上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は もとは 俗に「源太夫社」と称し ここから200メートル程南に鎮座していましたが 区画整理によって 昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座しました 祭神は尾張國造 乎止與命(おとよのみこと)を祀る 延喜式内社 東海道 尾張國 愛智郡 上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
上知我麻神社(Kami chikama shrine)
【通称名(Common name)】
・俗称「源太夫社」
【鎮座地 (Location) 】
愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1−1〈熱田神宮境内〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》乎止與命(おとよのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・知恵の神様〈上知我麻神社〉
・商売の神様〈大國主社・事代主社〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 熱田神宮境内摂社
【創 建 (Beginning of history)】
上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)
祭神 乎止與命(おとよのみこと)
もとは、ここから二百米程南に鎮座していたが、昭和二十四年、この地に遷座した。俗に「源太夫社」と称されていた。境内に「大国主社」と「事代主社」があり、正月五日の「初えびす」は、新春吉兆の福運を授かろうとする参拝者で終日賑わう。
現地立札より
【由 緒 (History)】
『熱田神宮略記』〈昭和17年(1942)〉に記される内容
昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座以前の旧鎮座地について 記している
この時から 二つの末社〈大國主社・事代主社〉が記されています
【抜粋意訳】
第二章 境内及び境外 一、境外攝末社
攝社 上知我麻(かみちかま)神社
市内熱田區市場町に御鎭座、乎止與命(おとよのみこと)を奉祀し延喜式内社である。境内に大國主命を奉齋する大國主社、事代主命を奉齋する事代主社の二末社がある。
【原文参照】
『尾張名所図会』前編 巻4に記される内容
昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座以前の旧鎮座地の様子です
星崎(ほしざき)村にも 式内社 上知我麻神社があるとも記しています
【抜粋意訳】
上知我麻(かみちかまの)神社
〔市場町通傳馬町の西にあり。俗に源太夫社、又智恵の文殊ともいふ 熱田摂社七所の一社なり〕
延喜式に上知我麻神社 本國帳に正二位 上知我麻名神とある是なり
千我麻は郷名にて 和名鈔に愛智郡 千竃(ちかま)とあるのはここの事か
もしくは今の星崎(ほしざき)村のことなりともいひ 性(たしか)ならず
されども此の神のここに鎮座なるを以て・・・・祭神 小豊(をとよの)命は 尾張氏の遠祖(とおいおや) また当国の国造にて 舊事記の國造本紀に 尾張國造は志賀高穴穂朝〈成務天皇〉天別(あめわけ)天火明命(あめのほあかりのみこと)の十世孫(とつぎのすえ)小止与命(をとよのみこと)定賜ふ国造を」とみえたり
〇末社 海神祠 大黒天祠
〔境内にあり 毎年正月五日の初市に恵比須・大黒の摺絵(すりえ)をうけ 又 御福餅、掛鮒(かけぶな)苧(お)葱(ねぎ)をうる これ大黒を祝して福をいのることと 俗に御福迎(おふくむかえ)といふ〕
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・上知我麻神社 社殿と両脇に境内社
・上知我麻神社 社殿
・〈社殿向かって右手前 境内社〉大國社《主》大國主命
・〈社殿向かって左手前 境内社〉事代主社《主》事代主命
・授与所
・別宮 八劔宮(名古屋市熱田区神宮)〈同じ境内にあり〉
〈熱田神宮の境内別宮 八劔宮〉
・境内
・社頭の鳥居
・熱田神宮 正門 (南門・一の鳥居)の手前に 上知我麻神社の参道入口
・上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)は 熱田神宮の境内社です
熱田神宮は 別記事を参照ください
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈旧鎮座地〉源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)
〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉
源太夫(げんだゆう)社(上知我麻神社)と東海道
尾張名所図会(おわりめいしょずえ)にも描かれている江戸時代の「上知我麻(かみちかま)神社」。熱田神宮の摂社で、江戸時代には「源太夫(げんだゆう)社」とも呼ばれ「智恵の文殊(もんじゅ)」様としても知られています。江戸時代の「源太夫社」前は、東海道と美濃路の分岐点ともなり、往来する多くの人々でにぎわっていました。
・北へ行くと「熱田神宮・名古屋城下」
・南へ行くと「七里の渡し(桑名)」へ至ります。「源太夫社」は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地にあった「ほうろく地蔵」が祀られました。
場所を変えながら当時から残る「道標」が、在りし日のにぎわいを今に伝えています。現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 上知我麻神社
[ふ り が な ](かむつ ちかまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamutsu chikama no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
二つの゛知我麻(ちかま)神社゛〈延喜式内社〉について
『延喜式神名帳(927年12月編纂)』には 東海道 尾張國 愛智郡に 上下二つの知我麻神社が 式内社として所載されています
