大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)は 創立年代は不詳ですが 文武天皇 慶雲元年(704)諸国印及諸社に下し賜われた゛銅印゛を今も存し 『日本文徳天皇實録』には 仁寿元年(851)官社に列した事が記される由緒ある古社 ゛延喜式内社 淡路國 三原郡 大和大國魂神社(貞・名神大)(やまとの おほくにたまの かみのやしろ)゛とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大和大國魂神社(Yamato ohokunitama shrine)
〈大和大圀魂神社〉
【通称名(Common name)】
・二ノ宮神社(にのみやじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県南あわじ市榎列上幡多(えなみかみはだ)857
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大和大国魂神(やまとのおほくにたまのかみ)
〈大和大圀魂神〉
《配》八千戈命(やちほこのかみ)
御年命(みとしのかみ)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
大己貴命(おほなむちのみこと)
土御祖神(つちのみおやのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・郷土作リノ神 医薬ノ神 難病祈封ノ神 人体五行ノ神 病気祈願ノ神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 淡路國二之宮
・ 旧縣社
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
創立年代不詳。
文武天皇慶雲元年(704)、諸国印及諸社に銅印を下し賜ひしものを今に存す。現在、県の重要文化財に指定。
文徳天皇仁寿元年(851)、官社に列し、清和天皇貞観元年(859)、従一位勲八等に敍せられ醍、醐天皇延喜の制、名神大社に列し、淡路国正税の内より稲八百束を祭料に充てらる。
後ち、当国二ノ宮と仰がる。
土御門天皇元久2年(1205)、神代八木両郷を以て一二宮ノ法華櫻両会の舞楽料田に充てらる。
又領主蜂須賀家累代当社を信仰し、元禄15年(1702)、社領二反を捧げ、寛文10年(1670)・天明6年(1786)・文化14年(1817)・文政12年(1829)・天保14年(1843)、悉く藩費を以て諸殿の修復造立あり。
明治10年(1877)、三原郡費を以て社殿の改築す。
明治6年(1873)、県社に列せられる。
【由 緒 (History)】
淡路島 日本遺産文化財ガイド 大和大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)
日本書紀に登場する「御原(みはら)の海人(あま)」を統率したとされる倭(やまと)氏ゆかりの神社で、淡路国二宮と呼ばれます。境内からは大和社印(県指定有形文化財)が出土。古代の社殿は西向きで瀬戸内海に面していましたが、海上を通る船人が礼拝をせず祟りをなしたことから南向きに変更されたと伝えられます。
日本遺産
大和大圀魂神社 由緒
一 御祭神 大和大圀魂命
配祀 八千戈命 御年命
素盞嗚尊 大己貴命 土御祖神一 由緒
古ヨリ八太ノ二ノ宮ト尊称シ 皇室ヲ初メ世人ノ崇敬厚ク 臨時祭及祈年国幣ニ預リ給ヒ壱千弐百八拾有余年ノ星霜ヲ経移転ナキ旧社タル事 青史ニ明カナリ 当国伊弉諾神社ヲ以テ一ノ宮トシ本社ヲ以テ二ノ宮ト称ス
文徳天皇仁寿元年官社ニ列シ 清和天皇貞観元年従一位ニ敍セラル 醍醐天皇延喜ノ制ニ名神大社ニ列シ名神祭及祈年国幣ニ預リ給ヒ 淡路国正税ノ内八百束(現在ノ米十六石)ヲ祭料ニ充テラル 文武天皇慶雲元年諸社ニ下賜フモノト伝ウル古銅印ハ現在重要文化財ニ指定サレ今尚当社ニ所蔵ス
土御門天皇元久二年庁宣ニヨリ祭料ヲ下サレ其神ヲ祭リ土民群集桜花ヲ賞ス世ニ二ノ宮ノ桜祭ト称シ世人ノ知ル所ナリ 後当国二ノ宮ト仰ガレ公武ノ崇敬浅カラズ
江戸時代蜂須賀候深ク当社ヲ信仰シ元禄拾五年社領二反ヲ下賜ヒ代々祈願所ト定メ深ク当社ヲ崇敬シ社殿ノ改築等度々行ヒ実文拾年本殿再興文政拾弐年天保拾四年諸殿建立 然ル所王政復古御維新以来 廃藩置県ノ制度ニ改マリ其道絶セリ
