古代 丹波國 熊野郡の延喜式内社の多くは 丹波之河上之摩須郎女(たんばの かわかみのますのいらつめ)による勧請と伝わります 例えば 兜山の山頂に鎮座する延喜式内社 熊野神社は「娘たちが皇后になったことを喜び祝い 丹波道主命が熊野の神を勧請 河上の麻須によって 兜山の山頂に建立した」と云う

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目次
- 1 丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)について
- 2 古代 丹波國〈川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉について
- 3 『古事記』『日本書紀』に載る「美知能宇志王〈丹波道主命〉と河上摩須郎女〈川上摩須郎女〉」について
- 4 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)が勧請したと伝わる丹後國 熊野郡の延喜式内社について
- 5 丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
まずは 丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)について 見てみましょう
丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)について
丹波之河上摩須郎女の意味をみると
丹波之河上(たんばのかわかみ)とは
川上流域付近 とも 丹波国の「河上氏」を云い
摩須郎女(ますのいらつめ)とは
「摩須(ます)」は 丹波国に伝わる地名・氏族名
「郎女(いらつめ)」は高貴な女性への敬称
したがって 「丹波国・河上地方の豪族(摩須氏)の娘」の意となります
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古代 丹波國〈川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と 丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉について
丹波之河上之摩須郎女は 丹波国の豪族 河上摩須の娘として生まれ 丹波の国王であった〈第7代 孝霊天皇の孫〉美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉の妻となり子をもうけます
〈第7代 孝霊天皇の孫〉美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉
四道将軍の一人として 山陰道巡察を終えて その後 久美浜町小字川上の須田に屋敷跡が残る豪族の娘 京丹後七姫のひとりにも数えられる「川上摩須郎女」を妻とし夫となった その娘 日葉酢比賣ら5人を垂仁天皇に嫁がせて 中央政権へ権勢をふるったと伝わります
美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉の 中央政権への権勢について
例として
夫妻の子供の内 一人は〈第十一代 垂仁天皇の皇后〉比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)となり
その御子 大足彦(おおたらしひこ)は 第十二代 景行天皇となりました
この景行天皇の御子が 古代の英雄 日本武尊(やまとたけるのみこと)です
古代大和王朝との深い繋がりを示しています
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『古事記』『日本書紀』に載る「美知能宇志王〈丹波道主命〉と河上摩須郎女〈川上摩須郎女〉」について
『古事記』『日本書紀』では 生まれた子の伝承に多少の誤差がありますが 両方の関連個所を参照してください
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
第九代天皇 開化天皇の段に
〈第7代 孝霊天皇の孫〉美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉は 丹波国の豪族 川上摩須の娘 丹波之河上之摩須郎女(たんばのかわかみのますのいらつめ)を娶り 娘として〈第十一代 垂仁天皇の皇后〉比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)をもうけています
美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉の子孫は 王族と地方氏族の婚姻を記していて〈後の神功皇后〉息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)へと繋がっています
【抜粋意訳】
第九代天皇 開化天皇の段
・・・
・・・〈前略〉・・・美知能宇志王(みちのうしのおう)は 丹波の豪族 河上摩須郎女(かわかみますの娘)を妻に迎え 子をもうけた
