実践和學 Cultural Japan heritage
小野神社(おのじんじゃ)は 第5代孝昭天皇の第一皇子 天足彦国押人命〈小野一族の祖〉と 同命から数えて七代目の米餅搗大使主命〈餅及菓子の匠・司の始祖〉の二柱を祀ります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 小野神社二座(名神大)(をのの かみのやしろ ふたくら)とされる古社で 境内には小野篁(たかむら)を祀る篁神社もあります
天皇神社(大津市和邇中)〈『延喜式』小野神社 二座 名神大〉
天皇神社(てんのうじんじゃ)は 創立は不祥 社伝によれば 村上天皇 康保3年(966)和邇荘が崇福寺領の頃 京都八坂の祇園牛頭天王を奉遷して和邇牛頭天王社と称したと伝えられる 和邇中 今宿の産土神として崇敬され 明治9年(1876)「天皇神社」と改称されています 『式内社調査報告』には゛小野天皇社゛と記されます
倭神社(しどりじんじゃ)は 赤塚古墳の上に鎮座しています 被葬者が倭姫〈第38代 天智天皇の皇后〉だとする伝承があり 御祭神となっています 学術的に推定される築造年代は5世紀前半とのことで 7世紀の天智天皇の時代とは食い違いはあります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です
倭神社(やまとじんじゃ)は 創祀年代は不詳ですが 由緒伝えには 第13代 成務天皇(西暦131年即位)の御代に創立したとされます 古来「森本社」と称し 日吉大社の「社外末社百八社」の一つで 日吉大社に次ぐ古社と伝えられる 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です
那波加荒魂神社〈上宮〉(大津市苗鹿)〈『延喜式』那波加神社〉
那波加荒魂神社〈上宮〉(なはかあらみたまじんじゃ)は 天太玉命が この地に降臨「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け 苗(稲)を鹿が背負って運んだ」ので苗鹿の地名と云う 下宮の創建は天智天皇7年(668) 上宮は大同2年(807)別宮の荒魂社として創建とされますが 本殿裏に霊石があり盤座信仰の名残とも伝えられています
那波加神社(なはかじんじゃ)は 社伝には 大古 天太玉命がこの地に降臨 苗鹿の地名も「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け 苗(稲)を鹿が背負って運んだ」と云う 創建は天智天皇7年(668) 大同2年(807)別宮の荒魂社(上宮)を創建 地域を治めた小槻氏が崇敬した 式内社 那波加神社(なはかの かみのやしろ)です
尾崎神社 本殿(大船渡市赤崎町鳥沢)〈『文徳實録』理訓許段神〉
尾崎神社 本殿(おさきじんじゃ ほんでん)は 真北方向の蛸ノ浦漁港に鎮座する尾崎神社 遥拝殿の本殿になります 社伝によれば 人皇第五十代 桓武天皇の御宇 延暦二年(783)に創立 『文徳實録』理訓許段神 延喜式内社 陸奥國 氣仙郡 理訓許段神社(りくこたの かみのやしろ)であると伝えています
尾崎神社 遥拝殿(大船渡市赤崎町鳥沢)〈『文徳實録』理訓許段神〉
尾崎神社 遥拝殿(おさきじんじゃ ようはいでん)は 後水尾天皇の御宇 寛永二年(1625)類焼に罹り古文書 宝物悉く焼失 由緒沿革の要領不祥ですが 延喜式内社 陸奥國 氣仙郡(けせんの こおり)3座(小)の一つ 理訓許段神社(りくこたの かみのやしろ)と伝えています こちらは遥拝殿で後方の山上に本殿が祀られています
冰上神社(陸前高田市)〈『文徳實録』登奈孝志神・衣太手神・理訓許段神〉
冰上神社(ひかみじんじゃ)は 元々冰上山の麓に『延喜式』所載の氣仙郡三座〈理訓許段神社(りくこたの かみのやしろ)・登奈孝志神社(となこしの かみのやしろ)・衣太手神社(きぬたての かみのやしろ)〉があり 中世 修験道の山岳信仰により 冰上山の山頂に三宮を集め氷上三社と総称され 当社はその里宮にあたります
桙衝神社(ほこつきじんじゃ)は 社伝によれば 日本武尊が御東征の折り この神居山(亀居山)に柊の八尋の矛をつきたて 武甕槌神を祀ったのが神社草創の始めとされています 一説には日本武尊ではなく 武甕槌命の事績に由来するとも云う 延喜式内社 陸奥國 磐瀬郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)です
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