天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)は 古代 稲葉国造(いなばのくにのみやつこ)の氏神として天穂日命が祀られたものであったと伝わります 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の因幡國 高草郡 天穗日命神社の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
天穗日命神社(Ameno hohinomikoto shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市福井361
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天穂日命(あめのほひのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
天穂日命神社由緒
太祖天照皇大神の第二皇子にます天穂日命は勅命により差し遣はされ大国主大神に御奉仕せらる
貞観九年因幡国正三位天穂日命社を官社に列すとあり由来皇室の尊崇厚く式内郷社に列せらる現地石碑より
【由 緒 (History)】
ふるさと文化探訪
天穂日命(あめのほひのみこと)神社
古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祭る式内社である。
古代の因幡の大社は国府町にある宇倍神社であるとされているが、格式からみると九世紀中ごろまでは、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの高草郡に本拠をおく因幡国造氏であった。
なお、天穂日命神社が、もとは現在の布施日吉神社の社地にあったという一説もあり、社地の決定には疑 問視するむきもある。平成四年三月 鳥取市教育委員会
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・稲荷神社《主》保食神
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高草郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天穗日命神社
[ふ り が な ](あまのほひのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanohohi no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社で 天穗日命神社と称するのは 三ヶ所あります
山城國 宇治郡 天穂日命神社
・天穂日命神社(伏見区石田森西)
因幡國 高草郡 天穗日命神社
・天穗日命神社(鳥取市福井)
・天穂日命社〈日吉神社 境内摂社〉(鳥取市布勢)
出雲國 能義郡 天穗日命神社
・支布佐神社
・能義神社
・切川神社《参考》
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
湖山池の西 湖山池に半島状に突き出した高さ38.8メートルの小丘に築城された 防己尾城(つづらおじょう)跡を目指します
そのすぐ東に鎮座地 福井の集落があり 社頭の狭い道に面して鳥居が建つ
天穗日命神社(鳥取市福井)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の扁額には「天穗日命神社」
長めの石段を上がると「天穗日命と白うさぎの石像」があり その上に社殿が見えます
さらに石段を上がると 社殿の建つ境内地に着きます
苔生した石畳みま参道を進むと狛犬が二連に座します
東方向を向く社殿に対して 石畳みの参道は少し北寄りから斜めに向かっています
参拝者が正中を進まないような配慮がなされています
幕にある御神紋は 出雲大社と同じ 二重亀甲に剣花菱
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 見事な彫刻が施されている本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の氏神・天穂日命 六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
【抜粋意訳】
天穂日命(アメノホヒノミコト)神社
三代実録 貞観九年五月二十一日己未 詔又以・・因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社
志 大谷保福井村氏神 華表額曰 天穂日命六王神社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
【抜粋意訳】
天穂日命神社
天穂日は 阿麻乃保比と訓べし
〇祭神 明らかなり
〇大谷保福井村に在す、今 六王神社と称す 因幡志類社 山城國 宇治郡 天穂日命神社
官社 三代実録 貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
祭神の考証がなされていて 興味深い
【抜粋意訳】
天穂日命神社
祭神 天之菩卑能命
今按〈今考えるに〉
天穂日命 天日名鳥命は
出雲国造神賀詞に
「出雲臣等が遠祖 天穂比命を國體見に遣はしし時に 天の八重雲を押し別けて天翔り國翔りて 天下を見廻りて返事申し給はく 豊葦原の水穂國は 昼は五月蝿如す水沸き夜は火瓮の如く光く神在り 石根木立青水沫も事問ひて荒ぶる國なり
然れども 鎮め平けて皇御孫命に安國と平けく知ろしめし坐さしめむと申して 己命の児 天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し遣して荒ぶる神達を撥ひ平け 國作しし大神をも媚ひ鎮めて大八嶋國の現事顕事事避らしめき」とみえたるを神代巻に
