能褒野神社(のぼのじんじゃ)は 「川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名 王塚)〈明治12年(1879)宮内省が『延喜式』諸陵寮が記す日本武尊の御陵「能褒野墓」であると治定〉の御霊を斎き祀る神社として 明治28年(1985)御鎮座 その後 明治41年(1908)村内の40余社〈式内社3社〈縣主神社・那久志里神社・志婆加支神社〉を含む〉が合祀されました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
能褒野神社(Nobono shrine)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県亀山市田村町 1409
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》日本武尊(やまとたけるのみこと)〈能褒野王塚の御霊〉
《配》建貝児王(たけかいこのみこ)〈元 縣主神社の御祭神〉
弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)〈元 小天宮の御祭神〉
《合祀》御食津神、大穴牟遅神、長白羽神、瀬織津比賣命、天照大御神、伊邪那美命、大八洲之霊、玉依比責命、品陀和気命、建速須佐之男命、玉柱屋姫命、金山毘古命、息長帯比賣命、木花咲耶姫命、久那斗神、八衢比古神、八衢比賣神、奥津比古神、奥津比賣神、火乃迦具土神、倭姫命、天児屋根命、天布刀玉命、菅原道真公、柿本人麻呂公、大雀命、大山津見命、速玉乃男命、大事忍男神、猿田比古命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
『日本書紀』景行天皇40年条、『延喜式』諸陵寮が記す日本武尊の御陵とされる「能褒野墓」について、明治12年10月、宮内省は「鈴鹿郡川崎村名越字女ヶ坂」の丁子塚(一名、王塚)をもってこれと確定した。
凡そ功績著き方々の御陵の辺には概ね御社を建ててその御霊を斎き祀るを常とすとして、明治16年12月、神宮斎主久邇宮朝彦親王より「能褒野神社」と社號の選定があり、次いでこの事を聞食された有栖川宮、山階宮、小松宮、伏見宮、北白川宮、閑院宮、梨本宮、華頂宮より金幣が寄せられた。翌明治17年3月、神社創立の許可を得て社殿境内の新設に着手した。明治28年10月、その業ようやく終わり、神宮斎主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代並びに金幣を頂戴して御鎮座祭が催行された
明治38年11月、日露の役終わり、陛下、戦勝の御親告のため神宮へ行幸の際、勅使を御陵へ差遣わされ、同勅使は当社へも参拝、玉串を奉納され、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉を賜った。
明治41年、延喜式内社である縣主神社、那久志里神社、志婆加支神社はじめ村内の40余社を合祀し、明治43年11月、神宮司廰より皇大神宮撤下の御用材を頂戴して翌明治44年、宮柱は太く、千木は高々に本殿が神々しく築き改められた。
大正13年、能褒野保勝会が組織され、翌大正14年6月に縣社へ昇格した。同年10月、その祝祭催行の折、秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、東伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮より「御鏡餅料」を賜り、三重縣知事以下200余名の参列を得て、当社初代宮司、伊藤忠孝以下18名の祭官にて荘厳なる祭儀が執り行われたと記録されている。 大正15年5月、能褒野保勝会が亀山駅前に大鳥居建設。当社に御縁故深き久邇宮邦彦王殿下より能褒野神社の「御社號書」が寄せられ、これを扁額として掲げ奉り今日に至っている。 当社の神紋は「三樫葉」である。皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会・三重県神社庁HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=3036
【由 緒 (History)】
由緒
日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた。中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等諸説が続出したが、明治12年、前方後円の古制により十六のばい塚をもつ女ケ坂を以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。
