人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)は 人穴浅間神社(ひとあなせんげんじんじゃ)の境内にある遺跡です 約7000年前の富士山の噴火による溶岩で誕生した全長83mの溶岩洞穴で「浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)の御在所」と伝えられ 富士講の開祖 長谷川角行が 修行の末に入滅した人穴とされ 富士講信者の碑塔群〈約230基〉が残存しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
人穴浅間神社(Hitoana Sengen Shrine)
[通称名(Common name)]
人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県富士宮市人穴206
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花之佐久夜毘賣命(このはなさくやびめのみこと)
《配》源家康朝臣(みなもとのいえやすあそん)〈徳川家康公〉
藤原角行(ふじわらかくぎょう)〈長谷川角行〉
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・富士山 世界文化遺産 構成資産
【創 建 (Beginning of history)】
人穴浅間神社
かつては「光侎寺(こうきゅうじ)(大日堂)」があったとされるが、神仏分離令を受けて廃され、「人穴浅間神社」が置かれた。
傍らにある溶岩洞穴「人穴」において、富士講の開祖 長谷川角行(はせがわかくぎょう)が修行を行ったと伝わる。
人穴浅間神社は、太平洋戦争の激化に伴い、昭和17年(1942)に少年戦車兵学校が上井出に開校すると、この地区の山野が演習地となったため上井出の芝山に移転した。
昭和29年に元の位置に別の建物として復興されたが、芝山に移転された社殿は現在も芝山浅間神社として残されている。現存の人穴浅間神社は、平成13年に建立されたものである。
祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)・源家康朝臣(徳川家康)・藤原角行(長谷川角行)である。現地案内板より
【由 緒 (History)】
人穴富士講遺跡
人穴富士講遺跡は、人穴浅間神社の境内にある。ここには、犬涼み山溶岩流内にできた長さ約83メートルの溶岩洞穴「人穴」と富士講講員が建立した200基を超える碑塔等がある。また、ここには、甲州街道や山梨県郡内地方に通じる郡内道(人穴道)が通っていた。
『吾妻鏡』には人穴探検の様子が描かれている。この人穴探検談は、後に浅間大菩薩の霊験譚「人穴草子」としてまとめられ、近世には富士講の隆盛もあり広く普及した。また、『吾妻鏡』には、人穴は「浅間大菩薩の御在所」とあり、当時人穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。
富士講の資料によると、江戸の富士講の開祖長谷川角行は、人穴に篭って修行し、仙元大日神の啓示を得たとされる。角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組まれた。また、角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の浄土(浄土門)とされた。このため、人穴は角行の修業の地・入滅の地や仙元大日神のいる場所として信仰を集め、参詣や修行のために人穴を訪れる講員も多く、人穴は先達の供養碑や記念碑などの碑塔を建立することも多く行われた。
また、近世、人穴には、光侎寺(大日堂)があったとされる。光きゅう寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。赤池家は、この他、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お札・御朱印の授与、碑塔建立の世話等を行っていた。
明治初年の神仏分離令・廃仏毀釈により、光侎寺(大日堂)は廃され、人穴浅間神社が置かれた。昭和17年(1942)には付近が軍用地として接収されたため周辺住民とともに人穴浅間神社は移転し、昭和29年(1954)現在地に復興した。なお、富士講の衰退もあり、碑塔の建立は昭和39年(1964)以降行われていない。富士宮市役所HP 企画部 富士山世界遺産課 企画係より
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b0000001br3.html
溶岩洞穴「人穴」
溶岩洞窟「人穴」は、富士山の旧期側火山溶岩流(約11000年前~約8000年前)により形成された犬涼み山溶岩流上に位置している。犬涼み山は標高1210mの側火山(寄生火山)で、この溶岩流は大量に西方の朝霧高原へ流下している。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、鎌倉幕府二代将軍 源頼家の命によって、洞内を探検した武士が霊的な体験をした話が載せられている。この中で「人穴」は、「浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)の御在所(ござしょ)」とあり、当時、この穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。
また、江戸時代中期以降に隆盛をみた富士講の開祖 長谷川角行(はせがわかくぎょう)がここで修行したことから、富士講の人たちに霊地(浄土 じょうど)として信仰された。洞穴内には、碑塔3基と石仏4基が建立されている。