明治六年県社ニ列シ三原郡一円信徒タルヲ以テ郡費ヲ充テ明治拾年本殿及諸建物悉皆新築シ現今ニ至ル当社ハ大国主神即チ大己貴神ナリ其故ハ大黒ノ神影ヲ摺テ世ニ弘メ配ル古板アリテ今猶珍伝シ近世新ニ神影ヲ彫刻シテ用ユナリ 郷土作リノ神 医薬ノ神 難病祈封ノ神 人体五行ノ神 病気祈願ノ神様トシテ神霊アラタカナリ
一 祭日
二月十一日 建国祭
二月十七日 祈年祭
四月 一日 例大祭
七月十八日 夏 祭
十一月二十三日 新嘗祭現地石碑文より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿〈寛文十年(1670)再建〉・幣殿
・拝殿
・社殿全体
・参道
・句碑
・社頭・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈大和大國魂神社は 高田八幡神社の兼務社となっています〉
・高田八幡神社(南あわじ市松帆高屋甲)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
官社に列した事が記されています
【抜粋意訳】
卷三 仁寿元年(八五一)十二月壬寅〈戊戌朔五〉
○十二月壬寅
詔(ミコトノリ)以て 淡路國(アハチノクニ)大和大國魂神(ヤマトノオホクニタマノカミ)を 列す於官社に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・
淡路伊佐奈岐神社 一座
大和大國魂神社 一座 巳上 淡路國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)淡路國 13座(大2座・小11座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三原郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大和大國魂神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](やまとの おほくにたまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yamato no ohokunitama no kaminoyashiro)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻26「主税(ちから)上」の 諸国本稲
神稲として ゛大和大國魂神祭料八百束゛と記載があります
【抜粋意訳】
延喜式 巻第二十六 主税上 諸国出挙正税公廨雑稲 淡路國
淡路(アハチノ)國
正税三万五千束。公廨四万五千束。国分寺料五千束。大和大國魂神祭料八百束。文殊会料一千束。修理池溝料一万束。救急料三万束
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大和大國魂神社(南あわじ市)の創建に関わる゛倭氏(やまとうじ)゛に関する2説
①大和朝廷が淡路国の支配の安泰を願い 大和国 大和坐大国魂神社〈現 大和神社(天理市新泉町)〉を勧請した とする説
御祭神の゛倭大国魂神゛は 大地主大神として 第10代崇神天皇6年までは 天照大神とともに天皇と瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた
皇女 渟名城入姫が゛倭大国魂神゛の斎主となったが 髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった
崇神天皇7年(紀元前91年)に倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって倭大国魂神を祭る主とせば 必ず天下太平ぎなむ」との神託を受け 垂仁朝に市磯長尾市〈倭直(倭氏)の遠祖(倭国造の一人)〉が 倭大国魂神を祭って創建された神社
・大和神社(天理市新泉町)
②日本書紀に登場する「御原之海人(みはらのあま)」を統率したとされる一族・倭氏(やまとうじ)ゆかりの神社 とする説
倭氏(やまとうじ)その遠祖は 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)〈伝承によれば彦火火出見命の子孫〉です
『記紀神話』に登場する゛椎根津彦命゛は 神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で 神武天皇の即位後 褒賞として初代 倭国造に任命されています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