「高皇産靈尊は 八十諸神を集めて問うに
「吾は 葦原中国の邪神を追い払い平定するに 誰を派遣せればよいか ここに居る神々よ 知ることは隠さず申せ」
神々の答え「天穗日命(あめのほひのみこと)が優れている 試すべきだ」
そこで高皇産靈尊は 神々の意見に従い 天穗日命を葦原中国に送り 平定しようとした
しかし この天穗日命は 大己貴神(おほなむちのかみ)の機嫌を取り 三年たっても 報告しなかった 云々」
また 神代巻一書「高皇産靈尊 勅して 大己貴神曰 云々 当主として 汝の祭祀者は 天穗日命(あめのほひのみこと)なり」とあるによりて賀茂真淵が説に
穗日命は スサノヲノ命の御子なり 大名持命はスサノヲノ命の六世の孫也 され共 大名持命は天神 スサノヲノ命の詔を受得て天下を平らげ 諸の国を作り成りて大国主におはすれば 天つ神王といへども 遂には媚玉ひて言治め成ましつ 然れば 穗日命の天降て三年なるまでに 漸に媚和し宣しき時を以って 天に復命申て 遂に 天夷鳥命 布都奴志命を天降し 建き御稜城と和し治むると二つもて 大名持命の日隅宮をば天津神の御巣如て祟み斉ひ祭らむてふ契して避ひそまりまさしめたるは 専穂日命の思兼によれり 故に終の祭をば この命のなさむものとは詔ひしなりけり
この事 古事記 日本紀の一わたりの言にのみよらば罪有るべきをさはなくて 此命に大名持命の祭をなさむものと詔ひ 又 この命 天へ帰りまさすは 此神王の命も有べからず 末にも下つ国に此命の坐よしも有べし 父命の命に順と云るも かく媚すは治むべからずをもてのわざと知らる
古事記と紀とにもれたる事を 此 神賀詞の古き伝へを むかへて思ひはかるべきなりと 云れたるが如く 其の功烈あらざらんには 何て神社に祭らるべきかかる理を知りて 此神の祭るる故をも思辨ふべし 況や 此以下の数社みな野見宿祢を祭れるに附て其の氏人の祟め祭れる者なるをや官社
清和天皇 貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社祭日 四月九月 九日
社格 村社(明細帳に明治四年郷社に列せられ云々あり)
所在 大谷保福井村 字村字谷ノ二(氣髙郡大郷村大字福井)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉としていますが
もう一ヶ所 布勢村に一社あり〈現 日吉神社境内社 天穗日命神社(布勢)〉も記しています
【抜粋意訳】
〇鳥取縣 因幡國氣髙郡 大郷村大字福井字宮ノ谷
郷社 天穂日命(アメノホヒノミコトノ)神社
祭神 天穂日命(アメノホヒノミコト)
本吐一に天穂日命六王神社と称すること鳥居の額に記せり、創立年代詳ならず、三代実録に「清和天皇貞観九年五月二十一日己未、詔、以ニ 因幡國 正三位 天穂日命神 列ニ於官社云々、上世当国神社位授ニ三位者無一二紳外」とあり、以って当社の如何に住昔より朝廷の御崇敬厚かりしを知るべし.降って延喜の制式内小社に列せらる。実に旧髙草郡七座の一にして、古来当村の鎮守たり、明治四年郷社に列す.社殿は本殿、拝殿、神楽殿、神輿庫等にして.境内千八百坪あり
式の所謂 天穂日命神社と称するもの.別に布勢村に一社あり.為めに因幡志の如き之を決する能はずして、
「南北保布勢村山王権現 摂社保比呂比の五輪と称する碑碣 是也と
叉大谷保福井村の氏神 天穂日命六王神社と号するあり、正しく花表の額に註せり、二所紛亂として決しがたし」と云えり、五輪と称する碑碣、是著者の大に感ふ所なるべし。
伴氏神名帳考証に「大谷保福井村氏神 華表額曰 天穂日命六王神社」と注し、神祇志料更に「今大谷保福井村に在り」と云い、又「天穂日命六王神社と云ふ」と付記せるあれば参考すべし。
【原文参照】
『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承
式内社 天穗日命神社の所在は 大谷保福井村の六王神社〈現 天穂日命神社(鳥取市福井)〉と記しています
永禄四年(1561)に五社が大破し併せ祭り天穂日命六王神社と称した 戦火により遷座し 室町時代末期に現在の社地に移転したと考えられ 江戸時代には六王大明神
明治元年(1868年)現在の社名に改称 明治3年(1870年)に福井村の荒船社を合祀 明治12年(1879年)に荒船社を元の社地に荒船神社として分祀したが 荒船神社は大正3年(1914年)稲荷神社と共に同神社に合祀された
【抜粋意訳】
郷社 天穂日命神社
氣髙郡大郷村大字福井字宮ノ谷鎮座
祭神 天穂日命 熊野櫲樟日命 保食神
由緒
延喜式所載の神社なり、三代実録巻十四貞観九年五月の條に「廿一日己詔又以因幡国正三位天穂日命神列於官社」と見えたり、永禄四年九月九日 岡ノ谷、小辛川、長谷、湯ノ谷、荒船の五社大破に及びたるを以て当社相殿に祀る、之より六王と称し奉る、
即ち因幡誌に「大谷の保福井村の氏神花表額に天穂日命六王神社と記せり」と載する之なり、
然るに豊臣秀吉山陰平定の際、社殿兵燹に罹りしより旧の如くならずとも雖も、国司藩主等の尊崇絶えず、其の後 祭神 熊野櫞樟日命を分ちて大郷村大字福井字ソバガ谷に遷し奉り、明治三年再び本社に合祀し、同十二年十一月更らに旧地に奉祀し 荒船神社と称せしが、大正三年十二月十七日大郷村大字福井字家ノ前に鎮座 無格社 稲荷神社(祭神 保食神)と共に三度本社に合祀す、是より先明治四十年二月二日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正七年四月本殿を改築す。例祭日 四月九日
建造物 本殿 幣殿 拝殿 神輿庫 神楽殿
境内坪 千八百坪
氏子戸数 百戸
【原文参照】
天穂日命神社(鳥取市福井)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)