洞穴は、総延長83.3mで南西の端が進入口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約20mに祠が、30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱がある。最奥部で狭小となり、そのまま閉塞していると考えられている。現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・人穴富士講遺跡
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・芝山浅間神社(富士宮市上井出)〈白糸の滝の北側〉
芝山浅間神社は 昭和17年(1942)に人穴からこの地〈上井出〉に遷された浅間神社
芝山浅間神社
芝山浅間神社は、昭和17年(1942)に人穴からこの地に遷された。太平洋戦争の激化に伴い、陸軍少年戦車兵学校が上井出に開校すると、人穴地区はその演習地となり、集落の人々は強制的に移転させられた。そうした人々が、人穴にあった浅間神社ともども集団で移住してきたのが芝山地区で、以来.芝山の浅間神社として親しまれている。芝山浅間神社には、社殿とともに人穴から石灯脆や手洗石が移されている。石灯龍には、片方に享保15年(1730)の年号と「江戸長目作兵衛」の銘が、片方には「和州(現奈良県)今沢九右エ門長英」の銘が刻まれている。この神社が人穴集落の氏神としてだけでなく、各地の人々とかかわっていたことがわかる。なお、今沢九右工門長英の銘のある石灯殲の片方が、人穴に残されているので、左右を違えて移築したものであろう。戦時下における強制移住のあわただしさを物語っている。
人穴富士講遺跡 世界文化遺産「富士山」の構成資産
芝山浅間神社の社殿があった人穴の地は「人穴富士講遺跡」の名称で国指定史跡「富士山」として指定され.平成25年(2013)には世界文化遺産に登録された。人穴富士講遺跡は、溶岩洞穴「人穴」と富士講が建立した200基を超す碑塔群からなる。鎌貪時代の歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)』には、人穴は「浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)の御在所』とあり、当時人穴が富士山信仰の対象だったことが分かる。江戸の富士講の開祖長谷川角行は人穴で修行し、人穴で亡くなったとされ、人穴は「浄土」(西の浄土)として富士講の信仰を集めた。江戸時代中期以降、江戸を中心に富士講が隆盛すると、参詣や修行のために人穴を訪れたり、碑塔を奉納したりする者が現れた。
角行と人穴
永禄年間(1558~1570)、長谷川角行は人穴に龍もって四寸角の角材の上に爪先立つ修行を千日間行い、「仙元大日神」の教えを受けたとされる。また、角行はその後各地で修行し、正保3年(1646)に人穴にて106歳で亡くなったといわれている。その後、角行の教えは江戸を中心に広まり、江戸時代中期以降多数の富士講が組まれ、大変隆盛した。人穴は、角行修行の地や入寂の地、仙元大日神がいる場所として富士講の人たちの信仰を集め、修行に訪れたり、参詣に訪れたりするようになった。
現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
人穴は 鎌倉時代の『吾妻鏡(azumakagami)』〈治承4年(1180年)〉に記されます
『吾妻鏡』には 「浅間大菩薩の御在所である」と記され 鎌倉時代には 既に聖地であるとの認識が なされています
富士講の開祖 長谷川角行(1541~1646)と人穴
人穴は 角行が16~17世紀にかけて修行を行い 浅間大菩薩による啓示を得 また入滅した場だと伝わります
人穴と富士講
16~17世紀に人穴や白糸の滝むなどで修業した長谷川角行は、江戸を中心に広がった「富士講」と呼ばれる富士山信仰の基礎をつくったと伝えられている。
富士講の資料によると、角行は、天文十年(1541)に長崎で生まれ、永禄元年(1558)に初めて人穴を訪れたという。そこで角行は4寸5分四方の角材の上につま先立ち、一千日に及ぶ修行を行い、仙元大日神(せんげんだいにちしん)より角行東覚の名を授かったとされる。その後、各地で大行をなし、正保三年(1646)に人穴で大往生を遂げたという。
やがて角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組織され、角行が亡くなったとする人穴は富士講の浄土(じょうど)とされた。このため人穴は角行の修行の地・入滅の地や仙元大日神のいる場所として信仰を集め、参詣や修行のために訪れる人々も多く、先達の供養塔や記念碑等の碑塔を建立することも多く行われた。
また、人穴には光侎寺(こうきゅうじ)(大日堂)があったとされるが、この寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。赤池家は、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お札・御朱印の授受、碑塔建立の世話等を行っていた。現地案内板より
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
富士講信者の間で聖典とされる『富士人穴草子』(ふじのひとあなぞうし)
室町時代〈1336年~1573年〉に成立したとされる『御伽草子』の『富士の人穴草子』は 富士講信者の間では 読めば 三度は富士山を登拝した と同じ御利益がある聖典とされました
『富士の人穴草子』そのあらすじは
鎌倉第二代将軍頼家が 懸賞をつけ人穴探検をする者を募る するとただ一人 新田(仁田)忠常が名乗りを上げました 忠常は一所懸命 懸賞の領地を子に残そうと 人穴へ向かい 洞窟の中で苦しむ大蛇に出会います
実はこの大蛇は 富士の浅間大菩薩であった 夜昼3度ずつ六根に苦しみを持つ大蛇は 忠常が手にする頼家から賜った二本の剣〈重宝の太刀 刀〉を欲しいと言う 剣を献上するとすぐに剣を飲み込み その苦しみが癒えました
