芝大神宮(港区)

芝大神宮(しばだいじんぐう)は 歌舞伎で有名な「め組の喧嘩」を双方丸く収めた その御神威はとても有名で 江戸期には「関東のお伊勢さま」とも呼ばれ 明治期以降は「東京十社(tokyo jissha)」と崇敬されています・秋祭りの「生姜(shoga)市」は11日間も続き「江戸っ子」達は 「だらだら祭り」と呼んだと伝わります

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name) 

芝大神宮(shiba daijingu)
 しばだいじんぐう 

【通称名】(Common name) 

・芝神明 shiba shimmei
・飯倉神明宮 iikura shimmeigu

【鎮座地】(location) 

東京都港区芝大門一丁目12番7号

【地 図】(Google Map)

【御祭神】(God's name to pray)

《主》 天照皇大御神(amaterasu sume oo mikami)
《主》 豊受大御神(toyoke no oo mikami)

《配》 源頼朝公(minamoto no yoritomo ko)
    徳川家康公(tokugawa ieyasu ko)
    菅原道真公(sugawara no michizane ko)

《合》出雲社《主》 大国主命  穀物・商業・商売
   三島社《主》 事代主命  商業・商売・穀物・誓約・鎮魂・仲裁
   熊野社《主》 伊弉冉命  子授け・教育・結婚
   諏訪社《主》 建御名方命   柔道・相撲
   浅間社《主》 木花開耶姫命  安産・美容・理髪・生花
   戸隠社《主》 手力男命   力・力量
   淡島社《主》 少彦名命   温泉・医療・医薬品・敷物・病魔退散
   八幡社《主》 品陀和気命  安産・和歌・文学・衣料
   春日社《主》 天児屋根命  塾・文章・文学・和歌
   住吉社《主》 大綿津見命  海上・航海・海運・漁業・水難除け
   氷川社《主》 須佐之男命  冤罪免除・和合・造船・海運・航海・酒
   天満宮《主》 菅原道真公  受験・学問・学校・書道
   弁天社《主》 市杵島姫命  海路・航海・海上
   金刀比羅社《主》 大物主命   酒
   実禄稲荷社《主》 保食神    食・農業・山林・牧畜・漁撈・革・家祓い
   福寿稲荷社《主》 宇迦之魂命 食品・穀物・商業・商売

【御神格】(God's great power)

・身体強健 Strong and healthy body
・病気平癒 Healing of disease
・商売繁盛 Wishing business prosperity
・会社繁栄 Company prosperity
・勤務安全 Work safely
・旅行安全 Travel safety
・家内安全 Safe and comfortable home life
・交通安全 Traffic safety 
・厄除け  Prayer at an age considered a milestone in life
・方除け  Avoid bad directions
・学業成就 Want to acquire knowledge and skills
・受験合格 Pass the exam
・初宮詣  Baby prays at shrine for the first time
・還暦祝寿 Thank God for 60th birthday
・敬老祭  A festival that respects the elderly
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

准勅祭社(jun chokusai sha)= 東京十社(tokyo jissha)
府社(fu sha)

【創建】(Beginning of history)

平成17年(2005年)9月16日に 御鎮座1000年を迎えました
平安時代 寛弘2年(1005年)9月16日 第66代一条天皇(ichijo tenno)の御代に創建

【由緒】(history)

由緒

芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。

古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。

その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至ります

「芝大神宮HP 由緒」から参照

【境内社】(Other deities within the precincts)

境内社の摂末社(主祭神)は 明治9年(1876年)1月の火災で焼失するまで鎮座していたが 現在は全て本殿に合祀されています
次の錦絵には 合祀される前の境内社が右下に描かれています

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮(しばだいじんぐう)」
「芝神明宮 祭礼 生姜市之景」 絵師:英泉 収載資料名:広重画帖

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

「芝大神宮(shiba daijingu)の歴史」

社伝によれば
平安時代 寛弘2年(1005年)第66代一条天皇(ichijo tenno)の御代
伊勢の内宮と外宮の両宮を勧請して創建

日向国 鵜戸郡から得た「鵜戸石(uto ishi)」と「剣」を神宝として奉納したと伝わります

延文5年(1360年)の『神鳳鈔(jimpo sho)』には 
この地には 伊勢神宮の「御厨(mikuriya)」(神饌を調進する場所)があり 武蔵国の「飯倉御厨」に創祀された神明社が 起源とされています
当初は飯倉山(現港区芝公園)に鎮座していたと伝わります