上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)
《主》乎止與命(おとよのみこと)〈尾張国造〉
天火明命(あめのほかりのみこと)又は 綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の子孫とされます
下知我麻神社(しもつ ちかまの かみのやしろ)
《主》眞敷刀俾尊(ましきとべのみこと)〈乎止與命の妻神〉
濃尾平野を支配していた尾張大印岐(おはり おおいみき)〈稲置いなぎ〉の娘
すなわち 二つの式内社の祭神は 夫婦神です
この夫婦神の間に生まれた御子は 建稲種命・宮簀媛(美夜受比賣)
建稲種命(たけいなだねのみこと)は 尾張国造を継ぎ 日本武尊の東征時の副将軍
宮簀媛命(みやすひめのみこと)は 建稲種命の妹 日本武尊の妻
日本武尊より 草薙剣(くさなぎのつるぎ)を預けられ 尊の死後 宮簀媛命は草薙剣を祀って社を建て 熱田神宮の起源をなしたと云う
東海道 尾張國 愛智郡 上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)の論社
・源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)
〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉
・上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)
〈昭和24年(1949)熱田神宮の境内に遷座〉
・星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
東海道 尾張國 愛智郡 下知我麻神社(しもつ ちかまの かみのやしろ)の論社
・下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)
〈熱田神宮の境内〉
・星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
〈星宮社の本殿裏の古墳の上に並座して 二つの式内社・上知我麻社・下知我麻社〉
熱田神宮の摂社・末社について
熱田神宮
・境内には 本宮をはじめ・別宮1社・摂社8社・末社19社が祀られ
・境外には ・摂社4社・末社12社が祀られ
すべてあわせて45の社をお祀りしています
・熱田神宮の摂社・末社について
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
地下鉄 熱田神宮伝馬町駅から約400m 徒歩6分程度
名鉄線 神宮前駅から約700m 徒歩10分程度
熱田神宮に参拝をします
熱田神宮は 別記事を参照ください
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社 名神大社〉
熱田神宮を参拝すると 熱田神宮 正門 (南門・一の鳥居)の手前に 上知我麻神社への参道があり 鳥居が建ちます
一礼をして 鳥居をくぐります
上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって右手前の境内社 大國社
拝殿の向かって左には境内社 恵比寿社と授与所
授与所には 初えびす の案内ポスター
熱田恵比寿講社の御案内 看板もあります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 上知我麻神社について 所在は゛熱田郷市場村に在す、俗源大夫御前と称す、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
【抜粋意訳】
上知我麻神社
上は加牟都と訓べし、知我麻は假字也、和名鈔、〔郷名部〕千竈、
○祭神 乎止與命、〔社記〕
〇熱田郷市場村に在す、俗源大夫御前と称す、〔集説、府志〕
千竈社記云、上社國造乎止與命也、建稻種命、宮簀媛命、皆此命之子也、」
集説云、按、天孫本紀小止與命男建稲種命生に二男、嫡尾綱根命、応神天皇御宇賜に尾治連姓為に大臣、大連、其裔代仕朝、孝徳天皇御宇尾張連忠命奉勅供に奉熱田神宮、云々、神位
國内神名帳云、從二位知我麻上天神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 上知我麻神社について 所在は゛今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
【抜粋意訳】
上知我麻(カムツチカマノ)神社
今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、〔国内帳集説、海邦名勝志、張州府志、〕
熱田宮の摂社にして、熱田地主神也、〔神名帳考証、張州府志、〕尾張國造、小止與命を祭る、〔舊事紀、熱田神社次第本記〕
凡 正月十二日 祭を行ふ、此の日 漁人等 大小魚を奉る、〔張州府志、〕
神裔 今に至て本社に仕ふ、總禰宜、權禰宜等の官あり、〔神社問答雑録、海邦名勝志、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 上知我麻神社について 所在は゛今 竃庄 熱田郷 市場村にあり、゛〈現 源太夫社跡(名古屋市熱田区伝馬)〈昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座の上知我麻神社の跡地〉と記しています
さらに考證を重ねていて ゛此 知我麻と云は 和名抄に千竈とみえて 其地は今の星崎庄とよぶ郷の古名なる由なれば 今熱田の地を千竃庄と云は後のことなるべし゛と〈現 星宮社(名古屋市南区本星崎町宮西)〈境内に式内社・上知我麻社・下知我麻社〉〉を考えるべきであると記しています
【抜粋意訳】
上知我麻(カムツチカマノ)神社 稱 源太夫神
祭神 乎止與(ヲトヨノ)命
祭日 二月上未日 十一月上辰日
社格 熱田摂社所在 熱田大宮五町許南 市場村(名古屋市南區 熱田市場町)
今按 式社考に本國神名帳には千竃上名神とあり
此 知我麻と云は 和名抄に千竈とみえて 其地は今の星崎庄とよぶ郷の古名なる由なれば 今熱田の地を千竃庄と云は後のことなるべし 此社もしくは本地村あたりに坐けむを 後此處に移し 又下知我麻社も上古は 下千竃と云地にまししを 後に此處に移しまつれるなるべしと云り 姑く附て考に備ふ
【原文参照】