冨士御室浅間神社 本宮 里宮(ふじおむろせんげんじんしゃ)は 朱鳥14年(699)本宮(もとみや)が富士山二合目に奉斉され山中に祀られた最古の社と云われます その後722年 雨屋を建立 807年 坂上田村麿が戦捷祈願に社殿を創建し 958年 現在の河口湖畔に里宮(さとみや)が建立 二合目の本宮と 土地の産土神の里宮が 一体となって機能してきた特徴的な神社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
冨士御室浅間神社 本宮 里宮(Fuzi Omuro Sengen Shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・良縁・子宝・安産・火防の御神徳
【格 式 (Rules of dignity) 】
・富士山 世界文化遺産 構成資産
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
重要文化財
冨士御室浅間神社 本殿
指定年月日 昭和六十年五月十八日
所 在 地 山梨県南都留郡勝山村三九四〇ー二この神社は文武天皇の時代(699)藤原義忠公により、富士山に最初にまつられた神社と伝えられている。延暦十九年(800)貞観六年(864)富士山大噴火により社殿が炎上し、幾度か再興したが炎上を繰り返した。
現在の本殿は、慶長十七年(1612)時の領主鳥居土佐守成次公により富士山二合目に造営されたもので、構造は一間社入母屋造り、屋根は(当時)檜皮葺、正面は軒唐破風付向拝を設け、正側面三方には高欄付録が回り、背部両脇に彫刻をはめ込んだ脇障子立っている。柱上部破風棰木等金箔飾り金具を取り付け、内陣扉廻りに透彫彫刻をはめ込み、内部の彩色も当初のものをよく残した桃山時代の特色をもち、建立年次の確実な豪壮優雅な建造物である。
慶長十七年(1612)以来富士山二合目(旧登山道道沿い)にあり、積雪風雨・霧等厳しい気象条件のなかでたびたび修理が行われ、保存に万全を期してきたが、昭和三十九年スバルラインの出現により旧登山道が荒廃を極めると共に、余りにも厳しい自然条件の中にあり、永久保存が至難であるため昭和四十八年現在地に移築復元し、昭和四十九年五月完工、重要文化財の指定を受け現在に至っている。
なお、冨士御室浅間神社は武田家の崇敬厚く、信虎公・信玄公・勝頼公の文書を始め、「勝山記」等県指定の文書が数多くあり、歴史民族資料館に展示されている。平成三年十月 山梨県教育委員会 勝山村教育委員会
現地案内板より
別表神社昇格
由緒之碑
當社ハ、御本宮奥宮富士山二合目ノ神域三万余坪ノ老樹巨木ノ密林ニ圍ハレテ御鎮座里 宮社ハ河口湖畔最モ風光明媚ナ霊所トシテ神宣ニヨリ現地に御鎮座アラセラル御祭神 木花開耶姫命御奉齋国鎮メノ御神徳ト御安産ノ奇徳ナ大稜威ヲ以テ世ニ博ス御創祀 ハ人皇第四二代文武天皇即位三年藤原義忠公御奉齋養老四年庚申霊畤ノ上ニ雨屋ヲ建 立セシモ延暦十九年噴火ノ為炎上大同二年坂上田村麿蝦夷征服報賽ニ社殿ノ御造營貞 観六年五月噴火ニ再度炎上ス同年九月伊予親王ノ王孫勅使トシテ當国ニ御参向ノ砌御 社殿御再興天暦九年朝廷ノ恩賜ヲ受ケ御修理文明七年小林尾張守正善御修理ヲナス大 永五年武田信虎公信アリテ甲府古城ト當社本宮ト南北相対向スルヨウ改造セシメ武 田氏祈願所トシテ日夜遙拝ヲナス天正十六年岩殿城主鳥居元忠公鳥居石灯籠ノ御奉納 アリ慶長二年勝山城主淺野左衛門氏安公神楽殿御修理又元禄十一年同領主秋元但馬守 御修理アリ奥宮富士山二合目本宮社殿ハ慶長十七年ノ御造營ニテ県重要文化財ノ指定 ヲ受ク斯ノ如ク史実ニ依レバ朝廷武将ノ崇敬篤ク特ニ武田氏祈願所トシテ春信息女北 大膳大夫兼信濃守春信公ノ祈願状ハ世ニ余リニモ有名デアル創祀依頼実ニ一千二百有 余年ヲ経テ明治維新百年モ過ギ神社本庁創立二十五周年ヲ記念ニ別表神社ニ列格御祭 神ノ御神徳ヲ稱エ奉リ氏子崇敬者一同兪〃篤ク祈念シ奉ルモノデアル