源頼朝公(minamoto no yoritomo ko)は 
元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の2度に亘って神領を寄進 特に後者においては 自ら社参の上1300余貫(1貫=100両なので 13万両余)の土地を神田として寄進・太刀一口を奉納

その後 中世には 東国の武家からも厚く崇敬されており
足利尊氏(ashikaga takauji)の実弟 直義が 建武4年1月7日(1337年2月8日)戦捷祈願に対する報賽(祈願成就のお礼として神仏に参拝)の書状を奉納した(神社所蔵の伝直義執筆書状)

戦国時代には 太田資長(道灌)から崇敬を受けます

天正16年7月24日(1588年9月14日)北条氏直(hojo ujinao)が 柴村に対しての制札(社寺や路傍に掲げた禁止事項を示す木札)が発布された(この制札も神社所蔵)
天正18年7月19日(1590年8月18日)豊臣秀吉(toyotomi hideyoshi)が 奥羽平定のために 江戸から進発に際して 戦捷を祈願
天正18年8月1日(1590年8月30日)徳川家康公(tokugawa ieyasu ko)が 江戸入府に際し 社参
天正19年11月28日(1592年1月12日)徳川家康公(tokugawa ieyasu ko)が 武蔵国 日比谷郷に朱印領(shuin ryo)15石(koku)を寄進

朱印領(shuin ryo)=(幕府より朱色の印が押された朱印状により 神社・寺院の領地(寺社領)として安堵(領有権の承認・確認)された土地のこと)
石(koku)=(米1石は 成人1人が1年間に消費する米の量 その収穫が上げられる田の面積)

慶長3年(1598年)8月 増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転の為 現在地(港区芝大門)へ奉遷

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮 (しばだいじんぐう)」
「名所江戸百景 江戸百景余興 芝神明増上寺」 絵師:広重 出版者:魚栄

慶長5年9月1日(1600年10月7日)徳川家康公(tokugawa ieyasu ko)が 関ヶ原出陣に際し 社参して戦捷祈願
同19年~20年にかけて 大坂の役では 徳川方の戦捷祈願を 二代将軍 秀忠公の正室「お江与の方(崇源院)」の代参として「家光の乳母である春日局」が社参

以後 歴代将軍家・幕府の庇護を受けます
社殿の造営・修復等は 幕命により執行され
幕府より種々の祈祷依頼があり 大名による参詣等 諸侯からも崇敬を受けたとされます

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮(しばだいじんぐう)」
「江戸名所之内 芝神明社 内之図」 絵師:広重 出版者:伊世忠

明治元年(1868年)10月 第122代明治天皇(meiji tenno)東幸の際 本社を「内侍所(nai shidoko)」(三種の神器の一つで「神鏡(八咫(やた)の鏡)」を安置する場所)として小休される
同年11月8日(1868年12月21日)准勅祭社(jun chokusai sha)に指定され
明治2年(1869年)長雨に際して 7月3日(8月10日)に朝廷より 止雨祈祷の依頼があるなど厚遇された

明治3年9月1日(1870年9月25日)准勅祭社(jun chokusai sha)制度の廃止に伴い 東京府の府社となる

明治9年(1876年)1月4日 火災により焼失 翌10年(1877年)3月に再建
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により倒壊延焼 
昭和2年(1927年)8月 本殿等主要建造物を再建 
昭和13年(1938年)12月には完全再建
昭和20年(1945年)5月26日 東京大空襲により焼失して終戦を迎える

戦後 神社本庁に参加 
昭和22年(1947年)1月13日に本殿再建 
昭和39年(1964年)9月12日には本殿再造営が完工
平成17年(2005年)9月16日の例祭で 鎮座1000年を祝う「芝大神宮壱千年祭」を斎行 併せて社務所等の改築を執り行い 現在の景観となります