明治16年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌17年3月10日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治28年、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらんとの御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代二名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂いて帰り、御鎮座祭を行った。
明治38年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。
明治41年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、40余社を合祀して村社となった。
大正13年、能褒野保勝会組織、同14年6月県社に昇格し、10月祝祭を行った。この時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下200余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われた。大正15年5月、保勝会にて亀山駅前に大鳥居を建設。久邇宮邦彦王殿下より「能褒野神社」の御染筆を頂き、扁額を掲げた。
昭和21年マッカーサー指令により国家神道廃止され、宗教法人となり昭和27年12月1日、宗教法人能褒野神社として今日に及んでいる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・゛延喜式内 那久志里神社゛の社号標〈明治41年(1908)合祀〉
・山神
・水神
・社殿前の鳥居
・狛犬
・連理の榊
連理の榊
男女の深い契りをたとえて、比翼連理の仲という。
拝殿西の境内に連理の榊あり。
雄株の根廻り70糎、雌株55糎、高さ3米余りの所で、お互いの手をさしのべた形で連なっている。
尊の安全を願って海に沈んだ姫、その姫をしのんであづまはやと絶句し、命果くるとき白鳥と化して天に昇った尊の魂が奇しくも御魂を鎮める処を得てここに二株の榊と化せられたものか、人智を以てはかり知れないものがある。現地案内板より
・社頭
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・日本武尊能褒野御墓〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
三重北部最大の前方後円墳〈全長90m後円部の径54m 高さ9m〉
日本武尊が 東征帰路に伊勢国能褒野で蒙られたという記紀の記述に基づき 明治12年(1879)内務省により「日本武尊能褒野御墓」と定められ 現在も宮内庁が管理
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
能褒野神社は 三つの式内社(①那久志里神社②志婆加支神社③縣主神社)の論社を〈明治41年(1908)〉合祀しました
①那久志里神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 那久志里神社
[ふ り が な ](なくしりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakushiri no kaminoyashiro)
②志婆加支神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 志婆加支神社
[ふ り が な ](しはかきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shihakaki no kaminoyashiro)
③縣主神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 縣主神社
[ふ り が な ](あかたぬしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Akatanushi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容
能褒野神社に〈明治41年(1908)〉合祀される前の 三つの式内社(①那久志里神社②志婆加支神社③縣主神社)の論社について
〈江戸時代末期の国学者 御巫 清直(みかなぎ きよなお)1812~1894年(明治27年)〉は 著書『伊勢式内神社檢錄』鈴鹿郡の条に記しています
