小野神社(大津市小野)〈『延喜式』小野神社二座(名神大)〉

小野神社(おのじんじゃ)は 5代孝昭天皇の第一皇子 天足彦国押人命小野一族の祖〉と 同命から数えて七代目の米餅搗大使主命餅及菓子の匠・司の始祖〉のを祀ります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 小野神社二座(名神大)(をのの かみのやしろ ふたくら)とされる古社で 境内には小野篁(たかむら)を祀る篁神社もあります

目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

小野神社(Ono shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県大津市小野1961

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天足彦国押人命(あまたらしひこ くにおしひとのみこと
  〈第5代 孝昭天皇の第一皇子近江国造の祖

   米餅搗大使主命(たがねつき おほおみのみこと)
  天足彦国押人命の七世孫・日本餅造の始祖

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 国史見在社(こくしげんざいしゃ)〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載されている神社〉

【創  (Beginning of history)】

小野神社

祭神
 天足彦国押人命(あまたらしひこ くにおしひとのみこと
 米餅搗大使主命(たがねつき おほおみのみこと)

由緒
 小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇子 天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。

 今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内 小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。

 古事記によれば 天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連の娘 余曽多木比売との間にお生れなった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大坂、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造(くにのみやつこ)の祖であると記されている。
 又、日本書紀には大和 和邇(わに)の祖であるとも記されている。

 大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。

 後裔の小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた事を知る人は少ない。
菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が使用される事は現在もその名残りとして受け継がれてきている。

遠く祭神が餐(しとぎ)をつくられ、小野一族からの継承が窺える。

現地案内板より

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【由  (History)】

小野神社

 小野神社は、延長5年(927)完成の延喜式神名帳に「小野神社二座名神大」とあり、日吉神社と並ぶ官幣大社であった。現在の社殿は、江戸時代に再建されたと伝えられている。

 祭神は、明治時代にできた小野神社明細帳によると、第五代天皇孝昭天皇の第一皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)である。
 米餅搗大使主命は、応神天皇の頃に日本で最初に餅をついた餅作りの始祖といわれ、現在ではお菓子の神様として信仰を集めている。

 この神社は、小野妹子(いもこ)、小野篁(たかむら)、小野道風(とうふう)などを生んだ古代の名族小野氏の氏神社である。推古天皇の代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝える。
平安時代、小野篁(802~852)のときに、同族が小野神社に集まって氏神を祀ったことは、「続日本後記」にくわしく載っている。

現地案内板より

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小野(オノ)神社

御祭神
 天足彦国押人命 米餅搗大使主命

御神紋
 三ツ目

御由緒
 明細書によれば創立年代不詳であるが、社記によると当社は延喜式名神大社で、御祭神 天足彦国押人命は孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖である。また米餅搗大使主命はその七世の孫で もとの名を日布礼大使主命と呼んだ。
応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから、日本餅造の始祖とされる。
推古天皇の時代に小野朝臣妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられる。
明治二十四年郷社に加列。
境内社の小野篁神社は平安初期の漢学者で詩人、歌人としても名の高かった小野篁を祀った神社で、社殿は暦応三年に佐々木六角により建立されたと伝えられる、三間社流造で重文である。また飛地境内社の小野道風神社は、小野道風を祀り、社殿は同じく三間社流造であり興国二年鎮座と伝えられる。

本殿・境内建物
〔本殿〕神明造 間口一間二尺 奥行一間一尺

境内社(摂社・末社)
 小野篁神社(重文) 八幡神社 松尾神社

社宝・文化財
 小野篁神社社殿重要文化財 小野道風神社社殿重要文化財

主な祭礼 粢祭(11/2)

10月第3土曜日小野神社餈大祭

滋賀県神社庁HPより
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=117

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

小野神社 本殿

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・小野神社 神門〈拝所〉

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・小野神社 狛犬ならぬ 狛〈餅饅頭〉の石碑

狛犬ではなく 狛犬のように餅饅頭の石像があります

これは 御祭神である 天足彦国押人命孝昭天皇の第一皇子近江国造の祖七世の孫である 米餅搗大使主命は 応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから 日本餅造の始祖とされてることに由来して 日本万国博覧会 1970年開催の記念として奉納されたようです

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・〈境内社〉小野篁神社・〈篁神社の右横 境内社〉八幡神社・松尾神社

