石室神社(いろうじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「伊波例命神社(いはれのみことの かみのやしろ)」とされます 石廊崎の先端 絶壁の岩肌に鎮座します 神社の土台には 千石船の帆柱が使われていて 伊豆七不思議の一つとなっています
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Ja
- 4 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 5 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 5.1 役行者(えんのぎょうじゃ)について
- 5.2 石廊崎権現(いろうざきごんげん)の帆柱(ほばしら)伝説について
- 5.3 式内社「伊波例命神社(いはれのみことの かみのやしろ)」の伝承
- 5.4 『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
- 5.5 『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
- 5.6 『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
- 5.7 『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承
- 6 伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
石室神社(Iro Shrine)
(いろうじんじゃ)
[通称名(Common name)]
石室神社(いしむろじんじや)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊波例命(Ihare no mikoto)
物忌奈命(Monoimina no mikoto)
《合》十一面観音・大六天神
大国主神・崇徳天皇
事代主神・梵釈四天王
住吉三神・海神自在青龍王
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・海上安全・学業成就・厄除開運・縁結び等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創立は定かではないが五世紀頃に物忌奈命(ものいみなのみこと)を祀る神社として 秦氏により建立されたと伝えられている
その後 役行者(えんのぎょうじゃ)が十一面観音を合祀し 大宝元年(701年)現在の場所に神仏合祀の石室神社を建立した
【由 緒 (History)】
御由緒
東鏡(あずまかがみ)には 長津呂崎(ながつろさき)古くは伊豆ヶ崎ともいわれ、伊豆の最南端に位置し、付近の風波も荒く隠れた岩礁も多いことから、昔より航海者の最も警戒する場所のひとつであった。当社はその南端の岩壁に鎮座し長く海上安全、産業振興の神としてあがめられてきた。
創立は定かではないが五世紀頃に物忌奈命(ものいみなのみこと)を祀る神社として、秦氏により建立されたと伝えられている。その後、役行者(えんのぎょうじゃ)が十一面観音を合祀し、大宝元年(701年)現在の場所に神仏合祀の石室神社を建立した。延喜式神名帳に伊波例命(いわれのみこと)神社、神階帳に従4位上 いわらい姫の明神として名を列ねる式内社である。神社配布の由緒書きより「神社配布の由緒書き」
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・熊野神社《主》須佐之男命
縁結びの神社と云われる由来がわかります
熊野神社(くまのじんじゃ)の由来
その昔、長津呂の郷に住む名主の娘、お静は毎夜、人目を忍んで岬で火を焚き、神子元島にいる漁師の幸吉に「元気に過ごしています」と合図を送っていた。幸吉もまた火を焚いて、お互いの安否を確かめ合っていた。
ある日、突然 神子元島からの火が途絶え、不安を募らせたお静は意を決し、満月の夜ひそかに小舟を出した。幸吉も石廊岬の火が消え、お静の安否を気遣っていた。そんな時、海を見ると、月明かりの中に小舟が流されている。「もしや、お静さんでは・・・」。力尽きたお静の舟めがけて海に飛び込み、無事にお静を助け出した。その後 二人は幸せに暮らしたという。明治3年(1870年)に神子元島に、翌年には石廊埼灯台が建てられました。
もとは海上安全守護のご利益のある熊野権現は、お静が火を焚いたところに祠が祀られ、以来 縁結びの神として知られることとなった。
明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになった。南伊豆町観光協会HPより
https://www.minami-izu.jp/?p=we-page-entry&spot=8214&cat=18735&pageno=3&type=list