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 那久志里(ナクシリノ)神社
此社號は地名を活かして稱號とするならむ。然るを辨せす神名帳傍注に云く、倭姫命世記に云く、奈具波志忍山、今云ふ名古波志利忍山、白鬚神社在りに忍山村に、と牽強せるに從て考證にも、在にり野村之南五町許忍山に、稱すに白鬚ノ神と載す。又再考には、古へより鈴鹿姫と云ふ、今社地路頭ノ西ノ邊に在り、とす。これ鈴鹿山麓に在て土谷鈴鹿権現と稱するを本社に配するなり。共に浮妄の臆断にして信するに足らす。案内記に、名越村に坐す、と云へり。以下の諸誌各從て名越に在とす。遺響に、名越村東口松林ノ丘岡北の麓に坐す、と委くす。今按るに名越は神鳳鈔に那越御厨とある地にして、舊くは名串と稱すといへり。其那久志は卽ち那久志里の本語なり。丹後國風土記に、天女謂にて村人等に云く ,此處我心奈具志久〔古事平善者曰に奈具志〕、とある和(ナグ)しの辭をなくしき、なくしく、なくしり、なくしると活用せしなり。太(フト)しの辭をフトシキ、フトシク、フトシリ、フトシルト活ラカスと同格なり。されば那久志里ノ本辭は那久志なり。今名越と村に號するは那久志の轉音にて卽同言なり。されば地名を社號に唱ふる事明けし。併名越は舊邑なから今は田村の支邑の如くになりて 田村名越組と稱す。天和二年正月名越里人原作右衛門定光といふ者の著、古來見聞記に云く、名越里、神功皇后は譽屋別の御母にあたらせ給ふ、是故に御神の社を作らせ給ふて、那久志里神社と崇奉らせ給ふなり、と云へり。實曆九年八月上進神社記にも、鈴鹿郡田村那久志里大明神祭所神相知れ不申候、祠官伊藤信濃、とありて式内なる事を載せなれど、案内記より先き天和の頃に既く名國ノ産神を本社に配せること見つへし。其社域廿間許の狹少になれりと雖も古色ある神祠なり。棟札天明以後の者のみなれど、各那久志里神社とありて別ノ神號は稱せす。其西方に長瀨山東光寺と郷名を係る古寺の廃跡あり。又村西ノ松林中に王塚と稱する倭建命ノ陵墓も存して、故事を口傳する等 舊古ノ事蹟を忘失せさる習俗なれば、此社をも從古本名を唱へ來るなるへし。宜く これを本社の遺存と判定すへきか。
【原文参照】
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 志婆加支(シバカキノ)神社
此社號も地名なるらし。神名帳傍注に、楠原村の天神乎、とあり。考證、雜記、拾遺、俚諺、名所圖會、徵古錄等これに雷同すれども、楠原は奄藝郡にして本郡に隷せず、無稽の牽強論するに及ばす。案内記、宮地記には、川崎村ノ内、上芝崎村ノ乾、宮屋鋪と云字あり、方一町に半丁許芝生高埜なり、里よりは二町許も上る、と云ひ、鈴鹿郡賦にも、しはかきはしは崎にして、川崎の宮屋しきてふ地名こそ廃社の跡か、 といへり。遺響にも、河崎邑ノ内柴崎に古昔神社あり、今廃してなし、村老に探尋するに、峯ノ城舊址の北に宮やしきと云處あり、土人柴垣さまと稱せり、然れども社宇なしと答ふ、愚案するに本郡川崎村に柴崎と云地あり、志波加伎に音邇し、加伎は後世に佐伎に轉訛する處にして、志波加伎は舊名なるへし、然れども今は廃社にして其地定り難し、本邑ノ内柴崎と云處と峯城舊墟ノ北と二處に舊名存すといへとも、社宇はなし、と詳細に記せり。仍て これを檢査するに、川崎村ノ西田畝を隔て山際に芝崎世古と云ふ出屋鋪あり。其南ノ山峯氏の城跡なり。其西ノ山腹に、寬政九年八月廿日再興と稱して建築せる志波加支社ありて、艮に面せる小祠なり。又諸誌に謂ふ所の宮屋鋪は此芝崎の乾位に當りて、小山の上に八幡、愛宕を祀る祠あり。土人は宮垣樣と稱す。諸書此二ヶ處を紛混して廃社とするは妄なり。併両社ともに眞の本社たるへき確証なし。地勢も式社の形狀にあらず。猶他村を探索すへきにや。然るに實曆九年八月上進せる伊勢國龜山領内神社記に云く、片岡大明神〔延喜式内、〕志婆加支神社、祭所武甕槌神、〔神主〕大久保和泉、とあるに據て龜山藩上申書に、本社を龜山西町南三丁俗に角森と云、社地の邊を片岡とも角落とも云、又西に績て芝原と云村有しか、中古野村に移ると載す。其片岡角ノ森の小社を檢するに、狭少ノ叢祠にて、本社たるへき證ある事なし。芝原といふ地は小祠より三四丁許西にありて、社地には迂遠なる名稱なり。論するに及ばぬ浮妄にこそ。然して志婆加支の稱は姓氏錄に、柴垣ノ連は饒速日命十二世ノ孫懷大連之後也。舊事紀にも、物部布都久留大連之子 小事ノ連ノ公柴垣ノ連等ノ祖、とある柴垣の氏人村邑を建置して地名に負せ、祖神を祀て志婆加支神社と稱するにこそ。其意を以て考索をなすへき事なりかし。
【原文参照】
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 縣主(アカタヌシノ)神社