昭和辛亥四十六年七月一日 宮司天野尚光撰文 寒鴎渡邉忠春書 石工渡邊長生境内石碑より
【由 緒 (History)】
創祀一千三百崴 稜威十全輝
富士山ヲ霊峰ト云フ 是レ御室大神ノ惟神ノ大道ヲ世界ニ博スル神坐ス磐境ナニテ依ル 時旬刻限ハ人皇第六代考安天皇庚申六月朔日 始メテ雲霧ハレテ其ノ容姿ヲ拝ス
冨士御室淺間神社 人皇第四十三代 文武天皇即位三年 大室歳四月七日勧請ス・・・・
現地石碑より抜粋
由緒
御由緒と武将の祈願崇拝と庶民の信仰
人皇第四二代文武天皇即位3年紀元1358年4月7日藤原義忠公奉斎す。和銅元年戊申歳荊蕀を伐り開き地形を造り祭場の形態を造る。養老4年紀元1380年庚申霊畤の上に雨屋を建立す。
延暦19年紀元1467年噴火の為め炎上次で坂上田村麿卿蝦夷出征の途次戦捷を祈る。
大同2年丁亥年右蝦夷征服の奉賽として当社を造営し規模始めて荘観となる貞観6年紀元1524年富士暴火の際当社再び炎上殿宇は無論先に創祀の霊石に至る迄烟消噴散其の破片だも留めざりしは往年奉斎当時の記念と云ひ殊に神霊を涜し奉ること恐惧の外無之なり。
同年9月前5年中諸国疫行はれ民庶の死するもの多く依って神明の守護を修する然め伊予親王の主孫勅使として当国に御参向の砌り当社御奉斎あらせられ実に社殿の御再興を営ませたりと云う。
天暦9乙卯、村上天皇御修覆是れ田村将軍以降由緒を以て工費の恩賜を受く延久二年庚戌修覆工費前同断たり。
天徳2年人皇第六二代村上天皇当代勝山村氏子崇敬者の礼拝祭儀の便を計り河口湖畔風光佳麗な老松巨木樹繁る現地に里宮社を建立す。
元暦元甲辰神殿拝殿共大破に付御補助金拝受上改造の工を起し文治五戊申7月28日工事の落成を遂ぐ。建治元甲戌年修覆補助金前同断なり。暦応3乙卯神楽殿篭殿を増設す。文明7乙未尾張守小林正 善御修覆ありたるも後社殿大破に及び大永5年国主武田信虎公御修理あり次て同公以後武田家に於て当社を崇敬の余り大いに土木の工を起し方位検案の上甲府古城と当社社門と南北相対向いしめ以て朝夕遥拝の便を謀る。
弘治2年より永禄元年に至る此間3年に亘りて工事竣工し構造宏大茲に又一段の美観を添えたりと云う。但し、神殿の用材は皆元暦年中のものを再用せしとなり。
天正16年岩殿城主鳥居元忠公鳥居並に石灯篭を立替記念して御書付を添え置かる。
慶長17年5月領主鳥居土佐守成次公社殿御造営御棟札を鎮奠せり 右は永禄元年の改造を去る僅か50有5年のみなりしが風雨荒く積雪多きが為め非常の破損を生ぜしを以て此に其の復旧を謀りしなりと云う。
慶安元年城主秋元越中守修覆を加へられ其の証として御書付を下し置かる。
元禄11年徳川幕府へ出願の上御補助を得且つ本郡領主秋元但馬守合資の上大に修理せらる。
慶応3年徳川幕府より満5カ年間の許可を得て関東地方及本国各郡の御免勤化を募り修覆を加ふ。但し元禄年中より当年に至るの間本郡代官所より其の都度補助を与へられ大小の修理を営みしこと実に再三再四のみならず且当社の専信の冨士講として東京府内の講社中神田八講浅草十三講の如き就中村上講丸京講の両講結成以来現時に及ぶも代々承祖の講主其の遺志を継ぎ当社の栄枯存廃を以て殆其の講社の名誉不名誉となし常に維持保存に尽す是を以て慶長17年の造営より今日に至る社殿の荘厳今昔変る所なきこと現に人の知る処なり。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・石祠多数あり
