大宮姫命稲荷神社(おおみやひめのみこといなりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 宮中神 八神殿の一座 大宮賣神の遷座後の旧跡とされています 応仁の乱後 神祇官西院から遷座されたと云われ 現在地は かつての平安宮の太政官の跡地で 当時の内裏の南に位置し 神祇官西院の西北側辺りとなります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大宮姫命稲荷神社(Omiyahime no mikoto Inari Shrine)
(おおみやひめのみこといなりじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市上京区主税町826-12
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大宮賣神(Ohomiyahime no kami)
《配》稲荷大神(Inari no Ohokami)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・皇室守護
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社 大社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代は不詳
【由 緒 (History)】
神祇官西院の御巫等祭神八座の一座 大宮賣神の遷座後の旧跡と伝わります
〈大宮賣神は 天太玉命(あめのふとだまのみこと)の御子神 伏見稲荷大社3座の1座〉
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・光春稲荷大明神〈伏見稲荷大社よりの分霊〉境内北東側
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)宮中 36座…大(預月次新嘗)30・小6)
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)神祇官西院坐御巫等祭神 23座(並大)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)御巫祭神 8座(並大月次新嘗・中宮東宮御巫亦同)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 大宮賣神
[ふ り が な ](おほみやひめの かみ)
[Old Shrine name](Ohomiyahime no kami)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
宮中に鎮座する 36座『延喜式神名帳』の所載一覧
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
二条駅から府道111号を北上 約600m 徒歩7分程度
竹屋町通り沿いと言うか 西から東へ進むと路上を塞ぐようにあって 竹屋町通りを参道のように鎮座する感もあります
街中で大きな神木が こんもりと鳥居とお社を覆っています
大宮姫命稲荷神社(Omiyahime no mikoto Inari Shrine)に参着
玉垣が道路を塞ぐように廻されていて 石の鳥居が西に向いて建てられています 鳥居のすぐ後ろ 大木の下に社号標が建てられていて「大宮姫稲荷大神」と刻まれています
一礼をしてから 鳥居をくぐると 玉垣は2重に廻されていて 内側の玉垣の内で 社殿は 南を向いて鎮座しています
社殿にすすみます 玉垣で囲まれた神域に 鉄扉に施錠がなされ 石積みの上に社殿があり その後ろには木々が生い茂り すぐ後ろに道路があり狭い空間の筈ですが 街の喧騒も忘れるような錯覚の中
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
そのまま西から東へと回ると 境内社の・光春稲荷大明神〈伏見稲荷大社よりの分霊〉にお詣りをしながら 社殿裏手の道路側に出ます こちら側にも鳥居があり くぐり抜けて一礼をします
神社の真後ろは 京都児童福祉センターがあり こちらから眺めると 西側からの竹屋町通りが この位置で 神社の敷地を避けるように道幅が狭くなっている様子が良くわかり 都市計画優先とされずに 神社の神木も伐採されずに大切にされていることに安堵します
10mと離れていない京都児童福祉センターの壁面に「平安宮 太政官跡(だじょうかんあと)」の案内板が設置されているので この場所が元々は太政官跡であったことが分かります 詳しくは下に記します
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
現在の鎮座地 平安宮の太政官跡(だじょうかんあと)について
平安京では 平安時代から応仁の乱の時代辺りまで 宮中(内裏)の神祇官西院において「大御巫(おおみかんなぎ)」と呼ばれる女性神官によって「八神殿」に八柱の神が祀られていました 大宮賣神は その第六殿にあたります
応仁の乱以降は 八神殿の祭祀は衰退して 明治時代になるまでは宮中から姿を消します
その間は 吉田家が吉田神社の境内 白川伯王家が敷地内に八神殿を祀ったと記録されています
大宮賣神が 当地で稲荷神として祀られていたのは どのような経緯かは定かではありません
現在の鎮座位置は 平安京当時の内裏の南に位置し 神祇官西院〈東北の角から2つ目 青丸の位置〉の西北辺りが現在地となることが 現地案内板の平安宮復元図によりわかります
平安宮 太政官跡(だじょうかんあと)
太政官は、律令国家(りつりょうこっか)の政務を統括する最高国家機関で、現在の内閣に相当する役所である。朝堂院(ちょうどういん)の東に隣接して設けられ、中央の太政官庁(太政官曹司(ぞうし)あるいは太政官曹司庁とも呼ぶ)には、正庁、後堂、東・西庁の建物かそれぞれ廊で結ばれ、南には正門が開かれていた。組織は長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四階級に分かれ、長官は太政大臣または左・右・大臣がその役割を担い、執務は少納言(しょうなごん)局や左右弁官(さゆうべんかん)局が取り仕切った。
さらに庁内北東部には、公卿(ぐぎょう)たちの会食の場である朝所(あいたんどころ)、南西には文書を保管する文殿(ふどの)、北西には官人の交替を監督する勘解由使庁(かげゆしちょう)などか配置されていた。太政官の政務は本来、朝堂院で議政官(ぎせいかん)による聴政(ちょうせい)(早朝に政治を執ること)を行い、実務は曹司で執り行うのが基本であった。ところが、次第に朝堂院聴政の儀式的性格が強くなるにつれて、政務の中心は太政官庁に移って行き、さらに天皇の住まいである内襄での執務か常態化すると、聴政の場は内裏の東に位置する外記庁(げきちょう)(外記政)で行われ、太政官庁における聴政も「官政」として儀式化していったといわれる。
『今昔物語集』には、清和(せいわ)天皇の御世のこととして、太政官庁の東庁に早参(そうさん)した弁官(べんかん)が鬼に食べられる説話が載せられている。政務を西庁で行う由来譚(ゆらいたん)となっているが、太政官庁が人気(ひとけ)のない場所として描写されているのは興味深い。なお、後三条天皇は康平元年(1085)に大極殿か焼け落ちていたために、初めて太政官庁で即位式を行っており、有名な「延久の荘園整理令」に際して、朝所に記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)が設置された。
発掘調査では、北辺築地と勘解由使庁の南築地を発見しており、少ないながら太政官庁の構造や規模を知るうえでの重要な資料を得ている。
2012年3月(財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
現地案内板より
大宮姫命稲荷神社(Omiyahime no mikoto Inari Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)