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学問・使節の神 小野篁神社(祭神・参議小野篁命)

 平安前期(西暦八〇二年~八五二年)、参議岑守の子、漢学者、歌人。西暦八三四年遣唐副使を命じられ、八三六年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。八三八年再度、遣唐副使に任じられたが大使藤原常嗣との折合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時「西道謡」を作って遣唐の役を風刺した為、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へちっ居される。
三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言につぐ要職である。

 篁は漢詩文にすぐれ勅を奉じて「令義解」の撰進に参加している。篁の詩は「経国集」「和漢朗詠集」「扶桑集」「本朝文粋」に収められ、和歌は「古今集」に六首、「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公、野宰相ともよばれている。

百人一首に『わたのはら八十島かけてこぎいでぬと 人には告げよ あまのつりぶね』の歌がある。

社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。

現地案内板より

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・〈境内社〉小野篁神社 本殿

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重要文化財建造物 小野神社 境内社 篁神社本殿

重要文化財 小野神社境内社篁神社本殿 1棟 明治40年8月28日指定

構造・形式
 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、檜皮葺

時代
 南北朝時代 暦応年間(1338~42)

祭神 小野篁(おののたかむら)

寸法
母屋
 正面柱間 5.02メートル
 側面柱間 3.06メートル
 棟高 6.12メートル
 軒高 3.42メートル

向拝
 正面柱間 2.15メートル
 側面柱間 2.48メートル
 軒高 3.00メートル

 神社本殿は流造の形式が多い中、小野神社 境内社 篁神社(たかむらじんじゃ)本殿は全国的にも稀な切妻造、平入の本殿で、県内の重要文化財では、小野神社 飛地境内社 道風神社本殿と近隣の天皇神社本殿を合わせて3棟を数えるにすぎません。

 建物の規模は、正面(桁行)三間、側面(梁間)二間で、前面に一間の庇(向拝)を付けますが、3棟の中でも最も大きく、木割が太く量感豊かです。

 小野神社は『延喜式』に名神大社として記載されますが、篁神社は小野神社境内社として本殿の前面に位置します。建築年代を示す史料はありませんが、様式から道風神社本殿と同じく暦応年間(1338~42)の建築と考えられます。

 平面は、前方一間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣は3室に区切り、中央間はさらに前後に区切って内々陣とします。軒の茅負、向拝廻りの部材と縁、脇障子廻、外陣正面の建具等は後世の改造を受けていますが、内部は当初の姿をとどめています。

 祭神の小野篁(おののたかむら)(802~852)は、平安時代初期の公卿。遣唐副使を拒否して左遷されるような反骨の人物で、学者・漢詩人・歌人としても知られています。

現地案内板より

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重要文化財 小野神社 境内社 (たかむら)神社本殿

明治四十年八月二十八日指定

 小野神社は、小野妹子(おののいもこ)の出生地とみられ、篁神社は小野篁を祀る。

 現在の本殿は、室町時代前期に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。切妻造平入りの本殿は遺構が少なく貴重な建物である。

重要文化財 小野神社 飛地境内社 道風(どうふう)神社本殿

明治四十年八月二十八日指定

 道風神社は、祭神に小野道風(どうふう)を祀る。現在の本殿は暦応四年 (一三四一 )に建てられ、形式は三間社の切妻造に一間の向拝が付く。(たかむら)神社本殿より規模はやや小さいが、重量感のある優れた本殿である。

昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会

現地案内板より

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・小野小町の塔(小野小町供養塔)

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小野小町

 小町は平安前期の女流歌人で史料の乏しさと伝承の混乱があるが本名は小野吉子とする研究家がある。
系図によれば小野篁の孫とされるが年齢的に篁の娘とする学者もある。
生没年は天長三年(826年)~昌泰三年(900年)年頃と考えられるが詳しいことは不明。

 篁が隠岐島配流から召還され本位に復した承和九年(842年)十七歳で宮中に入り、文徳天皇の更衣であったとする説がある。
当時の有名歌人らと親交があり上級女官として長年宮中に仕えたとされる。