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 伊波例命神社
[ふ り が な ](いはれのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ihare no mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Ja
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
式内社〈伊波例命神社(いはれのみことの かみのやしろ)〉の論社について
・石室神社(南伊豆町石廊崎)
・八幡宮来宮神社(伊東市八幡野)
・伊豆山 子恋の森公園「古々比社跡地」or「古々井社跡地」(廃絶)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊豆急行下田駅からR136号と県道16号を南西へ約20km 石廊崎の先端を目指します 車30分程度
石廊崎岬めぐり遊覧船の乗り場にある駐車場に車を停めます
ここ石廊崎の漁港の西側から山へ上がり石廊崎灯台方面へ 徒歩30~40分程度です
山を上がり切った辺りに鳥居があります 扁額には「石室神社」とあり 新しい狛犬が座しています 現在は「南伊豆ジオパークビジターセンター」の駐車場がすく傍に出来ています
この辺りからは ほぼ平らな道を進みながら 伊豆七島を眺めながら 灯台を目指します
石廊崎灯台の直ぐ脇を石畳みの細い道が下っていて 石柱には「石室神社 参道」と刻まれています
石廊崎灯台は 明治4年(1871)に設置され 昭和8年(1933)に現在の形になったと案内板にあります
ここからは伊豆半島の南端の絶壁断崖の上 目の前には 太平洋が広がり 遮るものは何もありません
参道が階段状になって降りて来て 断崖に社屋が建てられています
石室神社(Iro Shrine)に参着
拝殿は 直立する絶壁の窪みに 足場を組んで建てられています
拝殿にすすみます 中に廊下があり 進むと拝所があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿から更に 御崎の先端に細い道が続いていて 熊野神社が祀られています
この熊野神社の由来として伝わる
「名主の娘、お静は毎夜、人目を忍んで岬で火を焚き、神子元島にいる漁師の幸吉に「元気に過ごしています」と合図を送っていた。幸吉もまた火を焚いて、お互いの安否を確かめ合っていた。」 とあるように 御崎の先端に火炊き場のような岩があり この岩が祀られていることが良くわかります
熊野神社にお詣りをします
断崖絶壁からの景色も絶景です
こちらから 石室神社の本殿を振り返ると 在りえないような場所に 神社が建てられていることに それだけ古代からの航路の安全な運航に欠かせない大事な場所であったことが想われます
参道を戻り 振り返り一礼をします
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
役行者(えんのぎょうじゃ)について
役行者(えんのぎょうじゃ)が十一面観音を合祀し 大宝元年(701年)現在の場所に神仏合祀の石室神社を建立した
役(えん)の行者(ぎょうじゃ) (隠名 阿摩陀之摩綺 あまだのまき)
1.役の行者の生立
役の行者は天智天皇の六年に大和国葛木上郡茅原村に生まれ、頭の上に小さな角が生えていたので役の小角と呼ばれ神童と称せられた。この小角が成長して葛木山に入り、外従五位の韓国連広足を師と仰ぎ、山伏と仏法の修行して奥義を極め、孔雀の呪術を習得し天晴一代の智者と召された。のちに韓国連広足は小角の超人的な妖術をおそれて、妖術で人を惑わし葛木の一言主大神と結んで天皇を傾けようとしたと懺悔され伊豆に配流された。2.役の行者之当地に残る業績
病名不詳なるも西暦七百年慶雲三年に諸国に疫病流行して百姓多く死すと在るから見て石室の里も御他聞にもれず、其の襲来を受けたものと思われ、二期数年天候悪く大荒れに荒狂い、舟を出す事も不可能にして、併せて磯の海苔・貝類も不運が続き狭き耕地の作物は寒害・暴風とたて続けての天災に全滅し里人は餓えと不安に苦しみ、又病気蔓延し、其の為自呆自捨と成り、心迄も荒廃し喧嘩・口論絶えず、此の時、阿摩陀之窪にて施行の中在りし行者は、此れを憂れい石室権現を始萬の神霊に祈りを捧げ神沸の加護を身を滅ぼして願い続けた。或る夜大慈の霊(十一面観世音)
夢に立ち一枚の薬草を行者に授けた。行者は、此れこそ御沸の御教えであると早急山野を走り回りその薬草を探し出し病人にあたえると忽ち病気平穏した。此の一業こそ今以て不思議なる効力を持つ薬草として伝え使用されているアロエであり、別名を医者不要と呼ばれている。3.神変大菩薩
わが国の歴史で、役の行者程、神通力自在、変幻出没、修業によって霊力を得た者は他にはなく、山岳仏教の開祖といわれている。
百十九代光格天皇は寛政十一年に役の行者に贈り名して曰く(神変大菩薩)の称号を贈って其の業績を賞賛した。頭髪を長く伸ばし笈を背負い錫杖を持ち白衣に数珠をはなさず、ほら貝を吹き呪文をとなえて南伊豆を闊歩した姿が偲ばれるのである。現地の案内板より