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

歌舞伎で上演される「め組の喧嘩」は「芝大神宮(shiba daijingu)」が舞台です

正式演目「神明恵和合取組(kami no megumi wago no torikumi)」

古典落語では 江戸の名物を
「・武士・鰹・大名小路・広小路・茶店・紫・火消し・錦絵
 ・火事に喧嘩にちゅうっぱら・伊勢屋・稲荷に犬の糞」
といっています

「火事と喧嘩は江戸の華」

歌舞伎で上演される「め組の喧嘩」は
「芝大神宮(shiba daijingu)」境内で 角力(相撲)の春場所が開かれ「め組の鳶職・辰五郎と長次郎」「その知人の富士松」が無銭見物しようとしたのが発端の話
今でも歌舞伎で上演する際には 主役俳優が参拝する慣わしもあるようです

ところで

「め組の喧嘩」は-------「史実によれば」-------

文化2年2月(1805年3月)に事件は起きた
芝大神宮(shiba daijingu)の界隈は「め組の管轄」で 辰五郎らは木戸御免(相撲や芝居などの興行場に木戸銭なしで自由に出入りできること)を認められていた 富士松はそうではなかったため 木戸で口論となった

そこへ力士の九竜山が通りかかり 木戸番に味方したため 辰五郎らは一旦引き下がった

相撲木戸から 辰五郎たちは芝居見物に向かう なんと同じ芝居小屋へ何も知らず九竜山がやって来る 
辰五郎たちは 先刻の恨みが再燃して 他の見物客らもあおって その巨体を野次り 満座の中で恥をかかせると 九竜山はこらえきれずに辰五郎を投げ 芝居を台無しにしてしまった

「火消し頭」「相撲の年寄」なども仲裁に入り 一旦収まりかけたが 
九竜山の同部屋力士「四ツ車」があおった そして部屋から力士仲間を応援に呼び集めた

対して 火消し衆も火事場支度で応戦 「火の見やぐらの早鐘」まで鳴らして仲間に動員をかけてしまった

「火消し衆は 江戸町奉行」「相撲力士は 寺社奉行」管轄する役所へ それぞれが 訴え出て事態の収拾をはかったが

しかし 事態は どのような仲裁も受け入れられない騒動に拡大してしまって
「与力・同心」が出動し 火消しと力士の乱闘に割って入り 合計36人が捕縛されてしまった

江戸時代には喧嘩騒動は多く 
大規模なものでは 鳶職人700人が7時間に渡ったものもあり 「め組の喧嘩」は けが人だけで 直接の死者はなく(当事者の富士松が刀傷が原因で 取調べ中に牢死)規模は小さいものだったらしいが

ただ 江戸の庶民は「縦割り行政」奉行所の事後処理の対応に注目したらしく
取り仕切る各奉行は
「相撲興行は 寺社奉行」
「町方の行政・司法を担当する 町奉行」
さらに「勘定方の最高責任者で財政や幕府直轄領の支配などを司る 勘定奉行」までも加わり「三奉行の協議」で事後処理が進められる事態に

当時としては 三奉行が揃って 喧嘩の裁定など とても珍しく どのお奉行様が勝つのか?? など役所の体裁や面子も注目の的になってしまった

お裁きは 秋9月になって下った
罪の争点は「非常時以外では 使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘を 私闘のために使用して 事態を拡大させた責任」とされていて

しかし 「粋なお裁き」があり 江戸の庶民は奉行を褒めたたえた
「火消しと相撲取り どちらが悪いわけでもない 喧嘩がはじまったときに鳴っていた半鐘が原因」との裁き
人ではなく早鐘に使用された「半鐘が遠島(ento)を申しつけられ」罪となったとのことです

人への刑は軽く済んだようで 
全体的には 相撲側に甘く 火消し側に厳しかったが 発端は 火消し側にあったので  
主犯の辰五郎は「百叩きの上 江戸払い(江戸追放)」・長次郎と早鐘を鳴らした長松が「江戸払い(江戸追放)」・その他の鳶は「説諭と罰金」

力士側は 九竜山のみ「江戸払い(江戸追放)」他の者にお咎めはなし
中断した相撲の春場所は 騒動2ヶ月後 4月にやっと千秋楽を打ち上げ

さらに「罪をかぶって遠島になってしまった半鐘」は 明治時代になってから やっと芝大神宮(shiba daijingu)に戻されています

今でも 2月の節分祭には め組の半鐘を供養する「半鐘祭」が行われていて
お祭りの際には「め組の半鐘」として展示されるらしい

「め組の喧嘩」も丸く収めた「関東のお伊勢さま」

江戸時代 お伊勢参りも盛んであったが お江戸のお伊勢さまと人出も多く  境内は広く 相撲 芝居小屋 見世物小屋が常にかかり 庶民の憩いの場として親しまれたようで その様子を錦絵から