すると たちまち浅間大菩薩は 少年の姿に身を変え その礼にと 忠常に人穴の中にある六道を案内します三途の川・針の山・火車・獄卒(ごくそつ)に曳かれる人々の様など 責め苦を負う人々が 前世で犯した罪を聞かされながら 凄惨な地獄を巡ります
途中 紫雲に乗った仏様に導かれ 極楽に行く人を見送り 閻魔庁で閻魔の裁きを受ける人々を見てから 最後は 極楽にたどり着きます浅間大菩薩から ここで見聞きしたことは決して口外してはいけない と云われた忠常は 人穴を出て 人の世界に戻ります
忠常の帰りを待ち受けていた将軍頼家は 新田忠常に報告を迫ります 一度は拒みますが 結局すべてを語ってしまいました すると「みづからが有様語らせたるゆゑに 汝をも助けべからず 汝が命を只今取るなり」という声が聞こえ ついには二人〈将軍頼家・新田忠常〉の命は失われてしまいます
・富士講の浄土(人穴浄土門)の碑
人穴は 富士講の浄土(人穴浄土門)として 周囲に富士講の講者が建立した200基を超える碑塔があります
人穴浄土門の碑
駿河と甲斐を結ぶ中道往還(甲州街道)を北上した、人穴の光侎寺(こうきゅうじ)(大日堂)入口にこの碑が造立されている。
この碑の正面には、人穴の由来が記され、背面には、「人穴を開山した長谷川角行(はせがわかくぎょう)の二百年忌に当り、天保6年(1835)沙門空胎が光侎寺(大日堂)を再興した」とある。元和6年(1620)に、角行が人穴で書いたといわれる「御身抜(おみぬき)」には「極楽地獄此穴二有浄土門人穴」「人穴浄土門仏生」とあり、角行は人穴を浄土あるいは、浄土への入口で仏が生まれる清らかな所だとして、自らそこに入寂したと考えられている。富士講の人々にとって人穴は角行修行の地、入寂の地であり、また、仙元大日神(せんげんだいにちしん)が示顕する場所と伝えられる所でもあることから、富士講にとっての根本道場であった。
現地案内板より
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR富士宮駅から R139号を北上 約18km 車30分程度
県道75号沿いに人穴富士講遺跡 駐車場があり 鳥居が建ちます
人穴富士講遺跡〈人穴浅間神社(富士宮市人穴)〉に参着
境内の案内図があります
一礼をして 「富士人穴」の扁額の架かる鳥居をくぐります
駐車場の横を通る参道を進みます
小高い所へと参道の石段が伸びています
人穴富士講遺跡 世界遺産富士山の案内板が設置されています
参道の石段を上がると 社殿があります
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 人穴浅間神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の西側〈向かって左側〉には 人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)があります
人穴には 今は中に入ることが出来ません
人穴富士講遺跡〈人穴浅間神社〉に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『吾妻鏡(azumakagami)』〈治承4年(1180年)〉に記される伝承
建仁3年(1203)6月 鎌倉幕府 第二代将軍 源頼家は 大穴の探窟を立て続けに命じます
6月3日には 富士の狩倉で巻狩を催し 人穴を新田忠常(仁田忠常)に調査させます
この時 忠常が 洞内で災難にあった内容が綴られ 最後に 人穴は「浅間大菩薩の御在所である 将軍は その禁をお破りになられ 咎(とが)がないはずがない恐しや」と記されています
【抜粋意訳】
建仁三年(1203)六月大一日 丁酉の条
晴れ 将軍頼家は 伊豆の奥山にある狩場へお着きになり
すると 伊東崎と云う山中に大きな洞穴があり その洞穴の行き先は分かりません。
将軍頼家は これを確かめるため 巳の刻(午前十時頃)和田平太胤長に 中を見てくるように命じた 和田平太胤長は松明を掲げ 穴の中へ入っていきました
酉の刻(午後六時頃)になり 帰り報告があった「この穴は 長さ数十里もあり 暗く何も見えず日光は届きません その中には一匹の大蛇がいて 和田平太胤長を呑み込もうとした 刀を抜き切り殺しました」建仁三年(1203)六月大三日 己亥の条
晴れ 将軍頼家は 駿河国 富士裾野の狩場へ到着し その山麓にも又 大谷〔これは人穴と号す〕があった
そこを確かめようと 剣を与えて 新田四郎忠常とその家来合わせて六人を入らせました 人穴に入って行きましたが 今日は帰る事が出来ず日が暮れてしまいました建仁三年(1203)六月大四日 庚子の条
陰〈曇り〉巳の刻〈午前十時頃〉に 新田四郎忠常が 人穴から出て帰ってきました
往復するのに一日一夜経てしまいましたこの穴は 幅狭く あともどりすることが出来ません 仕方なく前進しました 又 その暗さといったらいいようがありません
そこで 主従各々が松明を灯し 進んで行きました 路面には 最初から最後まで水が流れていて 足は浸っています
その数は 数えきれない程の蝙蝠が 顔の前を飛び交います
その先には 大きな川がすごい勢いで流れ 渡ろうとしても 手だてがありません ただただやむなしその時 突然 光が当りました
川の向うに見えた奇現象の間に 家来四人が 忽然と気絶して死んでしまいましたしかし 新田四郎忠常は 霊の教えのまま 賜った剣を 川へ投げ入れましたところ かろうじて帰還することができました」云々
古老の云うには「これは 浅間大菩薩の御在所で 昔から中を見てはいけないと伝えられてきた所です
今の事〈将軍がこのように禁をお破りになられた〉の次第は 神様の御威光に触れた 咎(とが)がないはずがない恐しや」云々
【原文参照】
人穴富士講遺跡〈人穴浅間神社(富士宮市人穴)〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)