応神天皇22年条に
天皇の妃゛兄媛(エヒメ)゛を 吉備に送る水手(カコ)〈船の漕ぎ手〉として゛御原之海人(みはらのあま)゛が集められた と記されています
【抜粋意訳】
応神天皇 二十二年春甲申朔戊子〈三月五日〉
天皇は難波に幸行され 大隈宮(オオスミノミヤ)に居ました
十四日 高台(タカトノ)に登られて 遥か遠くを望まれた その時に 妃の兄媛(エヒメ)が居り 西の方を望んで大変嘆かれた兄媛(エヒメ)は 吉備臣(キビノオミ)の祖先 御友別(ミトモワケ)の妹
天皇は 兄媛に問われた
「何で そんなに嘆いているのか」答えて言われた
「近日(コノゴロ) 妾(ヤッコ)〈自分〉は 父母(カソイロハ)を恋しく思います それで 西の方〈故郷の吉備の方向〉を望むと 自然と嘆いてしまうのです 願わくは しばらく帰って 親に逢えるでしょうか」天皇は 兄媛が親を思う温かい気持ちを思い 言われた
「二親(カソイロハ)を見ないで 幾年も経ている 帰りたいと欲するのは 当然のことである」すぐに願いを聞き入れられて
淡路の御原ノ海人(ミハラノアマ)八十人を呼び寄せ 水手(カコ)として吉備に送られた
夏四月
兄媛は 大津(オオツ)から船出して行かれた
天皇は高台(タカトノ)に居て 兄媛の船を望んで 歌われました淡路島(アワジシマ) いや二並(フタナラ)び
小豆島(アズキジマ) いや二並(フタナラ)び
寄(ヨ)ろしき島々(シマシマ)
誰(タ)かた去れ放(アラ)ちし
吉備(キビ)なる妹(イモ)を
相見(アイミ)つめもの歌訳
淡路島は二つ並び 小豆島は二つ並び 立ち寄りたい島は二つ並びになっているのに 私の相手は去り 一人になってしまった 吉備の妹は慕い合っていたのに
【原文参照】
隣国 阿波國にある 同名の式内社゛倭大國玉神 大國敷神社二座゛について
阿波國 美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)の論社
・医家神社(三好市池田町)
・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉
・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)
・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神戸淡路鳴戸自動車道 西淡三原ICから県道66号経由で東へ約4.9km 車10分程度
南あわじ市榎列゛掃守(かもり)゛の交差点を東へ ここから社頭迄400m
正面に見えているこんもりとしている鎮守の杜
地名からも 太古の香りが漂います
この゛掃守(かもり)゛とは 古代の大和朝廷での職名で 宮中の掃除、敷物・設営の等を司つた
『古語拾遺』には 天忍人命が神武天皇の父の誕生の際の海辺の産屋に供奉しカニをほうきではらったので蟹守(かにもり)と号したと伝えています
社頭に至る前 社殿の脇辺りに 鎮守の杜に小道があり 参道に見えたので進んでみると
社殿のすぐ脇に出ました どうやら裏参道のようです
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)に参着
石段を上がり 境内に出ると 表参道が真っ直ぐに南西方向に延びています
゛古代の社殿は西向きで瀬戸内海に面していましたが 海上を通る船人が礼拝をせず祟りをなしたことから南向きに変更されたと伝えられます゛と案内があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大和大國魂神社 名神大について 所在は゛上八田村に在す、二宮と稱す゛〈現 大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〉と記しています
【抜粋意訳】
大和大國魂神社 名神大
大和大國魂は 夜末登乃於保久爾多麻と訓べし
〇祭神明か也
〇上八田村に在す、二宮と稱す、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕淡路國大和大國魂神社一座、
類社
大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社官社
文徳實錄、仁壽元年十二月壬寅、詔以ニ淡路國大倭大國魂神 列ニ於官社、神稲