・武田信玄公御祈願所の碑
・大稜威天涯漲一皇帝宝珠
・冨士御室大権現大神の碑
・注連縄の廻らされた結界
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・富士御室浅間神社〈富士山二合目奥宮〉
699(文武帝3)年に奉斎したと伝えられ その後708(和銅1)年に祭場の形を造り 720(養老4) 807(大同2)年に雨屋 社殿を造ったが 富士噴火のため焼失したと云われる
平成23年2月 河口湖畔に位置する里宮社境内地と共に 富士山世界文化構成施設『史跡富士山』に登録されている
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
冨士山中では最も古く建立された神社「冨士御室浅間神社」
冨士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)
河口湖の南岸の勝山の地にある「里宮」に対して、「本宮」は、富士山中の「吉田口登山道」の二合目地点にある。冨士山中では最も古く建立された神社として伝えられ、修験者が集う重要な聖地だったとみられる。
当初は石柱をめぐらせただけの場所で祭祀かとり行われていたらしく、社殿をもうけない原初的な祈りの形で富士山が信仰されていたことを今に伝える重要な古社だ。
中世には富士山における修験道の、戦国時代には武将たちの祈願所として、また近世には「富士講」と結びついて発展してきた、富士山の厳しい自然災害をふまえ、本宮の本殿は、恒久保存のため、1974年に富士河口湖町勝山の里宮に移築された。聖地を守ってきたのは、河口浅間神社と同様、地元の変わらぬ信仰心であった。現在、山中の社は「本宮」とされ、冨士河口湖町勝山の゛飛び地“になっていて、今も年に1回奥宮祭が行われている、この古社の歴史をかえりみれば、その時代ごとの富士山信仰の厚さと深さを感じることができる。
遥 拝 - 山梨県より抜粋
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
冨士御室浅間神社に900年以上伝わるという伝統行事「やぶさめ祭り」
甲斐の黒駒(かいのくろこま)と云って 古代の甲斐〈山梨〉が良馬の産地であったと考えられている伝承があり
平安時代の『聖徳太子伝暦』に見られる聖徳太子と甲斐の黒駒に関わる伝承
戦国時代の甲斐国「武田の騎馬」と称されて騎馬隊が有名です
冨士御室浅間神社の流鏑馬 (やぶさめ)
天慶3年(940年)に藤原秀郷が平将門の乱を鎮定した帰り、戦勝を祝って御礼祭を行って流鏑馬を奉納したことから始まりました。
現在は、武田流流鏑馬神事として行われています。
当社では、4月29日に実施しております。
冨士御室浅間神社HPより
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
富士急行線 河口湖駅から北上して河口湖畔を県道710号を西へ 約3.2km 車10分程度
丁度参拝時には 河口湖の水位が下がっていて 普段は湖の中に浮かぶ六角堂が陸続きになっていました
史跡『川窪寺屋敷』保存施設「六角堂」
日蓮聖人は文永6年(1269年)国家安泰を祈念するため、富士山中腹の地で法華経を暗誦せられ、書写された法華経分を経筒に納められて地中に埋めた。この地が富士山登山道五合五勺の経ヶ岳である。その後、日蓮聖人はしばらく小立の地で説法をし、信者となった村人が鼻曲の地に草庵を建たが、文永11年(1274年)村落に近い、川窪の地に信徒の中心であった妙法、妙吉、日長が御堂を建てた。
