賀茂神社(かもじんじゃ)は 第10代 崇神天皇の朝 豊城入彦命が 東国鎮護のため山科国の賀茂神を勧請したと伝えられ 桓武天皇 延暦十五年(796)官社に列せられ その後 陽成天皇 元慶四年(881)正五位下勲十二等を授る由緒ある古社です 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 山田郡 賀茂神社(かもの かみのやしろ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
賀茂神社(Kamo shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
群馬県桐生市広沢町6-833
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》別雷神(わけいかづちのかみ)
《配》尾羽張神(おはりのかみ)
玉依姫命(たまよりひめのかみ)
菅原道真公(すがわらのみちざのきみ)
経津主命(ふつぬしのみこと)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
建御名方神(たてみなかたのかみ)
白滝姫命(しらたきひめのみこと)
素盞嗚命(すさのをのみこと)
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
外十柱
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代は不詳ですが 社伝によると 崇神天皇の朝 豊城入彦命 東国鎮護のため山科国の賀茂神を勧請したと伝えられている 桓武天皇 延暦十五年(七九六)官社に列せらています
【由 緒 (History)】
延喜式内
賀茂神社 由緒略記
祭神 賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)
神紋 二葉葵 祭神追記
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
経津主神(ふつぬしのかみ)武甕槌神(たけみかづちのかみ)
建御名方神(たけみなかたのかみ)素盞嗚命(すさのをのみこと)
白滝姫命(しらたきひめのみこと)
宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ) 外 二十柱
創立年代不詳 社伝によると 崇神天皇の朝 豊城入彦命 東国鎮護のため山科国の賀茂神を勧請したと伝えられている 桓武天皇延暦十五年(七九六)官社に列せらる「日本後記 巻五 」陽成天皇元慶四年(八八一)正五位下勲十二等を授けらる「三代実録」醍醐天皇延喜年間(九〇一頃)諸国の神社御改めあり 三千一百三十余座の内 上野国十二社 中に山田郡下広沢村賀茂沢に賀茂神社御鎮座 式内の社となる (延喜式巻十 神祇十)又 上野国神名帳に「従一位賀茂大明神」と見えている
例祭 春祭 四月十五日
秋祭 元旦祭 節分祭
八坂祭 豊機祭
大祓 六月三十日 十二月三十一日
春秋二期例祭 宮比講太々神楽
特殊神事 御篝神事 (火投げ神事)節分の夜
現地案内板より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・香取社《主》経津主命
・鹿島社《主》武甕槌神
・賀茂御租神社《主》玉依姫命
・豊機社《主》幡千千姫命
・八坂神社《主》素盞嗚命
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
上野國の 賀茂神 美和神 火雷神の三社が官社に列しています
【抜粋意訳】
巻五 延暦十五年(七九六)八月甲戌〈十六日〉の条
○甲戌
上野國 山田郡 賀茂神 美和神
那波郡 火雷神 並 爲官社
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
上野國の神々と共に 神階の授奉が記されています
【抜粋意訳】
巻卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉の条
○廿五日戊寅
授に
