大石神社(おおいしじんじゃ)は その名の通り 巨大な花崗岩のご神体〈磐座信仰〉が坐します 社殿の周囲にも数々の巨大な石〈磐座〉があり 不思議な景観となっています 社伝によると 古くは物部神社と称していたとあり 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社となっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大石神社(Ohishi shrine)
【通称名(Common name)
【鎮座地 (Location) 】
山梨県山梨市西2067
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇命(おほやまつみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大石神社
山梨市西2067
創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝されたとみられています。『甲州噺』(享保17年〔1732〕)には岩手能登守(信盛)が建立したと記載されています。信盛は、甲斐守護 武田信昌の子 縄美の嫡男で、岩手氏は縄美が岩手郷を領有し岩手氏を名乗ったのがはじまりとされます。
信盛・信景・信重と武田氏に仕え、御親類衆・旗奉行という重職につき、東の武田殿ともいわれました。
社名の起こりとなった御影石(花崗岩)の神体石は、高さ12m、周囲68mで首鎧(かぶと)形をしており、上部には平坦面があるといわれています。
ほかにも名が付けられた石が多くあります(烏帽子石、屏風石、影向石、産屋石、胎内石、浮橋石、百足石、笠石、乳石、子守石など)。
磐座(いわくら)
神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する。
祀られる石は、巨石や陰陽石など石の大きさや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである。
『古事記』『日本書紀』また『風土記』にその名称が散見され、古代の信仰形態のひとつとなっている。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
大石神社(旧指定村社)
由緒沿革:
社記に社号は古く物部神社と称してゐたが 後代 大石大神、岩手大明神等と称して 現在 大石神社と称してゐる。
甲斐の守護 武田刑部大輔信昌の子 治部少輔縄美この地を領し 氏を岩手と改めて 永正四年(一五〇七)四月九日社殿を造り弓矢を奉納した。
境内の大きな御影石は神体石で 高さ一二米、廻り六七米余りあり、本県随一のものといはれてゐる。その他烏帽子石、屏風石、影向石、産屋石、浮船石等の巨石がある。山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/2068
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・大石神社 御神体
〈御影石(花崗岩 かこうがん)の巨石 高さ十二メートル まわり六十七メートル〉
・大石神社 社殿
・大石神社 本殿
・大石神社 拝殿
・奇岩群(きがんぐん)
山梨市八景・大石山(おおいしさん)の奇岩群(きがんぐん)
大石山には大山祇命(おおやまずみのみこと)をまつる大石神社がある。境内の大きな御影石(花崗岩 かこうがん)は御神体 で、高さが十二メートル、まわりが六十七メートルあって、本県随一と言われる。
烏帽子(えぼし)石、屏風(びょうぶ)石、影向(ようご)石、産屋(うぶや)石、浮舟(ふきふね)石、百足(むかで)石、指門(しもん)石、甲(かぶと)石など、全山の奇岩群は目を見張るものばかりで、まさに自然美 の極地といえよう。
この地には古くから「岩手八景」として、岩松晴風、大石夜雨、信盛晩鐘、笛川漁火、中村夕照、唐沢落雁、妙月秋月、物見暮雪が選定され、この八景や奇岩群を訪れる文人墨客、観光客などが跡を絶たない。
陽春のころ、大石山の松の緑と紅(くれない)のつつじの織りなす色彩のコントラスト(対照)もまことに見事である。また、このころ大石神社の祭りが行われ神楽も奉納される。大石山は また、市内外の園児、小学生、家族たちが遠足や散策におとずれている。
社頭の案内板より
・影向(ようご)石
・屏風(びょうぶ)石
・浮舟(ふきふね)石