このことは、「妙法寺」の草創期からの寺の歴史に関する資料を調査し、まとめあげた文書「妙法寺史録」に記されている。また、史録によると永禄2年(1559年)12月7日、大雨が降り富士山の雪解けにより湖水があふれ、諸所の法華堂は流出し、村落や寺も水没してしまった。そこで、翌年永禄3年(1560年)2月、現在地に妙法寺を移築したとしている。
現在地に移るまでの285年間は、この川窪の地に妙法寺は存在していたのである。このことは小立地区民のみならず、周辺の住民にも寺屋敷などと呼ばれ親しまれていることや、寺の敷石・土台石・踏石などが残されていることからも明らかである。そこで、町ではこの地を史跡として残すべく保存施設としての「六角堂」を建て、長く後世に受け継ぐものである。
現地案内板より
駐車場に車を停めて進むと 参道の中程
冨士御室浅間神社 本宮 里宮(富士河口湖町勝山)に参着
一礼をして隋神門をくぐります
境内には 不老 長寿 の 翁(おきな)と媼(おうな)の石像があります
里宮の拝殿にすすみます
里宮の拝殿の扁額には 淺間神社とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
里宮の拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
社殿のすぐ前に構える狛犬に一礼をして 参道を戻ります
隋神門を抜けると 右手には 本宮が鎮座しています
本宮の本殿と里宮の本殿とが向かい合う境内になっています
本宮の社殿は 慶長17年(1612)領主 鳥居成次が 富士二合目へ奉斉造営し その後 改修を経て 昭和49年(1974)永久保存のため現在地へ遷祀されました
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
平安時代の歴史書『聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)』に記される伝承
当時まだ誰も登ることがなかった富士山 驪駒(くろごま)〈黒駒〉にまたがり山頂を飛ぶ 太子の姿が描かれ 聖徳太子の桁外れの能力を語り継いでいます
【抜粋意訳】
〈太子27歳〉推古天皇六年戊午 夏四月の条
太子 左右に命じて 良よき馬を求めたまひ 諸國に府(をう)せて貢(みつき)たてまつらしむ
甲斐國(かいのくに)より 一の驪駒(くろごま)の四の脚白き者を貢る数百匹の中(なか)より 太子 此の馬(このうま)を指(さし)て曰く
是れ 神馬(しんめ)也(なり)
餘は 皆還(かへ)されぬ 舎人調子麿を令して 之れが飼養を加へしむ
〈太子27歳〉秋九月の条試(こころみ)に 此の馬(このうま)に馭(の)って 浮雲のごとくして 東に去りたまふ
侍從〈君主のそばに仕える者〉仰(あふぎ)觀(みる)に 麿(まろ)独り御馬の右に在て 直ちに雲の中(うち)に入る 衆人相て〈皆が見合わせて〉驚く
三日之後〈三日後〉轡(くつわ)を廻して歸り來たまい
左右に謂て曰く 吾れ此の馬に騎(のり)て 雲を躡(ふみ)霧を凌(しのゐ)で 直ちに冨士嶽(ふじのたけ)の上に到り轉(めぐり)て 信濃に到る
飛ぶこと雷電のごとし 三越(みこし)を經(へ)竟(おわる)
今歸り來ることを得たり
麿(まろ)汝(なんぢ)疲(つかれ)を妄(わすれ)て 吾に隨ふ
寔に忠士なり也と
麿(まろ)啓して曰さく〈申し上げますに〉
意には空を履(ふ)まず 兩脚〈両足〉猶し〈依然として〉歩むこと陸地を蹈(ふ)むがごとし 唯し 諸への山を看(み)るに 脚の之下に在りつ
【原文参照】
冨士御室浅間神社 本宮 里宮(富士河口湖町勝山)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)