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮 (しばだいじんぐう)」
「江戸高名会亭尽 芝神明 社内」 絵師:広重 出版者:藤彦

准勅祭社(jun chokusai sha)⇒ 東京十社(tokyo jissha)

江戸時代から明治維新へ 京都から遷都されて 江戸は東京となったので「東京の鎮護と万民の安泰を祈る」準備が始まります

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮(しばだいじんぐう)」
「東都名所 芝神明 増上寺全図」 絵師:一立斎広重出版者:蔦屋吉蔵

准勅祭社(jun chokusai sha)

第122代明治天皇(meiji tenno)は 
1868年(明治元年)10月17日 氷川神社(大宮)の例大祭を新たに「勅祭(choku sai)」(天皇の勅使(使者)が派遣されて執行される神社の祭祀のこと)に定めます

それに続いて
1868年(明治元年)11月8日 京都時代「京の鎮護と万民の安泰を祈る神社」畿内22社などの勅祭社(choku sai sha)があったが
これと併せて 東京近郊の主な神社を准勅祭社(jun chokusai sha)と定めて「東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社」としました

准勅祭社(jun chokusai sha)は12社あって
「日枝神社・根津神社・芝神明宮・神田神社・白山神社・亀戸神社・品川神社・富岡八幡神社・王子神社・赤坂氷川神社・六所神社・鷲宮神社」です

この「准勅祭社(jun chokusai sha)の制度」は1870年(明治3年)9月1日に廃止され一時的なもので終わりました
その後 該当する神社は「府社or郷社」となりますが 第二次大戦後は政府による社格が廃止されました

1975年(昭和50年)「第124代 昭和天皇(showa tenno)」即位50年を奉祝
この際 23区内の「東京十社(tokyo jissha)巡り」が企画されました

これは かつての准勅祭社(jun chokusai sha)から 遠隔地の「府中町六所宮」と「埼玉県久喜市の鷲宮神社」の2社が外れたもので
この 10社巡りは 七福神巡り など観光的な色を濃くしてしますが
「根津神社・芝大神宮・神田神社・日枝神社・亀戸天神社・白山神社・品川神社・富岡八幡宮・王子神社・赤坂氷川神社」です

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

都心の真ん中 港区の芝大門にありますので 電車が便利です

・都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」 A4・A5・A6出口 徒歩2分
・都営地下鉄三田線「御成門」徒歩5分
・JR山手線・京浜東北線「浜松町」北口徒歩5分

都営地下鉄「大門」で下車 A4出口を出て 第一京浜を日比谷方面に50mほど歩くと 角に社号標があり この道を左折します
ここが参道入口で 第一京浜から200mほど進むと ビルの谷間に 東向きに 大きくて立派な白い石の鳥居が 現れて「芝大神宮(shiba daijingu)」です

正しく都会の神社です

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「芝大神宮(shiba daijingu)」に到着

お詣りです
鳥居の左手には 「芝大神宮」の社号標と「生姜塚」と記された石碑があります

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一礼して鳥居をくぐり 参道階段は ちょいと急ですが 上ると左右に「角のある狛犬・角の無い狛犬」が待ち受けています
どちらの狛犬の台座にも 火消しの「め組」と刻まれています

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目の前には 神明造の拝殿がありますが お詣りの前に「手水舎」は何処かと探すと 階段を上がった左手にありました

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手水で清めて

拝殿へ進み 賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内には「力石(chikara ishi)」が置かれていて 境内で行われていた相撲の力士が「力くらべ」をしたものらしく 港区指定の文化財となっていました
港区には十四点の力石(chikara ishi)が確認されていると書かれています

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拝殿の右手が「神札授与所」で「ご朱印」・「千木筥(chigi bako)」・商売繁盛のお守り「商い守」・「強運(go un)御守」「しょうが飴」などの授与で賑わっています
江戸時代には 富くじの興業もあり 今でも宝くじ関係者のお詣りがあるようです

