阿多彌神社(あたみじんじゃ)は 『神社考』に 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが 延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり この音より 式内社として比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉したとあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
阿多彌神社(Atami shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市勝本町立石東触字畑見128
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
『神社考』に 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが 延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり この音より 式内社として比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉したとあります
神社考云、立石邑コトノ坂 山石神ト稱シテ 社モ無ク聢ト祭ル事モナカリシニ 其ノ山ヨリ南百間餘リニ「アタミ」畑ト稱スル畠ノ名ニ因ミテ 此ノ石神ヲ 御改ノ時ヨリ 阿多彌神社トセリ。
「アタミ」畑ハ 昔 薊(あざみ)ノ多ク生ゼシ時ノ名ニシテ「アザミ」ノ訛レル畑ナレバ是ニ據ナキ歟。
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿多彌神社
[ふ り が な ](あたみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atami no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 壱岐郡 阿多弥神社(あたみの かみのやしろ)の論社について
・阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)
・熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
壱岐島の西部 湯本浦には温泉が湧いていて 湯ノ本温泉があります
湯ノ本港から南西方向へ約3km 車5分程度
道路沿いの社頭に鳥居が建ちます
阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 石段を上がります
鳥居扁額には 阿多弥神社 と刻されています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿は修復されていて 奥には本殿の覆い屋があります
社殿に一礼をして 参道石段を下ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻20 立石村 併 湯本浦 之部に 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)は 延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社の壱岐郡 阿多弥神社と改められたと記しています
【抜粋意訳】
巻20 立石村 併 湯本浦 之部
阿多弥神社 在 事ノ坂山
祭神 大己貴命 少彦名命
石祠 延宝四年 国主奉納
・・・・
・・・・当社始めは 事の坂山石神と称して 社もなく祭ることもなけれども
延宝四年 式社改めの時 北の方に波多し畠といふ名あるによりて あたみならんとせしとを 阿たみといへりや
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 阿多彌神社の所在として 立石村〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿多彌神社
阿多彌は 假字なり
〇祭神 詳ならず
〇立石村に在す 土俗 天神と称す
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 阿多彌神社の所在として 立石村〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉と記しています
【抜粋意訳】
阿多彌神社
祭神 大己貴命 少彦名命
祭日 九月十九日
社格 (無社格)
所在 立石村(壱岐郡鯨伏村大字立石)
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
式内社の阿多彌神社の所在として 二つの説を載せています
①神社考が云うには 延宝4年(1676年)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉より以前は 山石神と呼ばれ 社もなく祭祀もなかったが
延寶の調で橘三喜が 近くにあった「あたみ畑」(あざみが訛った)という畑があり比定〈現 阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)〉した
➁温泉のある海辺があり熱海(あたみ)温泉から 宗廟熊野権現ハ 温泉ニ近ケレバ湯屋権現ニシテ 紀州熊野ノ湯ノ如シ 延宝4年(1676年)延寶の調以前は式内社と呼ばれていたのは〈現 熊野神社(壱岐市勝本町立石南触)〉
【抜粋意訳】
鯨伏村ノ部 無社格 阿多彌神社
鎮座地 鯨伏村大字立石東触
祭 神 大己貴命、少彦名命
例祭日 四月十九日 神幸式、大神樂奉秦
境内地 257坪〔由緒沿革〕
一、當社ハ延喜式内、壹岐國廿四座ノ一ナリ。
一、神社帳ニ曰、「コトノサカ」阿多彌神社、小神、二十四座之内、定祭九月十九日、古來 鎭座年數不知、延寳四年 國主鎭信公 木鏡御正体一面、石額ヲ献ゼラル。
一、壹岐圓ニ曰、阿多彌神社在ニ立石村許等坂所祭 大己貴神、少彦名命、嗣官 神坂式部藤原尚清、定祭九月十九日。
一、文徳天皇 仁壽元年辛未 正月庚子 詔授正六位上、陽成天皇 元慶元年丁酉九月廿五日 使中臣忌部兩氏 班幣依大嘗會供奉也。
八年甲辰八月十六日大中臣氏人参向依所大嘗會也。
朱雀天皇 天慶三年庚子、崇徳天皇 永治元年辛酉七月、高倉帝治承四年庚子冬十二月、後鳥羽天皇元暦二年乙巳春三月三日各奉増一階トアリ。一、神社考云、立石邑コトノ坂 山石神ト稱シテ 社モ無ク聢ト祭ル事モナカリシニ 其ノ山ヨリ南百間餘リニ「アタミ」畑ト稱スル畠ノ名ニ因ミテ 此ノ石神ヲ 御改ノ時ヨリ 阿多彌神社トセリ。
「アタミ」畑ハ 昔 薊(あざみ)ノ多ク生ゼシ時ノ名ニシテ「アザミ」ノ訛レル畑ナレバ是ニ據ナキ歟。一、立石邑海濱ニ温泉アリ 然ルニ 其ノ村 宗社熊野権現ト稱セルアリ、右ノ温泉ニ近シ コレニ因ルトキハ阿多彌ハ温(アタタカ)ナル泉(イズミ)ノ義ナランカ、依テ昔ノ代ニハ 地名ヲ「アタミ」ト云ヘリ、今ハ湯ノ本ト云フ。伊豆國二モ 熱海(アタミ)ト云フ温泉アリ 即チ宗廟熊野権現ハ 温泉ニ近ケレバ湯屋権現ニシテ 紀州熊野ノ湯ノ如シ。熊野権現 御改以前ハ 式内ノ社ト稱シケレバ 阿多彌神社ナラム歟(抄録)
一、太宰管内誌ニ曰、阿多彌ハ阿曇也ト 何レニ従フベキカ 尚ヨク考ヘ合スベシ。
【原文参照】
阿多彌神社(壱岐市勝本町立石東触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)