式廿六、〔主税上〕淡路國正税云々、大和大國魂神祭料八百束、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大和大國魂神社 名神大について 所在は゛上八太村泰山に在り、二宮と云ふ゛〈現 大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〉と記しています
伯家部類に載る永万元年〈1165〉記に 記されている゛淡路國二宮゛である
又゛大倭直の祭る所也、大倭直の祖は、實に海神の女 玉依姫命の所生にして、八太造に由あり゛とも記しています
【抜粋意訳】
大和大國魂(ヤマトオホクニタマノ)神社
〇按本書、大國の大を脱せり、今三代實録、延喜の臨時主税式に據て之を補ふ、
今 上八太村泰山に在り、二宮と云ふ、〔淡路常磐草〕
〔〇按 伯家部類に載る永万元年記に、淡路國二宮炭五十籠、薪百束を神祇官に貢進るとあるは、即本社也、〕盖 大和坐大國魂神を祀る、〔三代実録、延喜式〕
大國魂神は 實に大年神の子也、〔古事記、舊事本紀〕
〔〇按 大和國大國魂神は、大倭直の祭る所也、大倭直の祖は、實に海神の女 玉依姫命の所生にして、八太造に由あり、今 本社は太村にあるに據らば、其族 此地に住者、或は大倭氏の由縁に依て之を祭る歟、姑附て考に備ふ、〕文徳天皇 仁壽元年十二月壬寅、詔して官社に預らしめ、〔文徳実録〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、祭料八百束を充奉りき、〔延喜式〕
土御門天皇 元久二年四月東神代八木両郷を以てー二宮の法華櫻雨曾舞樂料田に充つ、〔護国寺所蔵文書〕
凡每年三月十日櫻會祭を行ふ、〔淡路常磐草〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大和大國魂神社 名神大について 所在は゛上八太村 (三原郡榎列村大字幡多)゛〈現 大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)〉と記しています
また 日本書紀の崇神巻に以長尾市爲祭 倭大國魂神之主とあるのは 大和國造同族であるとも記しています
【抜粋意訳】
大和大魂神社 名神大
祭神 大和大國魂命
今按 日本紀崇神巻に以長尾市爲祭 倭大國魂神之主 また垂仁紀の注に命 大倭直祖長尾市宿禰令祭矣とある大倭直は 大和國造同族にて 其國造は舊事紀に彦火々出見尊の海神の女 玉依姫命を娶て生玉へる御子 武位起命に出たれは 其外家は海神 豊玉彦神に縁あり また當社の鎮座地八太村は 姓氏錄に八太造の此地に住たるか 其所縁ある大和直の祭れる大國魂神 を此にも祭れるなるへし
官社 文徳天皇 仁壽元年十二月壬寅 詔以淡路國大和大國魂神 列於官社
祭日 三月十日
社格 縣社所在 上八太村 (三原郡榎列村大字幡多)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
大和大國魂神社(南あわじ市榎列上幡多)について゛文徳天皇 仁壽元年十二月壬寅官社に列し、延喜の制、名神大社に列せられ、古來當國二宮たり、延喜式主税上に「淡路國 大和大國魂神祭料八百束」と見えたり゛ と記しています
【抜粋意訳】
兵庫縣之部
〇兵庫縣 淡路國 三原郡榎列村大字幡多
縣社 大和大國魂(ヤマトオホクニタマノ)神社
祭神 大和大國魂(ヤマトオホクニタマノ)命
創建年代詳ならず、但文徳天皇仁壽元年十二月壬寅官社に列し、延喜の制、名神大社に列せられ、古來當國二宮たり、延喜式主税上に「淡路國 大和大國魂神祭料八百束」と見えたり、賀集山護國寺に蔵せる當社及一宮たる伊佐奈岐神社の法華櫻両會の廳宣に云く〔〇淡路常盤草収載〕
廰宣 留守所
可令ニ早募ニ 一二宮法華櫻雨會舞樂料荒野拾町事、
右両會舞樂料田荒野拾町「可引ニ募東神代八木両郷之由、去子年雖被成下ニ御廰宣、件郷等無催促之田代云云、早令開ニ廃榎列幷西神代之荒野、可引ニ募彼料田之狀、仍執達如件、
留守處宣承知、敢勿ニ違失以宣、
文久二年四月 守藤原朝臣の花押永萬元年當社より神祇官へ炭五十籠、薪百束貢進せりと、伯家部類所載永萬元年記に見えたり、 (神祇志料云、二宮と云ふ、〔淡路常磐草〕
〔〇按 伯家部類に載る永万元年記に、淡路國二宮炭五十籠、薪百束を神祇官に貢進るとあるは、即本社也、〕明治六年四月社殿を再建せられ、同年二月縣社に列す、社殿は本殿・拜殿・回廊・神輿庫・及社務所にして、境内は三千三百八坪 (官有地第一種 )あり、又三十八年中内幣省指令甲第四八四號を以て、上地林反別四反六畝六步を境内に編入許可せらる。
【原文参照】