上野國正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城石神・伊賀保神 並從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神・波己曾神 並正五位上勳十二等
從五位上 賀茂神・美和神 並正五位下勳十二等
正六位上 稻含地神 從五位下勳十二等内藏寮置寮掌二員 其衣粮 以藏部料内 給之
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山田郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 賀茂神社
[ふ り が な ](かもの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamo no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
賀茂神社御篝神事(かもじんじゃみかがりしんじ)と太々神楽(だいだいかぐら)について
桐生市指定重要無形民俗文化財
賀茂神社御篝神事(かもじんじゃみかがりしんじ)
指定年月 日平成3年4月11日
区 分 桐生市指定重要無形民俗文化財
所在 地 桐生市広沢町六丁目833
所有 者 賀茂神社御篝神事保存会神事の内容としては次のとおりである。
神事に参加する氏子たちは、揃いの白装束に着替えて昇殿し、半紙を切り抜いた人形に生年月日と名前を記し、これで身体の悪い部分を撫でて、諸病その他の災厄を移す。そして氏子たちは、人形(ひとがた)と共にお祓いを受ける。その後、節分の豆まきを行う(豆は拝殿の外に向かってまき、鬼に扮した氏子が拝殿の外に逃げる)。境内中央に斎竹を立て、これに注連縄を張り、御篝場が設けられる。この中に浄薪を積み上げ、古札・古神棚・古ダルマなども積まれる。やがて神前の斎火が人形を介して、神職により点火されると「御篝」になる。火勢が盛んになるまで、神火を囲み、頃合いを見て、氏子たちは火のついた薪を持って左右に分かれる。両方が見渡せる位置に責任者と太鼓が配されて、すべての準備が整う。
氏子たちは、太鼓の音に合わせて大声を上げながら、火のついた浄薪を対峙する氏子めがけて一斉に高く投げあう。一回にこれを三度繰り返し、約30分毎に3回行う。
このときが最高潮であり、回転しながら弧を描いて飛び交う浄薪からは、無数の火の粉が舞い散り、夜空を焦がして神域に降り注ぐ。
これで「御篝神事」は終わりとなる。
このように勇壮で特異な神事は他に例がなく、まさに奇祭の一つとして位置づけられる。
現在は、「賀茂神社御篝神事保存会」も組織されている。
桐生市指定無形民俗文化財
賀茂神社(かもじんじや)太々神楽(だいだいかぐら)指 定 昭和四十九年一月二十一日
所在地 群馬県桐生市広沢町六丁目八三三番地
賀茂神社に伝わる神楽は宮比講社神楽(みやびこうしゃかぐら)と呼ばれるもので、文化十二年(1815年)に当時の神官である飯塚伊豆正(いいづかいずのかみ)が発起したといわれている。
神楽は式舞(しきまい)と狂舞(きょうまい)であり、ともに十二座で計二十四座となっている。とくに狂舞の「屑紙拾い(くずかみひろい)三番曵(さんばんそう)」は他に見られないめずらしい神楽となっている。
明治維新で一時中断されたが、明治十五年ころ再興された。その後、昭和四十年代に衰退しかかったが、昭和四十八年に神楽保存会が組織され、青年有志が古老から受け継ぎ、今日におよび、毎年春(四月十四日・十五日)、秋(十月十五日に近い日曜日)の例祭に奉納されている。桐生市指定無形民俗文化財
賀茂神社(かもじんじや)御篝神事(みかがりしんじ)指 定 平成三年四月十三日
所在地 群馬県桐生市広沢町六丁目八三三番地
この神事は、毎年節分(二月三日)の夜に行われれる。起源は明らかではないが、文政13年(1830年)の「社記・賀茂神社傅承記」に神事の記載があることから、江戸時代末には既に実施されていたと考えられる。この神事は戦後中断されていたが、昭和五十四年に復活され、今日に至っている。
神事の内容は、次のとおりである。
