桐原石部神社(長岡市上桐)〈『延喜式』桐原石部神社〉

桐原石部神社(きりはらいそべじんじゃ)は 創立年月日は不祥ですが 社殿は白雉年間(650~654)に造営 文明八年(1476)再建とある 延喜式内社 越後國 古志郡 桐原石部神社(きりはらのいそへの かみのやしろ)の論社です 又 村内に往時を語る地名として叡慮出・油田・丹波田・身洗場・小鯛郷池谷 等の小字名がありました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

桐原石部神社(Kirihara isobe shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

新潟県長岡市上桐(かみぎり)シデノ木2169
〈旧住所 三島郡和島村大字上桐字シデノ木2169番地〉

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『長岡市及近郊神社調稿』に記される内容

【抜粋意訳】

第十節 桐原石部神社 桐島村大字上桐
(一)祭神

縣の「明細帳」には不詳とあるが、「越後野志」には當社の祭神は石部ノ祖 奇日方命とあり、又この部落で累世の長たる柄澤家でも同神と申傳へて居る由。之に就いて小池翁は、『姓氏錄』に石邊公とあるが、〇石部と〇石邊と音が相通ずるから同一神かと言って居られる。そして奇日方命ならば、此の神は日本紀に大物主神の御子 天日奇日方命(古事記に櫛御方命)とありて、大神(ミワ)氏の祖 大田々根子命の曾祖父である。
尤も前節 下桐石部神社の條下にも言った樣に、「舊事記」には奇日方命は事代主命の御子と記され 下桐の社傳にも然うあるが、同じ舊事記に奇日方命が大神(ミワ)ノ君の祖なりといふ記事が二個所もある所から察すれば、此の神が事代主命の御子でないことは明かであると小池翁は斷じて居られる。之等は猶今後の研究に俟つべきであらうか。

 猶又、前節に掲げた如く「温古の栞」が下桐の祭神の神託として引いた「和論語」の文を、小池翁は之を上桐の祭神の神託と見做し、且つその末尾に、該神託は佛教に影響された所もあるらしいが、併し兎に角「倭論語」(近江の佐々木家の流人某の著)に載せられた所を見れば、當時此の神の靈験の顕著であったことを察すべきであると評して居られる。〔越後國式内神社考〕

(二)由緒

 創立年月日は詳でないが、當村の産土神である。明治元年十一月社殿破壊したが、翌二年五月再建された。同四年十二月  柏崎縣に於て郷社とされたが、同縣の慶止と共に同五年十一月社格廃止 更に翌六年十一月村社に列せられた。〔明細帳〕
 社殿は白雉年間(三十六代孝徳天皇、四十代天武天皇、1310~1345)に造營され、文明八年(百三代後土御門天皇、足利九代義尚、2136年)再建、弘治元年 (百五代後奈良天皇、足利十三代義輝、2215年)改造、寛永九年 燒失 次で再建、實曆三年 改造、慶應二年幣殿並に中殿改造、明治九年本殿改造、同廿六年拜殿改造。
「越後國式内神社案内」に依れば、古は神領五百石あり、鳥居は村下十四五町計りに在り、西口鳥場・小鯛郷池谷(古代郷池の轉化か)など、往時を語るらしき小字の地名がある。〔郡誌〕

 世人は下桐石部神社を式内社と言って居るが、社地の樣子や里の樣子から察するに、多分上桐のが式内であって、下桐のは上桐のを摸したのであらう、と小池翁は言はれる。如何のものにや。

【原文参照】

長岡市教育会教育研究部社会・実業・特殊教育研究部 編『長岡市及近郊神社調稿』,長岡市教育会教育研究部,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1024723

長岡市教育会教育研究部社会・実業・特殊教育研究部 編『長岡市及近郊神社調稿』,長岡市教育会教育研究部,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1024723

【由  (History)】

『三島郡誌』に記される内容

【抜粋意訳】

十七. 桐島村

桐原石部神社

 大字上桐に在り。村社であつて延喜式内の神社であると云はれてゐる。明治四年郷社に列せられたが柏崎縣の廃止と共に同五年十一月社格廃止、翌六年十一月村社に列せらる。祭神は天日方奇日方命であるが創立の由緒年間は不詳。社殿は白雉年間に造營し  文明八年再建した。此間の變遷は詳かでない。弘治元年に改造し寬永九年六月焼失再建、實曆三年改造、慶應二年四月幣殿並に中殿改造、明治九年十月本殿改造、同二十六年九月拜殿を改造した。