此社號は 姓氏を以てするか。然るを神名帳傍注には、今云ふ阿野田欺、といひ、考證には、今云ふ高宮村庄野宿の西也、といへり。共に不勘の浮説にして信受しすたし。
三國地志に云く、川崎村に坐す、俗 縣(けん)大明神と稱す、縣は川﨑の支郷也、と云へり。宮地記には、川崎ノ内土坂に坐すと云ひ、遺響には、川崎にあり、方俗穗落ノ社と稱す、と注す。其外の諸誌は唯川崎村に坐すとのみあり。上件の三書に所載の俗稱各異なりと雖も、共に川崎ノ東に在る穗落大明神といふ社を謂ふなり。
龜山藩上申書に云く、川崎村享保六年棟札に、縣主穂御歳大明神、祠官伊藤伊與 ,延享實暦等同、又天和二年享保等同村八王子ノ棟札に、鈴鹿郡原ノ庄縣ノ郷峯川崎村と記し、太田村六山大明神棟札に、文祿二年神主縣之住人新左衞門重修と記し、縣屋鋪と稱する舊跡ありと載たり。
實曆九年八月上進神社記に、鈴鹿郡河崎村縣主穗落大明神、祭所大己貴命、祠官伊藤信濃、とのみ載て、式内と云はされとも、享保ノ頃既に縣主ノ稱を記したるを見れは、本社の遺存なる事論なかるへきか。其社域東西三十九間、南北四十四間ありて、社殿〔長五尺、横四尺五寸、〕の小社地なれと、頗舊風ある社なり。然て徴古錄、遺響等に鈴鹿ノ縣主と稱して川俣縣ノ造又伊勢之別と混同の説をなすは年代不合の妄誕なり。受用すへからす、
今按るに倭名鈔に、英多〔安加多〕の郷あり。川崎に縣の古稱を存すれは、此邊卽英多郷なる事見つへし。
されは績日本後紀に、承和八年四月乙巳、右京ノ人勘解由主典正六位縣主前利連氏益に賜ふに姓縣の連を、倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命之後也、とあり。
又姓氏錄に、縣主日本武尊之後也、といふ縣主氏もあり。何れの氏人か此處に住し氏祖を縣主ノ神と稱して祭祀せる社なるへし。
【原文参照】
①那久志里神社
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 那久志里神社(なくしりの かみのやしろ)
・那久志里神社 古社地(亀山市田村町)
・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 那久志里神社(亀山市田村町 鎮座)〉
②志婆加支神社
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 志婆加支神社(しはかきの かみのやしろ)
・明神社(津市芸濃町楠原)
・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 志婆加支神社(亀山市田村町 鎮座)〉
・亀山神社(亀山市西丸町)
〈亀山神社に合祀 志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神(亀山市西町角森 鎮座)〉
③縣主神社
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)の論社
・縣主神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉
〈平成10年10月10日能褒野神社より 現在地に遷座〉
・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 縣主神社(亀山市川崎町 鎮座 穂年大明神)〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR関西本線 加佐登駅から西へ約5.5km 車9分程度
能褒野(のぼの)は 日本武尊(やまとたけるのみこと)が蒙られた地で
・『古事記』には「能煩野(ノボノ)」・『日本書紀』には「能褒野(ノボノ)」と表記されます
駐車場のすぐ脇に社頭の社号標があります
能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉に参着
参道を歩み 拝殿にすすみます
神紋は「三樫葉」です
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 那久志里神社について 所在は゛名越村に在す゛〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています
【抜粋意訳】
那久志里神社
那久志理は假字也
〇祭神 長白羽神、〔考証、俚諺〕
〇名越村に在す、〔国史、俚諺〕
【原文参照】
式内社 志婆加支神社について 所在は゛柴崎村に在す゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀の(柴崎村に鎮座した)志婆加支神社〉と記しています
その他に゛在に楠原村、称に天神此乎゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉の説も紹介しています