寛平八年(896年)七十一歳で正四位上に叙任し
昌泰元年(898年)5月七十三歳の時に醍醐天皇の宣旨により雨乞い歌を献歌した二年後に没したとされる。

彼女の歌は後の紫式部ら王朝女流文学の草分けとなった。

小町はこの歌からも美女であった事がうかがえる
『花の色は移りにけりないたづらに
  我が身世にふるながめせしまに』

現地案内板より

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・社務所

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・手水舎

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・鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈飛地境内社〉小野道風(どうふう)神社

詳しくは・小野道風神社(大津市小野)の記事を参照ください

・小野妹子神社(滋賀県大津市水明1丁目)

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外交・華道の祖神

小野妹子神社(祭神・大德冠位 小野妹子(いもこ)命)

 推古朝の廷臣、妹子は遣隋使として外国に行かれた先駆者である。
西暦607年、聖徳太子が中国の随朝と外交を気楽に当たり、遣隋使となり国書をもって渡海する。
それには「日出ずる国の天子 日没する国の天子に書をいたす」と記され、大国随へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を海外に示された、外交史上有名な、御神徳の高い御祭神である。
今も神社へは外交官、駐在員の参拝が多い。

 又、妹子は華道の創設者として、今も華道家元「池の坊」によって免許の授与が受け継がれている。
社殿は古墳上にあり、裏の石垣のあとは、妹子の墓、唐臼山(からうすやま)古墳である。

現地案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

近江 滋賀郡 小野社封戸が記されています

【抜粋意訳】

宝亀三年(七七二)四月己卯廿九

○己卯

震西大寺西塔 卜之 近江 滋賀郡 小野社  搆塔為祟  戸二

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

承和元年(八三四)二月辛丑二十

○辛丑

越後國飢て 給之

小野氏神社 近江 滋賀 氏五位已上 春秋之祭に 不待官符を 往還ぬるふを

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

【抜粋意訳】

承和三年(八三六)五月庚子

○五月己亥朔庚子

无位 小野 從五位下を 遣唐副使 小野朝臣篁
山城國人 遣唐史生 大宅臣(をほやけのをみ)福主改臣朝臣

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

【抜粋意訳】

承和四年(八三七)二月癸卯

○癸卯

從五位上藤原朝臣貞雄左兵衞佐

是日 大春日(をほかすか)布瑠(ふる)粟田(あはた)三氏 五位已上
小野氏に 春秋二祠 不待官符を へを近江 滋賀氏神

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

卷六 貞觀四年(八六二)十二月廿二日丙辰

○廿二日丙辰

因幡 正五位上 宇倍
近江 正五位上 小野に 從四位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座

園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・〈中略〉

小野神社二座 日吉神社一座〈比叡神同、〉 佐久奈度神社一座 建部神社一座 川田神社二座 御上神社一座 奥津嶋神社一座 伊香神社一座 水尾神社二座〈或水作三已上近江国〉

・・〈中略〉

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)滋賀郡 8座(大3座・小5座)

[名神大 大 小] 式内名神大

[旧 神社 名称 ] 小野神社 二座 名神大
[ふ り が な ]のの かみのやしろ ふたくら
[Old Shrine name]Wono no kaminoyashiro futakura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

天皇神社(大津市和邇中)の鎮座地゛和邇゛について

和邇氏と小野氏は 古代の豪族で 同じ一族であるとされています

和邇の起源

 往昔 孝昭天皇 (第5代天皇・紀元前475〜393)の皇子 天足彦國押人命より出で、近江國造和珥臣の遠祖 彦姥津命及び彦國葦命等の本居地たる大和國添上郡大岡郷和邇よりこの地に遷り、近江の國政を司り和通家の本領とす。子孫連綿、因って地名を和適と称す (開化、崇神天皇の時代BC158〜29)當時國内に居住する尊貴の名族は総て和邇家に属せしという
 また湖岸を和邇津という、東國、北國との運漕の衝地なり。(三韓往伐の時代最も盛んにして琵琶湖に船舶を造る茜矢とす。)

 其後 和邇家より小野氏出で、南部に居住す。因って地名を小野と称す(敏達天皇の時代572〜585)

 ※ 郷土史「和邇村の沿革」より

神社配布パンフより抜粋

和爾(Wani)の名を冠する 各地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の関連神社について

大和國 添上郡 和尓坐赤坂比古神社 大(ワニニマス アカサカヒコ ノ カミノヤシロ)