・産屋(うぶや)石
・百足(むかで)石
・立烏帽子(たてえぼし)石
・烏帽子(えぼし)石
・指門(しもん)石
・参道石段・注連柱
・狛犬
・参道下の境内
・社頭鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
かつて 大石神社(山梨市西)は 浅間神社(笛吹市一宮町)の境外 末社とも云う
延喜式内社 甲斐國 八代郡 淺間神社(名神大)(あさまの かみのやしろ)
・浅間神社(笛吹市一宮町)〈甲斐國一之宮〉
現在 大石神社(山梨市西)は 大井俣窪八幡神社(山梨市北)が兼務されています
延喜式内社 甲斐國 山梨郡 大井俣神社(おほいまたの かみのやしろ)
・大井俣窪八幡神社(山梨市北)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷七 貞觀五年(八六三)六月八日己亥
○八日己亥
授に
武藏國 從五位下 氷川神に正五位下
甲斐國 從五位下勳十二等 物部神 美和神に 從五位上
近江國 正六位上 建部神に從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)三月廿八日甲辰
○廿八日甲辰
甲斐國 從五位上勳十二等 物部神 美和神に 並に授くに正五位下 從五位下 宇波刀神に從五位上
大和國 平城京内田地十六町三段百廿歩 賜從四位下行山城權守在原朝臣善淵 先是 善淵奏言 奉爲平城太上天皇 建精舍於陵次 買得舊京荒地 墾闢爲田 修理精舍之資 而内藏寮稱格旨 收爲勅旨田 請頼恩弉 永爲私田 詔許之
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)閏三月十八日癸亥
○十八日癸亥
授に甲斐國 正五位下勳十二等 物部神に從四位下を
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十九 貞觀十八年(八七六)七月十一日丙戌
○十一日丙戌
授に
甲斐國 從四位下勳十二等 物部神 越中國 新川神に 並に從四位上甲斐國 正五位下 美和神に正五位上
美濃國 正六位上 兒安神 越中國 櫛田神に 並に從五位下を
丹後 美作兩國飢疫 賑に給す絶乏に
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅七 元慶四年(八八〇)二月八日壬辰
○八日壬辰
授に
甲斐國 從四位上勳十二等 物部神に正四位下 正五位上 美和神に從四位下岩見國 正六位上 椙尾國社神 常世國社神に 並に從五位下を
左京人從四位上 行左馬頭兼伊勢守興基王に賜に姓を源朝臣と 興基は人康親王之子也
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
天慶三年(九四〇)九月四日丙寅
奉授
山城國 正二位 稻荷神 從一位
大和國 瀧倉神 正二位
左京 從三位 太詔戶神 伯耆國 從三位 倭文神 正三位
左京 正四位上 隼神 大和國 正四位下 高屋安倍神 甲斐國 正四位上 物部神 隱岐國 正四位上 天建金草神 並從三位
大和國 正五位上 河內神 甲斐國 正五位上 大井俣神 並從四位下
伊勢國 從五位上 能原神 正五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・物部神社(笛吹市石和町)
・大石神社(山梨市西)
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 山梨市駅からR140号経由で北へ約6.3km 車で12分程度
大石神社(山梨市西)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
長い石段をあがります
山梨県偉人 手塚藤兵衛翁頌徳碑があります
手塚藤兵衛翁頌徳碑
手塚藤兵衛は東山梨郡岩手村(現山梨市)東四六八番地に尊父一雄母堂菊野の長男として大正九年(1920)四月十二日に誕生する
翁は岩手小学校高等科を卒業 昭和十三年(1938)三月 単身中国大陸へ渡り 北京中央鉄路学院を卒業 濟南鉄路局に勤務中に終戦を迎えられた
帰国復職後の混乱期の中 懸命に化学を学び 千葉県船橋市田喜町に移居 二男三女に恵まれながら 昭和三十二年(1958)東都化成株式会社を設置された 昭和四十四年には新技術に基づく 純国産エポキシ樹脂第一号を開発し 国際的名声を博すると共に 多くの傘下企業を経営 昭和四十五年には韓国に進出し国都化学工業株式会社を設立 平成元年に至っては 株式証券市場に上場することに成功された
