加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
加茂神社(Kamo shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県さいたま市北区宮原町4-8-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》別雷命(わけいかづちのみこと)
《合》倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
伊弉冊命(いざなぎのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・生産、安産守護の神
・衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
鎮守 加茂神社
鎮座地 大宮市宮原町四丁目八番地の一
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
伊弉冊命(いざなぎのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)境内に 別に 伊弉諾命・伊弉冉命を祀る三峯神社があり、素蓋鳴尊(俗に天王さま)を祀る神輿殿があり 御神輿に納められてゐます。
祭典日 元旦祭 一月一日
春 祭(祈年祭并初午祭)三月初午日
夏 祭(祇園祭・天王様)七月十五日
例大祭 十月五日
秋 祭(新嘗祭・感謝祭) 十一月二十八日御由緒
当神社の御創立は 文化七年 徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されてゐるが 社前に宝暦三年四月、弘化二年十二月と刻まれたもの 又、文政十年八月 御遷宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であることがわかります。その昔 京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから 別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて來ました。
幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌り その妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御礼の為奉納したという幣帛は現存しています。昔から生産、安産守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛冶村を始め近郷からの参詣も多い。
明治四十一年 附近数社を合祀して翌四十二年 神饌、幣帛供進の神社として 改めて村社に指定されました。
祭神の合祀により 衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正八年不幸 拝殿を焼失しましたが 本殿は御神威により御安泰であったので 当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し 同時に社務所をも新築しました。以来六十年、神楽殿も古びて危険となり、その上社務所も時代の進展につれ手狭で不便となったため此の度 氏子総代人等相謀り 氏子一同の賛意を得て ここに昭和の大造営が遂行された次第であります。
昭和五十五年四月
現地案内板より
【由 緒 (History)】
加茂神社 御由緒
さいたま市北区宮原町四‐八‐一
□ 歴史
当地は『風土記稿』によると、「昔より加茂社の建る地なれば、ただちに村名とす」とあり、また天正十年(1582)の『成田分限帳』に「三十六貫文武州加茂宮多門兵衛」と記されている。
当社は、加茂宮村を縦貫する中山道の側に鎮座する。江戸期の浮世絵師、渓斎英泉の描いた「木曾街道上尾宿」の図には、緑深い森の中から「加茂大明神」の幟旗(のほりばた)が掲げられている。
創建年代は不詳であるが、山城国(やましろのくに)一宮(いちのみや)の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社を勧請したものと伝える。『風土記稿』は、当社を「延喜式」神名帳記載の足立神社とする説があるが正しき証左なしと否定している。
別当は、真言宗吉祥院で、雙樹山大恵寺と号す。本尊は薬師如来像を奉安する。
『明細帳』によると、明治六年四月に村社となり、同四十年五月、大字加茂宮字 中道(なかみち)の無格社稲荷社、字 鍛冶(かじ)の無格社稲荷社、字 四分一(しぶいち)の無格社稲荷社・同境内末社稲荷熊野合社、字 中島(なかじま)の無格社稲荷社、字 構(かまえ)の無格社天神社、同四十一年七月、字 原殿(はらどの)の無格社稲荷社を合祀した。
大正八年十月、拝殿は焼失したが本殿の類焼はまぬがれた。本殿は一間社流造り、壁面には賀茂別雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている。なお、境内にある文政十年(1827)八月の石灯籠には、「御遷宮本社再建立」とある。
□ 祭神
・別雷(わけいかずち)神□祭祀
・歳旦祭(一月一日)・初午(はつうま)祭(三月初午)・夏祭り(七月十四日、十五日)・例祭・お日待(ひまち)(十月四・五日)・新嘗(にいなめ)祭(十一月二十八日)現地案内板より
「加茂競くらべ馬」の彫刻(加茂神社・宮原町)
大宮市教育委員会編「大宮をあるくⅧ ~心ふれあう季とき節~」(平成7年) 31~34ページ、「加茂神社」から引用
庚申塔(こうしんとう)から少し先へ行くと中山道の右手にこんもりとした一画が見えてきました。加茂神社です。京都の上賀茂神社を勧請(かんじょう)したものと言われています。
加茂宮村の名の由来ともなった村社で、昔から生産や安産の神様として厚く信仰されてきました。(中略)
また神社の本殿には、文政9年(1826)の作といわれる加茂競べ馬の彫刻があります。競べ馬とは、朝廷で5月5日の節会(せちえ)の時、騎手を左右に分け2騎ずつ10番で左右の勝敗を決めたものです。特に京都賀茂社の五月競馬は有名です。加茂神社も京都の上賀茂神社を勧請したものだということなので、ここに彫刻が残されているのでしょう。加茂神社の境内には、江戸中期に寄進された手水鉢(ちょうずばちや)石灯籠などが残されており、昔からこの神社が大切にされてきたことが分かります。また、10月号の「金の御幣伝説」からもうかがえるように、生産や安産、守護の神様として、厚く信仰されてきました。