越後國式内神社案内

 桐原石部神社は古志郡島崎邑より寅の方拾五、六町の處 上桐邑 社頭 子の方へ向 產子居宅北にあり、里民云ふ 古へは神領五百石あり、鳥居は村下拾四、五町計にあり西口烏居は嶋崎村域四枚橋の一本松なりと 又 村内に往時を語る地名として叡慮出、油田、丹波田、身洗場 ,小鯛郷池谷 (古代郷地の轉化か)等の小字名存せり。

【原文参照】

三島郡教育会 編『三島郡誌』,三島郡教育会,昭12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1222992

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

桐原石部神社 社殿

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桐原石部神社 覆い屋の内に本殿か

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桐原石部神社 中殿〈幣殿〉か

茅葺の屋根に銅板が張られた屋根 本殿のような造り

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桐原石部神社 拝殿

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・〈境内社〉合併神社

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かつて集落内にあった5つの神社と祓戸社を合祀〈昭和11年〉した社殿

《主》瀬下津姫命,速開津姫命,息吹戸主命,速佐須良姫命
《合》白山媛命,大名持命,天神七代地神五代の神,素盞嗚尊,健御名方命

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・鳥居

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・社号標「延喜式内社 桐原石部神社

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)古志郡 6座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 桐原石部神社
[ふ り が な ]きりはらのいそへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kirihara no isohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

越後國 古志郡 桐原石部神社(きりはらのいそへの かみのやしろ)の論社

・桐原石部神社(長岡市上桐)

・桐原石部神社(長岡市寺泊下桐)

『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています

音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR越後線 桐原駅から県道574号経由で南下 約2.2km 車での所要時間は3~5分程度

社頭は東を向いています
4月28日の15時45分頃の参拝ですので 陽が西に傾き始めて参道を照らしています

桐原石部神社(長岡市上桐)に参着

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石段の途中に両部鳥居が建ち ちょうど鳥居の真横に小道がありましたので 横に進んでいくと

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お社のような建屋が見えてきました

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近づいてみると かつて集落内にあった5つの神社と祓戸社を合祀〈昭和11年〉した〈境内社〉合併神社

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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再び石段に戻ると 鳥居の扁額には「桐原 石部 太明神」と記されています
一礼をして くぐり抜けます

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御祭神の天日方奇日方命は 大物主命の御子神で 石部公の祖神とされています

『先代旧事本紀』には 神武天皇の御代「〈治世二年の春二月二日 天皇論功行賞〉宇摩志麻治命と天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)は共に拝命し 食国の政事を行う大夫になった この政事を行う大夫とは 今でいう大連 または大臣のことである 天日方奇日方命は 皇后の兄で 大神君の祖である」
つまり 食国政申大夫を務め 橿原宮に供奉したとあります

云い伝えによれば御祭神の天日方奇日方命は 蝦夷征伐の勅命を受けて当地にお出でになったと云い

石段を上がると 境内は 蝦夷の地を向いているかのように 北方向を向いています

社殿側から参道の上がり口にある 石灯籠を眺める構図です

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拝殿にすすみます

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境内は高台にありますので 西側には水田があり その先の山を越えると日本海となります

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 拝殿の奥に茅葺の屋根に銅板が張られた屋根 本殿のような造りの中殿 その奥に覆い屋の中に本殿が納められています

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社殿に一礼をして 参道石段を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 桐原石部神社について 所在は゛西越庄上桐村に在す、今 三島郡に属す゛〈現 桐原石部神社(長岡市上桐)〉と記しています

【抜粋意訳】

桐原石部神社

桐原石部は岐利波良乃伊曾部と訓べし

○祭神 久斯比賀多命〔風土記節解〕

〇西越庄上桐村に在す、今 三島郡に属す、〔名寄、案内〕
例祭 月 日

〇當國頸城郡 水島磁部神社、三島郡 御島石部神社もあり、

類社
 伊勢國朝明郡石部神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 桐原石部神社について 所在は゛今三島郡、下桐村に在り、゛〈現 桐原石部神社(長岡市寺泊下桐)〉と記しています

【抜粋意訳】

〇桐原石部(キリハラノイソベノ)神社、

今三島郡、下桐村に在り、〔越後名勝志、式社案内記、〕〔〇按上下桐村、名桐原村也、

凡 其祭五月十五日を用ふ、〔式社考証〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 桐原石部神社について 所在は゛桐村(三島郡大河津村下桐)゛〈現 桐原石部神社(長岡市寺泊下桐)〉と記しています

【抜粋意訳】

桐原石部神社

祭神 奇日方命

祭日 五月十五日
社格 村社

所在 桐村(三島郡大河津村下桐)

 今按 本村  三島郡にて西越の内なり 是は古へ古志郡にて信濃大河郷西の地を西越と稱すと云り 越は叩古志なれば もと古志郡なる事著し

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

桐原石部神社(長岡市上桐) (hai)」(90度のお辞儀)

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