神事に参加する氏子たちは、揃いの白装束(しろしょうぞく)に着替え、紙を切り抜いてつくった人形(ひとがた)に生年月日と名前を記して、これでからだの悪い部分をなでる。そして、氏子たちは拝殿に参集して、人形とともにお祓いを受け、その後、豆まきをおこなう。神官は境内中央に用意された浄薪(じょうしん)にお祓いをした人形によって火をつけて、焚き上げる。焚火の中には古札・古神棚・古ダルマなどがくべられる。十分に火がまわると、氏子たちは火のついた浄薪を持って左右に分かれ、両方が見渡せる位置に責任者と太鼓が配される。氏子たちは、太鼓の合図に合わせて大声をあげながら、火のついた浄薪を相対する氏子めがけて高く投げあう。
一回にこれを三度繰り返し、約三十分毎に三回おこなう。
現在は、御篝神事保存会も組織され、役割分担もしっかりしている。このような火をなけあう神事は他には類例もなく、まさに奇祭の一つである。平成四年三月一日 桐生市教育委員会
現地案内板より
賀茂神社のモミ群 (A・B・C)
名称及び員数 賀茂神社のモミ群 三本
指定年月日 平成20年3月27日
所 在 桐生市広沢町6丁目833番地
所 有 者 宗教法人 加茂神社
大きさ
A 目通り直径1,35m(幹周り4,2m) 樹高約30m
B 目通り直径1,38m(幹周り4,3m) 樹高約33m
C 目通り直径1,22m(幹周り3,8m) 樹高約33m
賀茂神社とモミ群について
賀茂神社は桐生市南部を東西に走る広沢丘陵中央付近の北斜面、丘陵最高峰の茶臼山から約2,5km東に位置する。
モミ群は賀茂神社社殿の南西側、手臼山南東斜面に存在し、照葉樹林の中に多数のモミが広範囲に分布している。
賀茂神社の創立年代は不詳であるが、桓武天皇の延歴15年(796)美和神社とともに官社に列せられた。寛治元年(1089)の清原武衝、家衝の反乱の際、源義家は反乱軍追討にあたり当社に祈願し、平定後は、賽祀のため奉幣のための神楽を奏したと伝えられている。
賀茂神社の境内地背後に広がる温帯下部照葉樹林の構成は広沢丘陵の原初の状態を推測できる物であると言える。特にこの照葉樹林を特徴付ける点として、樹林を構成するそれぞれの種の子孫が皆、次々と成長していることであり、針葉樹であるモミの実生についても同様の生態を見ることができる。
賀茂神社のモミ群は照葉樹林の中に混在する形をとるが古い種である針葉樹がこのように群生することはまれであり、賀茂神社の自然環境が良好に保たれていることも含め、モミの生態を知る上でも貴重である。
賀茂神社では森の木を切ることは代々禁じられており、このことにより源稙生である常緑広葉樹林が残される状況となっていると言える。
平成22年3月設置
群馬県教育委員会 桐生市教育委員会 宗教法人賀茂神社現地案内板より
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR両毛線 小俣駅から県道316号経由 渡良瀬川を渡って 桐生市広瀬町に鎮座
賀茂神社(桐生市広沢町)に参着
鳥居の扁額には 延喜式内 賀茂神社と刻されています
一礼をして 鳥居をくぐり境内へ進みます
参道の正面に社殿があり 右手に手水舎があり 清めます
社殿の前にある大木は モミの木だろうか
境内の左手には 神楽殿 その奥には境内社の豊機社
拝殿にすすみます
扁額には 式内 賀茂神社
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には幣殿 独立して本殿が祀られています
幣殿の横には 石燈籠があります
玉垣の外 奥には境内社の・香取社・鹿島社
本殿は 見事な彫刻が施されています
社殿に一礼をして参道を戻ります
賀茂神社の周辺には 散策に適した見どころがあります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 賀茂神社について 所在は下廣澤村〈現 賀茂神社(桐生市広沢町)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂神社
賀茂は假字也
〇祭神 大山咋命 頭注〇下廣澤村に在す 地名記
類社
山城國 愛宕郡賀茂別雷神社の下見合すべし神位
三代実録、元慶四年五月二十五日戊寅、授上野國從五位上賀茂神・美和神並正五位下勳十二等、