ご近所の方のお話では、初詣はもとより祭礼や七五三などの際には大いににぎわい、今なお地域の方々に親しまれているとのことです。北区に残された伝承、伝説を「今も残る北区のむか~しむかし」として紹介しています。興味をお持ちになったら、由来する場所を調べ、訪ねてみると新たな出会いがあるかもしれません。問合せ 北区コミュ二ティ課
北区役所コミュ二ティ課発信より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・三峯神社《主》伊弉諾命・伊弉冉命
・神輿殿《主》素盞嗚尊
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 8座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 足立神社
[ふ り が な ](あたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Atachi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社について
・〈植田谷本村 足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)
・〈植田谷本村 足立神社・水判土村 足立神社の合祀先〉足立神社(さいたま市西区飯田)
・加茂神社(さいたま市北区宮原町)
・足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
・久伊豆社(鴻巣市笠原)
・氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〈・式社考・神名帳考証土代・神社覈録 等に足立神社 論社として掲載〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR高崎線 宮原駅東口から旧中山道を北上 約600m 徒歩8分程度
社号標には 村社 加茂神社 と刻字
加茂神社(さいたま市北区宮原町)に参着
参道には一の鳥居 二の鳥居は 朱色の両部鳥居 その先に手水舎があります
拝殿にすすみます
扁額には 鎮守 加茂神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて本殿が鎮座します
見事な彫刻〈賀茂別雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている〉が施されています
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 鴻巣 久伊豆社〈現 久伊豆社(鴻巣市笠原)〉と記し
別説として 式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉
或いは 殖田谷村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
【抜粋意訳】
足立(アタチ)神社
〇在 鴻巣曰 久伊豆社乎
古事記 大山津見神 之女 名 神阿多都比賣(カムアタツヒメ)
神代記 天杵瀬命 娶 吾田津姫 生児 火明命
惣風 --神社 神田六十束 四囲田 大日本根子彦太目天皇 御宇二年戊子 所祭 猿田彦命也 有神戸巫家等
式考 三室郷宮本村にあり 宮本大明神 サルタ彦 御朱印十五石 或いは云う 殖田谷村にあり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
加茂神社(さいたま市北区宮原町)について 式内社 足立神社とする説があるが 正しい証左なし どうして加茂神社と改めているのかも 信じがたい説である 式内社路 足立神社の所在は 植田谷本村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉が正しいであろう と記しています
【抜粋意訳】
巻之一五三 足立郡 巻之十九 吉野領 加茂宮村
加茂社
村の鎮守にて 吉祥院の持なり
社邊に 古杉數株ありて 土地のさま舊社とは見ゆれど 勧請の年代詳ならず
相傳へて 足立神社なるべしと云説あれど 正しき證佐なければ うけかひがたし 足立神社を いかなるゆへにて かく改しや かたかた信じがたき説なり 式に載たる足立神社は 植田谷本村に立るをもて正しとすべし牛頭天王社
天神社
八幡社
稲荷社
以上四社は村民の持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 足立神社について 所在は 殖田本村〈現・〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本) 〉と記しています
式社考に 三室郷 宮本村 宮本大明神〈現 氷川女體神社(さいたま市緑区宮本)〉と記している
(古代より氷川女体神社の祭祀者は 武笠氏一族〈武蔵國の祭祀権を司ると同時に 在地豪族として また武士団としての力も持っていた〉その祖先は由緒書きでは足立郡国造だった「佐伯朝臣」にさかのぼるとされ 故に足立神社か?)
【抜粋意訳】
足立神社
足立は郡名〈阿太知〉に同じ
○祭神 猿田彦大神、(風土記)
○殖田本村に在す、(地名記)
○惚國風土記七十七残欠云、武藏國 足立郡 足立神社、神田 六十束四囲田、大日本根子彦太日天皇 御字二年戊子、所祭 猿田彦命也、有神戸巫家等、
式社考に、三室郷 宮本村 宮本大明神と云り、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 足立神社の所在について 明治2年に合祀された飯田村 足立神社〈現 足立神社(さいたま市西区飯田)〉としていて 合祀前の旧鎮座地は 水判土村 慈眼寺の境内にあったと記しています
又 植田谷本村 足立神社〈現〈足立神社 旧社地〉植田谷本のクスノキ(さいたま市西区植田谷本)〉も式内社と云われるが 証拠がないので 信じられない と記しています
【抜粋意訳】
足立神社
祭神 猿田彦命
祭日 一月五月 並 十五日 九月十九日
社格 村社
所在 水判土村(北足立郡飯田村 足立神社に合併)
今按〈今考えるに〉
本社この村中の慈眼寺の境内にありしを 明治二年 今の地に移せりと云ひ
又 神社に天正年中の文書三通を蔵するもの證とすべし 故 今之に従ふ
一説に植田谷本村にも足立神社ありと云へど證とすべきものあらねば従がたし
【原文参照】
加茂神社(さいたま市北区宮原町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
写真
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る