翁は日頃多忙な業務に専念される傍ら 深く郷里に思いを寄せられ 山梨市役所新庁舎建設 山梨市民会館新設 母校岩手中学校に『手塚文庫』を開設 更に大石神社本殿拝殿の改築 菩提寺信盛院開山堂他の寄進等数多く ふるさと発展のための事業に巨額の御芳志と多大な御尽力を頂いた
仍ってここに多数の関係者が集い 翁の御高徳を讃えると共に奇特な愛郷の心を永く後世に伝えることを願ってこの碑を建立することとした。
平成元年十月二十三日 山梨市長 三枝勇雄 撰併題額 渡邉正書
現地石碑文より
うえに上がると 眼下に西川が流れ 塩山 勝沼の街並みがあり
ほぼ真南には 富士山が山頂をみせています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の後ろに本殿が祀られています
その後ろには 御神体の石があります
こうした 巨石信仰の場は 写真ではその大きさや荘厳な存在感を伝えきれないのですが 是非 ご参拝して下さい
御神体石の間には 御神木があります
社殿に一礼をして 参道石段を下ります
社頭の鳥居を抜けます
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛松本邑に在す、゛〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部神社
物部は毛乃々倍と訓べし
○祭神物部氏祖十神、〔名勝志〕
○松本邑に在す、〔参考〕例祭月日、
類社
伊勢國飯高郡物部神社の条見合すべし神位
三代実録、
貞観五年六月八日己亥、授甲斐國從五位下勲十二等物部神從五位上、
同八年三月廿八日甲辰、甲斐國從五位上勲十二等物部神、授正五位下、
同年閏三月十八日癸亥、授甲斐国正五位下勲十二等物部神從四位下、
同十八年七月十一日丙戌、授甲斐國從四位下勲十二等物部神從四位上、
元慶四年二月八日壬辰、授甲斐國從四位上勲十二等物部神正四位下、
日本紀略、
天慶三年九月四日丙寅、奉授甲斐國正四位上物部神從三位、社領
当代御朱印高二石四斗五升
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 物部神社について 所在は゛舊 御寶山にありしを、後 松本村に移す、物部十社明神と云ふ、゛御寶山〈大蔵経寺山〉より遷座して〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社
舊 御寶山にありしを、後 松本村に移す、物部十社明神と云ふ、〔甲斐名勝志、甲斐國志、〕
盖 物部連祖 饒速日命を祀る、〔新撰姓氏録、舊事記、延喜式〕
清和天皇 貞観五年六月巳亥、従五位下勲十二等 物部神に従五位上を授け、
八年七月丙戌、従四位上を加へ、
陽成天皇 元慶三年九月丙寅、正四位上より従三位に進めらる、〔日本紀略〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛松本村(東山梨郡岡部村大字松木)゛〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
又 一説として゛一説赤尾村 大石大神なりと云ひ゛〈現 大石神社(甲州市塩山赤尾)〉
゛物部郷大石社と記せり゛〈現 大石神社(山梨市西)〉を紹介しています
【抜粋意訳】
物部神社 稱 十社明神
祭神 饒速日命
今按 社傳 祭神 饒速日命より物部氏の祖神十座なりと云へど こは十社明神と云より 十座の祖神と云るものなるべし 故今とらず
神位
清和天皇 貞観五年六月八日巳亥 授に甲斐國從五位下勳十二等 物部神 從五位上
八年三月廿八日甲辰 甲斐國從五位上 勳十二等 物部神 授に正五位下
閏三月十八日癸亥 授に甲斐國正五位下 勳十二等 物部神 從四位下
十八年七月十一日丙戍授に甲斐國從四位下 勳十二等 物部神 從四位上
陽成天皇 元慶四年二月八日壬辰 授に甲斐國從四位上勳十二等 物部神 正四位下
朱雀天皇 天慶三年九月四日 奉贈に甲斐國正四位上 物部神 従三位〔朱雀以下 日本紀略〕祭日
社格 村社所在 松本村(東山梨郡岡部村大字松木)
今按 一説赤尾村 大石大神なりと云ひ 慶長十三年の制札に、物部郷大石社と記せりと云へれど 他に證あるに非ず
且つ松本村 今は松本寺の境内にありて 小社なれど神さぴたる森のさま いかにも式内社なりとみゆると云へば 今は之に從へり
【原文参照】