第一は 比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)〈第十一代 垂仁天皇の皇后〉
第二は 眞砥野比賣命(まとのひめのみこと)
第三は 弟比賣命(おとひめのみこと)
第四は 朝廷別王(みかどわけのみこ)であるこの四柱(よはしら)である
この朝廷別王(みかどわけのみこ)は
〔三河國(みかわのくに)穂別氏(ほのわけうじ)の祖先である〕この美知能宇志王の弟 水穂眞若王(みづほのまわかのみこ)は
〔近江國(ちかつあふみ)安直(やすのあたひ)の祖先である〕次に神大根王(かむおほねのみこ)は
〔美濃國造(みののくにのみやつこ)・本巣國造(もとすのくにのみやつこ)・長幡部連(ながはたべのむらじ)の祖である〕次に 山代の大筒木真若王(やましろのおほつつきのまわかのみこ)は 同母弟の伊理泥王(いりねのみこ)の娘・丹波の阿治佐波毘売(たんばのあじさはびめ)を妻とし 子の迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)をもうけた
〔「迦邇米」は音を仮借して書いた〕この迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)は 丹波の遠津臣(とおつのおみ)の娘・高材比賣(たかきひめ)を妻に迎え 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)を生んだ
この息長宿禰王は 葛城の高額比賣(たかぬかひめ)を妻として
息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〈後の神功皇后〉
次に虚空津比賣命(そらつひめのみこと)
次に息長日子王(おきながひこのみこ)は
〔三柱を生んだ この息長日子王は 吉備の品遅君(きびのほのじのきみ)・針間(はりま)の阿宗君(あそきみ)の祖である〕また 息長宿禰王は 河俣(かわまた)の稲依比賣(いなよりひめ)を妻にして 大多牟坂王(おおたむさかのきみ)をもうけた
〔「多牟」は音を仮借して書いた〕
〔この王は 多遅摩國造(たじまのくにのみやつこ)の祖〕また 前に述べた建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)は
〔道守臣(みちもりのおみ)・忍海部造(おしぬみべのみやつこ)・御名部造(みなべのみやつこ)・稲羽忍海部(いなばのおしぬみべ)・丹波の竹野別(たかぬのわけ)・依網(よさみ)の阿毘古(あびこ)らの祖である〕この〈開化天皇〉天皇(すめらみこと)の御年(みとし)は六十三歳であった
その御陵(みささぎ)は 伊邪河(いざかは)の坂の上にある
【原文参照】

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『古事記』選者:太安万侶/刊本 明治03年 校訂者:長瀬真幸 国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047416&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
第十一代天皇 垂仁天皇の段に記される
川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)との間に生まれた「丹波の五女」の娘たち〈長女 日葉酢媛・次女 渟葉田瓊入媛・三女 眞砥野媛・四女 薊瓊入媛・五女 竹野媛〉は 垂仁天皇に献上されました
垂仁天皇は 日葉酢媛命を皇后とし 他の4人も妃として迎え入れましたが 竹野媛は容姿が理由で丹波へ帰されました
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)〈日本武尊(やまとたけるのみこと)の祖母〉は 垂仁天皇との間に 第十二代 景行天皇(けいこうてんのう)・倭姫命(やまとひめのみこと)〈天照大神を伊勢の地に祀った皇女〉等を産んだと記されます
【抜粋意訳】
第十一代天皇 垂仁天皇 十五年の春二月 乙卯の朔(ついたち)甲子の日
丹波国から五人の娘を召して 宮中の後宮(掖庭・うちつみや)に入れました
〈川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)との間に生まれた「丹波の五女」〉第一の姫は 日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
第二の姫は 渟葉田瓊入媛(ぬはたのにいりひめ)
第三の姫は 眞砥野媛(まとのひめ)
第四の姫は 薊瓊入媛(あざみのにいりひめ)
第五の姫は 竹野媛(たけのひめ)
その年の秋八月 壬午の朔(ついたち)
日葉酢媛命を立てて皇后とし 皇后の妹(三女)を妃としました
ただし 竹野媛は容姿が醜かったため 故郷の丹波に帰されました
しかし 丹波に帰る途中 自(みずから)返されたことを恥じ 葛野(かづの)の地で輿(こし)から身を投げて死んでしまいました
このため その地を「墮国(おつくに)」と呼びましたが 今は訛って「弟国(おとくに)」と云います皇后・日葉酢媛命は三男二女を生みました