①和爾坐赤阪比古神社

大和国 添上郡 和尓下神社二座(ワニノ シモノ カミノヤシロ フタクラ)の論社

①和爾下神社(天理市櫟本町)

➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

③和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

若狭國 三方郡 和爾部神社(ワニベノ カミノヤシロ)の論社

①日吉神社 (美浜町佐柿)

尾張國 山田郡 和尓良神社(ワニラノ カミノヤシロ)の論社

①和爾良神社 春日井市上条町

➁朝宮神社 春日井市朝宮町

➂両社宮神社 春日井市宮町

④和爾良神社 名古屋市名東区猪子石原

➄藤森神明社 名古屋市名東区本郷

⑥天神社 春日井市牛山町

➆景行天皇社 長久手市西浦

讃岐國 三木郡 和尓賀波神社(ワニカワノ カミノヤシロ)の論社

①引宮神社 木田郡三木町井上

➁鰐河八幡宮 木田郡三木町町下高岡

➂白山神社 木田郡三木町下高岡

④和爾賀波神社 木田郡三木町井戸

゛小野ノ神゛゛の名を冠する 各地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の関連神社について

延喜式内社 山城國 愛宕郡 小野神社二座(鍬靫)(をのの かみのやしろ ふたくら)

・小野神社(京都市左京区上高野西明寺山)〈崇道神社 境内社〉

・御蔭神社(京都市左京区上高野東山)

・由岐神社(京都市左京区鞍馬本町)

延喜式内社 相模國 愛甲郡 小野神社(をのの かみのやしろ)

・小野神社〈閑香明神社〉(厚木市小野)

・秋葉社〈小野神社古社地〉(厚木市小野)

延喜式内社 武蔵國 多磨郡 小野神社(をの かみのやしろ)

・小野神社(府中市)

・小野神社(多摩市)

延喜式内社 近江國 滋賀郡 小野神社二座(名神大)(をのの かみのやしろ ふたくら)の論社

・天皇神社(大津市和邇中)

・小野神社(大津市小野)

・小野道風神社(大津市小野)

延喜式内社 近江國 高嶋郡 小野神社(をのの かみのやしろ)

・小野神社〈海津天神社の境内〉(高島市マキノ町海津)

・市杵島神社(高島市朽木大野)

〈境内の三つの式内社・小野神社・大野神社・大川神社〉

延喜式内社 但馬國 出石郡 小野神社(をの かみのやしろ)

・小野神社(豊岡市出石町口小野字砂入)

延喜式内社 石見國 美濃郡 小野天大神之多初阿豆委居命神社(貞)(をのの あめおほみみわのたそあつわけのみことの かみのやしろ)

・小野神社(益田市戸田町)

延喜式内社 土佐國 長岡郡 小野神社(をのの かみのやしろ)

・小野神社(南国市岡豊町小蓮)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR湖西線 小野駅から線路に沿って北へ約2.0km 和邇川の手前で車5分程度

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小野山 上品寺の脇を西へ(左折)すると 正面に鳥居が見えてきます

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社頭には 定書き があります
魚を捕ることは 禁じられていますが 現在は池などもなく おそらく鰐川辺りも境内地であったのであろうと想われます

小野神社(大津市小野)に参着

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参道を進むと正面に石段があって その先に 立派な本殿が見えています
この社殿は 重要文化財建造物〈境内社〉小野篁神社の本殿です

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小野篁神社の本殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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本社である゛小野神社゛は 〈境内社〉小野篁神社の向かって左奥に鎮座しています

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小野神社にも 境内の左側に参道の石段が設けられていました

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鳥居がありますので 小野神社の参道からお参りをします

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一礼をして 鳥居をくぐると 〈境内社〉小野篁神社と本社である゛小野神社゛が見えますが どう見ても 〈境内社〉小野篁神社の方が大きくて立派です

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小野神社には 透塀と神門が設けられていて 神門が拝所となっています
その前には 狛犬ではなく 狛犬のように餅饅頭の石像があります

これは 御祭神である 天足彦国押人命孝昭天皇の第一皇子近江国造の祖
その七世の孫である米餅搗大使主命は 応神天皇の時代にはじめて餅を作ったことから 日本餅造の始祖とされてることに由来して 日本万国博覧会 1970年開催の記念として奉納されたようです