式内社 縣主神社について 所在は゛川崎村に在す、〔国史、俚諺〕今 穂年大明神と稱す゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
志婆加支神社
志婆加支は假字也
〇祭神詳ならず
○柴崎村に在す、〔俚諺〕
考証云、大八洲霊、勢陽俚諺是に從ふ、據を志らず、又考証に、在に楠原村、称に天神此乎、俚諺に、未詳、今考柴崎村と云り、今是に從ふ、
縣主神社
縣主は安加多奴之と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕英多、〔安加多〕とあるは轉訛なるべし、
○祭神 詳ならず
○川崎村に在す、〔国史、俚諺〕今 穂年大明神と稱す、
考証云、古事記に、倭建命御子 建貝兒王者、伊勢別之組、姓氏録、〔和泉國皇別〕縣主、日本武尊之後也、とあるを引り、されば日本武尊といふにや覚束なし、
〔連胤〕按るに、儀式帳に、伊勢国桑名野代宮に坐時に、伊勢國造遠祖建夷方に國名を問賜へば、神風伊勢國と白し、又鈴鹿小山宮に坐時に、川俣縣造等遠祖大比古に国名を問賜へば、味酒鈴鹿國と白すと見えたれぱ、此等の祖神ならん、猶考ふべし、類社
河内國 志紀郡 志貴縣主神社の下見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 那久志里神社について 所在は゛今 名越村にあり゛〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています
【抜粋意訳】
那久志里(ナクシリノ)神社
今 名越村にあり、〔神名帳検録、式内社検録〕
【原文参照】
式内社 志婆加支神社について 社号のみが記されています
式内社 縣主神社について 所在は゛今 英多郷川崎村にあり、穂落大明神と云ふ゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
志婆加支(シメカキノ)神社
縣主(アカタヌシノ)神社
今 英多郷川崎村にあり、穂落大明神と云ふ、〔勢陽俚諺、龜山舊式社取調帳、式内社検録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 那久志里神社について 所在は゛田村名越組゛〈現 那久志里神社古社地(亀山市田村町)〉と記しています
式内社 志婆加支神社について 所在の考証のみが記され 三ヶ所の論社を示しています
゛奄藝郡楠原村 天神社に配せれ゛〈現 明神社(津市芸濃町楠原)〉
゛川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地゛〈現 能褒野神社(亀山市田村町)に合祀の(柴崎村に鎮座した)志婆加支神社〉
゛龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す゛〈現 亀山神社(こ合祀片岡神社(亀山神社の境内鎮座)〉の説も紹介しています
【抜粋意訳】
那久志里神社
祭神
祭日 八月十五日
社格 村社所在 田村名越組
今按るに 名越を舊く名串とも稱せりと云へは 那久志里の下略と見て 其所に配するなり 社域今は福少になりたれど 西隣なる長瀬東光寺の廃地も兆域の内なりけるなろべし しからは式社の形狀に符を以てこれに從ふ
志婆加支神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに傍注以下の諸書に奄藝郡楠原村 天神社に配せれと郡差へり 案内記 郡賦等には川崎村芝崎組の乾に宮屋舗と稱する地あるに填たるに 寛政九年八月坤の山に再興す
又 龜山藩上申書に龜山西町南三町角落の森なる小祠に配す右三所何れも確証なくして決しがたし
【原文参照】
式内社 縣主神社について 所在は゛英多郷川崎村(鈴鹿郡川崎村大字川崎 村社縣主神社 穗落大神社) (現今 同村大字田村 村社 能褒野神社に合併)゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
縣主神社 今稱 穂落大神
祭神
今按 明細帳 祭神 建具兒玉と云るは 古事記に倭建ノ命カ御子 建具兒(タケスヒコノ)王者 伊勢ノ別之祖 姓氏錄和泉皇別に縣主ハ日本武ノ尊之後也とあるによれるなれど如何あらん祭日 八月十二日
社格 村社所在 英多郷川崎村(鈴鹿郡川崎村大字川崎 村社縣主神社 穗落大神社)
(現今 同村大字田村 村社 能褒野神社に合併)
今按るに傍注には 阿野田軟と云ひ 考證には高宮村と云へと從かたし
地志に川崎村縣大明神遺響には穂落社と注する社 享保六年の棟札に縣主穂落大明神とある由を上申書に載た縣郷 縣屋舗の名稱もありと云へは 今これに從ふ
【原文参照】