第一子は 五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
第二子は 大足彦尊(おおたらしひこのみこと)〈後の第十一代垂仁天皇〉
第三子は 大中姫命(おおなかつひめのみこと)
第四子は 倭姫命(やまとひめのみこと)〈天照大神を伊勢の地に祀った皇女〉
第五子は 稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)妃の渟葉田瓊入媛(ぬはたのにいりひめ)は 鐸石別命(ぬてしわけのみこと)と膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生み
次の妃・薊瓊入媛(あざみのにいりひめ)は 池速別命(いけはやわけのみこと)と稚淺津姫命(わかあさつひめのみこと)を生みました
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
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川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)が勧請したと伝わる丹後國 熊野郡の延喜式内社について
丹後國 熊野郡について
「丹後国(たんごのくに)」は 和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部・加佐郡・与謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡の5郡を割いて設置されています 元々は「丹波國(たんばのくに)」でした
当時の「丹波國(たんばのくに)」が 如何に大きく 強大な勢力を持っていたかは 想像できます その中心地が 熊野郡でした
〈第7代 孝霊天皇の孫〉美知能宇志王〈丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)〉は この地に定着して 勢力を高めていきます
『日本書紀』には 川上摩須郎女と丹波道主命との間に生まれた「丹波の五女」の娘たち〈長女 日葉酢媛・次女 渟葉田瓊入媛・三女 眞砥野媛・四女 薊瓊入媛・五女 竹野媛〉は 第十一代 垂仁天皇に献上され
垂仁天皇は 日葉酢媛命を皇后とし 他の4人も妃として迎え入れた とあります
例えば 兜山の山頂に建立された熊野神社〈延喜式内社 丹後國 熊野郡 熊野神社(くまのの かみのやしろ)〉は「娘たちが皇后になったことを喜び祝い 丹波道主命が熊野の神を勧請 河上の麻須によって 兜山の山頂に建立した」と伝わっています
又 久美浜町須田には 川上摩須の屋敷跡の伝承地があります
丹後國 熊野郡において 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)が勧請したと伝わる延喜式内社との位置関係を 地図にしてみました
〈創建年代順は不明です〉
川上麻須屋敷跡⇒衆良神社⇒三嶋田神社⇒伊豆志弥神社⇒聞部神社⇒賣布神社⇒丸田神社⇒熊野神社
延喜式内社 丹後國 熊野郡 熊野神社(くまのの かみのやしろ)
・熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)
丹波道主命と川上摩須郎女の孫娘が皇后になったことを喜び 川上摩須によってかぶと山山頂に建立されたと伝えられている
・熊野若宮三社神社(京丹後市久美浜町品田)
・熊野新宮神社(京丹後市久美浜町河梨大谷)
延喜式内社 丹後國 熊野郡 伊豆志彌神社(いつしみの かみのやしろ)
・伊豆志彌神社(京丹後市久美浜町出角宮ノ谷)
『丹後舊事記』に「垂仁天皇の朝 川上摩須郎 勧請」とある古社
延喜式内社 丹後國 熊野郡 丸田神社(まろたの かみのやしろ)
・丸田神社(京丹後市久美浜町甲山亀石)
社伝によると 垂仁天皇の御代の勧請 丹波国川上の豪族 川上麻須により勧請された古社
・〈参考論社〉 蛭子神社&境内 丸田神社(京丹後市久美浜町関家ノ上)
延喜式内社 丹後國 熊野郡 賣布神社(ひめふの かみのやしろ)
・賣布神社(京丹後市久美浜町女布初岡)
「丹後舊事記」等によると 垂仁天皇の時代の川上摩須による勧請と伝わる古社
・布森神社〈布杜神社〉(京丹後市久美浜町女布)
延喜式内社 丹後國 熊野郡 衆良神社(もろよしの かみのやしろ)
・衆良神社(京丹後市久美浜町須田天王谷)
「丹後一覧集」には「垂仁天皇朝 川上摩須郎の勧請と傳ふ」とあり 祭神は河上摩須神が鎮まります
延喜式内社 丹後國 熊野郡 三嶋田神社(みしまたの かみのやしろ)
・三嶋田神社(京丹後市久美浜町金谷今ゴ田)
『丹後舊事記』によると 垂仁天皇の時代に河上摩須が勧請した古社
延喜式内社 丹後國 熊野郡 聞部神社(ききへの かみのやしろ)
・聴部神社(京丹後市久美浜町友重 式ノ谷)
社伝によると崇神天皇の御宇 河上摩須神による勧請
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