国内神名帳 従一位加茂大明神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 賀茂神社について 所在は下廣澤村 廣澤山の麓〈現 賀茂神社(桐生市広沢町)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂(カモノ)神社
今 下廣澤村 廣澤山の麓に在り、上野國志、神名帳考
蓋 山城の賀茂神を祀る、参酌日本後紀、延喜式大意、
〇按 神名帳頭注云、大山咋命を祀るとあるに據らは、賀茂御祖神を祭る歟、しはらく附て考にそなふ
桓武天皇 延暦十五年八月甲戌、官社に預り、日本後紀〇按本書、是年蝦夷を伐て功ある者を褒給ふ事みえ、本社巳下三神、並に官社たりしは、当時殊に神威を顕し給へる事などありしなるへし、姑附て考に備ふ、
陽成天皇 元慶四年五月戊寅、從五位上より正五位下勳十二等を授け、三代実録
後村上天皇 正平元年六月十日 御卜に、此神の御祟ありと云を以て、使を遣わし 社司に中祓を科せ給ひき、宮主秘事口伝
凡 四月十月十五日を以て祭を行ふ、栃木縣神社調
【原文参照】]
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 賀茂神社について 所在は下廣澤村〈現 賀茂神社(桐生市広沢町)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂神社
祭神 別雷神
神位
桓武天皇 延暦十五年八月甲戌 上野國 山田郡 賀茂神 爲官社
陽成天皇 元慶四年五月戊寅 授 上野國 從五位上 賀茂神 五位下勳十二等社格 郷社
所在 下廣澤村 字宮原(山田郡廣澤村大字廣澤)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
賀茂神社(桐生市広沢町)について 式内社 賀茂神社である
明治期の合祀に付いても記しています
【抜粋意訳】
〇群馬縣 上野國山田郡廣澤村大字廣澤字宮原
郷社 賀茂(カモノ)神社
祭神 別雷(ワケイカヅチノ)神
合祭
尾羽張神 玉依姫命 菅原道真 経津主命
建御名方神 宇迦之御魂神 大山津見神創立年代詳ならず、但、山城の賀茂神を移し祀る所なりと云ふ、
日本後紀に 桓武天皇 延暦十五年八月甲戌、官社に預かられたる趣見ゆ、
神祇志料に 「〇按本書、是年蝦夷を伐て功ある者を褒給ふ事みえ、本社巳下三神、〇当社及美和神社、火雷神社、並に官社たりしは、当時殊に神威を顕し給へる事などありしなるへし、姑附て考に備ふ。」と記せり、
陽成天皇 元慶四年五月戊寅、從五位上より正五位下勳十二等を授け、〇三代実録延喜の制式内の小社に列せらる、國帳従一位賀茂明神と記し奉れり、
白河院天皇 寛政元年冬十二月、清原武衛家衛等、出羽に亂を作せし時、源義家追討の為め当社へ祈誓し、事平らぎ凱旋の日、再び参殿して厚く報賽の典を挙げ、神楽を奏せしと伝ふ、今に其の遺跡と称するものあり、舞壺と字す、後村上天皇 正平元年六月十日 御卜に、此神の御祟ありと云を以て、使を遣わし 社司に中祓を科せ給ひし由、宮主秘事口伝に見えたり、
明治維新の際、大総督宮御下向の節、皇国鎮靖の為め御玉串を献ぜられ、同五年十月郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、其の他神楽殿等あり、境内は五千二百七十七坪 西北山(廣澤山)を負ひ、東南原野を望み、境内松杉森をなせり、又宮居の背の藪の中に燈籠形の石あり、文和の年號見ゆと云ふ。明治十二年同村、村社 尾羽張神社、無社格 下賀茂神社、無社格 菅原神社二社、無社格 経津主神社、無社格 諏訪神社、無社格 稲荷神社、無社格 大山祇神社二社、村社 賀茂神社の十社を合併せり。
境内神社
大山祇社 熊野社 愛宕社 熱田社 水神社 日光神社
八坂社 琴平社 妙義社 道神社 神明社 祓戸社
美和社 赤城社 厳島社 塞神社 豊城社 稲荷社
豊機社 龍神社 雷電社 八幡社 鹿島社
【原文参照】
賀茂神社(桐生市広沢町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)