云う 一方『播磨国風土記』〈霊亀元年(715)頃〉には゛天目一命゛と゛道主比賣命゛の伝承が語られ 延喜式内社 播磨國 多可郡 荒田神社(あらたの かみのやしろ)とも 天目一神社(あまめのひとつの かみのやしろ)とも云います

陶荒田神社(堺市中区上之)〈古代の陶器の生産拠点゛陶邑(すえむら)゛鎮座〉

陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の勅により太田田根子〈素盞鳴命十世の孫〉が創建し 社号゛陶荒田(すえあらた)゛は 地名の゛陶邑(すえむら)゛〈古代の陶器生産地〉・人名の゛荒田直(あらたのあたい)〈祖神の祭祀を司る一族〉から付きました

荒田神社(岩出市森)〈延喜式内社 荒田神社二座の論社〉

荒田神社(あらたじんじゃ)は 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めにより 灰燼に帰し 縁起 寄進状 宝物等すべて焼失し 由緒は定かではありませんが 『延喜式神名帳(927年)』には 紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)と所載される由緒ある古社です

海神社(紀の川市神領)〈延喜式内社 海神社の論社〉

海神社(かいじんじゃ)は 通称「海神(うながみ)さん」の名で親しまれ 主祭神は豊玉彦命・国津姫命です 創建は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC.29~72AD.〉忌部宿禰が 神のお告げによって創建したと伝えられる古社で 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の紀伊國 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)とされます

高積神社(和歌山市祢宜)

高積神社(たかつみじんじゃ)は 高積山〈和佐山 わさやま〉の山頂に゛上の宮゛麓に゛下の宮゛が鎮座します 上の宮は゛髙宮・髙三所明神゛下の宮は゛氣鎭社゛とも呼ばれ 式内社の都麻都比賣(つまつひめの)神社(名神大 月次 新嘗)とも 同じく式内社の髙積比古(たかつみひこの)神社 髙積比賣(たかつみひめの)神社ともされています

都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)

都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座 大宝2年(702)に分遷した三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕の一つです 亥の森から遷座後は 三社は各々 式内社の名神大社となりましたが 都麻津姫神社の所在地は不明となり 論社は現在三ヶ所です

都麻津姫神社(和歌山市吉礼)

都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 当初は三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕で一つの神社でした 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座します 大宝2年(702年)三社は分遷 亥の森から遷座 各々が 式内社の名神大社となりました 都麻津姫神社の論社は 現在三ヶ所あります

大屋都姫神社(和歌山市宇田森)

大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は 当初の鎮座地は 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の地 その後 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉両神宮に社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へ遷座します 大宝2年(702年)伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷により 亥の森から現社地の北方 古宮に遷座した後 現在地に遷座と伝えています

水門吹上神社(和歌山市小野町)

水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります

伊達神社(和歌山市園部)

伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う

志磨神社(和歌山市中之島)

志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました

静火社 舊地(和歌山市和田)

静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました

静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉

静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます

熊野三所大神社(那智勝浦町大字浜の宮)

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)は 創建の伝承には 神武天皇が東征の時 御上陸の地点で 頓宮の御遺蹟であり 又 その御上陸の際に抵抗した゛熊野の首長 丹敷戸畔(にしきとべ)゛の小祠を祀ります 平安時代からは 補陀落渡海(ほだらくとかい)の拠点となった補陀洛山寺とともに 那智山から下った那智浜に鎮座する 熊野三所権現(渚王子)として有名です

普天満宮(宜野湾市普天間)

普天満宮(ふてんまぐう)は 王府から特別の扱いを受けた゛琉球八社゛の一つで 創建の伝承によれば 往昔 普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり 第一尚氏王統・第5代国王 尚金福王から第6代国王 尚泰久王の頃(1450~1460年)熊野権現を合祀したと伝わります

金武宮(金武町金武)

金武宮(きんぐう)は 永正年間(1504~1521)補陀落渡海僧゛日秀上人(にっしゅうしょうにん)゛が 漂着した金武に補陀落浄土を観じて この土地にお寺を建て・観音菩薩・薬師如来・阿弥陀如来を彫り〈金武観音寺(きんかんのんじ)〉奉安し 同じ頃 鍾乳洞内に熊野三所権現〈金武宮(きんぐう)〉を勧請したと伝わります

沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)

沖繩神社(那覇市首里鳥堀町)は 1879年 琉球併合(りゅうきゅうへいごう)によって 沖縄県が新設され 大正期に入り 沖縄県民は近代社格制度に基づく「県社」の建立を希望し 首里城跡に 源為朝公と歴代国王が祀られる 沖縄神社が創建されたのが始まりです 戦後 弁ヶ嶽の隣に再建されて現在に至ります

Copyright© Shrine-heritager , 2025 All Rights Reserved.