石廊崎権現(いろうざきごんげん)の帆柱(ほばしら)伝説について
海面から断崖絶壁〈30m以上〉に 千石船の帆柱を枕にして 石室神社の社殿が建てられています これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からあります
石廊権現と千石船之由来
祭地は相模灘と遠洲灘の中間に位し東風西風共に筆舌に絶し 又陰れし岩礁多く黒潮近くを走ると云ふ難所で在る
或る期 播洲濱田港所属の塩運搬の千石船が 此の岬に差掛りし時、折悪く黒雲海面をはい 雨は篠を突き 波浪は峰渓をなす 船は最早 轉覆有るのみと見られ船主船子共に なす技も無く 一心に見えぬ対岸の石廊権現に向いて無事江戸に着く事が出来得るならば 帆船の命で在る帆柱を奉納すると誓願を込めると さしも荒狂った波もやがて凪いで 無事江戸に着く事が出来 荷揚げを済し 巨富を得て帰途に付く 航海日和に恵まれ往路の出来事も忘れ 此の岬の沖を過き様とした だが不思議な事に 満帆に追風をはらみ全櫓充分に水をかくも 船は一向に進まず坐礁した如くにて やがて次第に風雨強く狂暴なる暴風雨と急変し船子等の不安は 往路の期に増して激しく船主は 往路の期の願事に思いを致し木の葉の如く震る船上にて斧を以て、帆柱を切倒し 海に投じ 石廊権現に奉納された すると不思議なる事に帆柱は 荒れ狂う大波の波頭に乗って 幾十丈の高き社殿の御前に供えた如く打上げし と同時に波も静まり 船は櫓を以て走り去りしと傳えられて居り 今直 當社殿の基礎となりて 此の建築物を支えて居り 當社の御神威の高きと共に 此の神技を伊豆の七不思議の代表的な神話として廣く風光名美さと共に日本全国に知られ居る
帆柱材質檜 長サ六間約十二メートル 当社 宮司社殿内の案内額より
式内社「伊波例命神社(いはれのみことの かみのやしろ)」の伝承
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
イハレの音からか イハレヒコ命〈神武天皇〉が記されています
【意訳】
伊波例(イハレ)命神社
〇神武天皇 神日本磐余彦命 常陸国 夷針神社
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神・所在共に不詳と 記しています
【意訳】
伊波例命神社
伊波例は 仮字なり
〇祭神明らかなり
〇在所 詳らかならず
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』➁
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社 伊波例命神社の所在は 長津呂村〈現 石室神社(南伊豆町石廊崎)〉と記しています
【意訳】
伊波例命(イハレノミコトノ)神社
祭神 伊波例命
祭日
社格 (明細帳に 石室神社とあり 祭神 伊波例命)所在 (賀茂郡 南崎村長津呂)長津呂村
今按〈今考えるに〉
豆州志 本郡長鶴村の條に石廊権現 本村より13町巳牛の方の洲嘴にあり これ即ち 州の極南なり 祠は山岸より海上に造り出す 下臨すれば石岸峭立 高さ数百丈 波浪淘湧慄然として 足酸す云々とあるによりて
式社考證に 伊波例命神社 賀茂郡長津呂村 岩廊神社なるべし 巌巒上に鎮座なるは 伊波例の称に協い 神階帳に所謂 いはら姫の明神 これにて いはらは 伊波例の訛と聞こえ 今称の石廊 又は いはらの転と聞こえるを以って証すべしと云える その説 確実にして 伊波例の石廊なる事 石廊の いはれ姫明神なるべきこと知るべし
故 今これに従う
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』➁1
『伊豆国式社攷略( Izunokuni shikisha koryaku)』〈明治15年(1882)発行〉に記される伝承
式内社 伊波例命神社の所在は 長津呂村〈現 石室神社(南伊豆町石廊崎)〉と記しています
【意訳】
伊波例命(いはれの)神社
同郡 長津呂(ながつろ)村 石廊(いろう)崎鎮座 いはらひめの明神 神階帳
今称す 石室(いわむろ)神社 俗に石廊社という 考証注進特選
今云う 当社地は 本州の極南大洋に突出せる岬角なり 故に伊豆の崎の称あり
祠は 海上に臨める縣崖の石室にして 下視みれば片岸数十丈 波浪淘湧慄然としてこれを久くにべらに奇異の神域なりと云うべし
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『伊豆国式社攷略』萩原正平 著 出版年月日 明15.6 編 出版者 栄樹堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815090『伊豆国式社攷略』➁
石室神社(Iro Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)