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階段を降り 鳥居をくぐり 振り返り一礼

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

芝大神宮(shiba daijingu)「だらだら祭り」は 別名「生姜(shoga)市」

芝大神宮(shiba daijingu)の祭礼は
「芝神明のだらだらまつり」といわれ 9月11日~21日の実に11日間の長い期間執り行われます

別名「生姜(shoga)市」とも呼ばれます
「だらだら祭り」の名称は この時期が長雨の頃だからと言われたり

もともとは お祭りの名物は「生姜(shoga)市」で お江戸の名所「関東のお伊勢さま」詣でに 全国から沢山の人が集まったので
「生姜(shoga)市」は だらだらと長くつづき 江戸の庶民は「だらだら祭り」 と呼んだとも伝わります

この生姜(shoga)は 当社の御社殿が鎮座した当時 周辺が生姜(shoga)畑であったらしく 神前に奉られたとのことで
そのうちに 近郷農家が生姜(shoga)を持ち込み 境内や参道で盛んに売ったのが始まりといわれています

生姜(shoga)は 毒消し効果があり
由井正雪(yui shosetsu)が 徳川幕府に謀叛を起こした時 玉川上水に毒を流しましたが たまたま玉川上水で 老女が生姜(shoga)を洗っていたので 江戸庶民は助かったという話が広まり 芝神明のお祭りで売られるようになったと伝わります

参拝者に 売られた 生姜(shoga)は 根が大きく「根っかち生姜」 めっかちが売ったから「めっかち生姜」ともいうそうです
また 「芝神明(shiba shimmei)に水あり」とされて「目を病むもの 目を洗えば平癒した」とされたため 九月の祭礼には目の病人が 多く参拝したので「目くされまつり」ともいわれたらしい

江戸時代から 徳川幕府の保護を受け 賑わいをみせた「芝大神宮(shiba daijingu)」 その秋祭の「生姜(shoga)市」は 広重の錦絵にも画れています

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/shibadaijingu/画像転用錦絵で楽しむ江戸の名所「芝大神宮(しばだいじんぐう)」
絵師:広重 , 豊国 出版者:平のや 江戸自慢三十六興 芝神明生[が市] 

有名な「千木筥(chigi bako)」は 当宮のみの授与品です

もとはこの祭礼で 縁起物として 
赤飯など食べ物が入った「千木(chigi)箱」(杉を薄く削いで楕円に曲げて 赤・緑・青で模様を描いた小櫃)が売られたらしく
この「千木(chigi)箱」の由来は 藤づるで 編んだ器に餅を盛ったので 飯器(mochi ki)を略して 千器(chigi)といったと伝わります

当地は「第28代宣化天皇(senka tenno)」の御代に「屯倉(miyake)」(大和朝廷が全国に設置した直轄地)が設けられ 
その穀倉があり 穀類の容器を土民が製作するようになって「千器(chigi)は いにしへ藤蔓(fuji zuru)にて編み器となし 餅を盛るによって飯器(mochi ki)の上略なり」と伝わるそうです

また 神社建築に見られる屋根の部材「千木(chigi)」を材料として作ったものなので「千木(chigi)箱」という説もあり

また このお守り「千木筥(chigi bako)」を 江戸の女性は「千木=千着」とも考え
「千着の たくさんの着物があれば 着るものには困らない」ということから「着物が増えて 良縁に恵まれ」と願うようになり 衣装の豊富を祈って タンスに納める習慣もあります

最近では ほとんどの女性が「縁結びの縁起物」として授与し タンスの上に飾り 見た目を楽しむ人が多いとか 
大きさは ちょうど手の平に乗る 振ってみると大豆が中で転がりカランコロンと鳴り 高さは12cmくらいか 3段箱で藤が描かれ愛らしい きっと女性なら気に入ってしまうからだと思います 

お守り「千木筥(chigi bako)」は 祭りの期間中でなくとも「神札授与所」で授与できます

原型の「千木(chigi)箱」は 30cmほどあり 季節の果実等を盛って神前にたてまつっているらしく 普段は見れませんが お祭りでは見ることも出来るようです
いずれにしても「芝大神宮(shiba daijingu)」は その御神威の高大さは有名で 秋祭の代表的な神社として 多くの人がお詣りをしています

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1000年の間 江戸の町に鎮座する「芝大神宮(shiba daijingu)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-東京十社巡り
-,

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