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 小野神社二座 名神大について 所在は゛和邇庄小野村に在す、゛〈現 天皇神社小野神社〉と記しています

【抜粋意訳】

小野神社二座 名神大

小野は哀能と訓べし

○祭神 小野氏祖、(其 詳ならず)

〇和邇庄小野村に在す、(考証に、二社相並と云り、)

○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、(中略)近江國小野神社二座、

 類聚國史、弘仁月丁未、從四位下左中  摂津守小野朝臣野主等言、女之興、國史詳矣、其後不絶、今猶見在、又女養田、近江國和邇村、山城小野郷、今 小野臣和邇部臣等、既非其氏、被貢に猿女、熟捜事緒、二氏之中、貧人之利田、不顧に耻〈辱、拙吏相容無加督察也、云々、』
類聚三代格、女之養田、在近江國和邇村、山城國小野郷、云々、」
姓氏録、(左京皇別下)小野朝臣、大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也、大徳小野臣妹子、家于近江國滋賀郡小野村、因以爲氏、」
又云、大春日布留栗田、又云、和邇部臣、和邇部朝臣、」
古事記、(孝段)天押帯日子命者、小野臣之祖也、』
日本後紀、承和元年月辛丑、小野氏神社在近江国滋賀郡、敕、聴彼氏五位以上、毎至春秋之祭、不待官符、永以往還、同月癸卯、敕、聴大春日、布瑠、栗田三氏五位以上准小野氏、春秋二祠時不待官符、向在近江國滋賀郡氏神社

類社 (欠く)

神位
 續日本後紀、承和月庚子、授无位小野神從五位下、依遣唐副使小野朝臣篁申也」
 三代實録、貞観十二二十二日丙辰、近江國正五位上小野神、授從四位下、
封戸
 續日本紀、宝龜三月己卯、震西大寺西塔、ト之、採近江國滋賀郡小野社木、構塔爲崇、充に當郡戸二姻、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 小野神社二座 名神大について 所在は゛ 和周庄小野村にあり、゛〈現 天皇神社小野神社〉と記しています

【抜粋意訳】

小野(ヲヌノ)神社 二座

 和周庄小野村にあり、〔神名帳考証、近江興地志畧、〕
蓋天帶為 國押人命を祭る、〔斟酌古事記、新撰姓氏録、〕 小野臣の氏神也
〔續日本後紀〕光仁天皇 實龜三年四月已卯、小野社 木を探て西大寺の塔を造るに、神崇めるを以て、本郡の戸二畑を充奉りき、〔續日本紀、新抄格勅符、〇按 新抄格勅符、二年に作る者誤也、〕
仁明天皇 承和元年二月辛丑、勅して小野氏五位以上の人、春秋の祭毎に官符を待す近江國滋賀郡小野氏神社に往還ふ事と聴し給ひ、三年五月庚子、無位小野神に従五位下を授く、

遣唐副使 小野朝臣篁か請申すに依てなり四年二月癸卯、勅して大春日布粟田三氏五位以上 小野氏に准て、春秋二祀官符を待すして近江氏神社に向ふ事を、〔續日本後紀〕
清和天皇 貞觀四年十二月丙辰、正五位上小野神に従四位下を授く、〔三代実録〇按 小野神正五位上に叙されしは、盖し仁壽元年増階の時にあり、姑附て考に備ふ〕
醍醐天皇 延喜の制、二座並名神大社に列る、〔延喜式〕
 八月十五日祭を行ふ、〔滋賀縣注進状〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 小野神社二座 名神大について 所在は゛小野村(滋賀和邇村大字小野)゛〈現 小野神社〉と記しています

【抜粋意訳】

小野(ヲヌノ)神社 名神大

祭神 天足彦國押人命(アマタラシヒコ クニオシヒトノミコト)
   米餅搗大使主ノ命(タガネツキオホオミノミコト)

 古事記 天押日子命者 小野臣之祖也とみえ 新撰姓氏録 朝臣大春日朝臣同祖 彦姥津命世孫 米餅大使主命之後也 大徳小野臣妹子家于近江小野村因以爲氏とあるにて 近江に小野氏ありしこと知るべく また日本後紀 承和之年二月 小野氏神社 在近江國滋賀敕聴彼氏五位以上 每至春秋之祭不待官永住遷とるに小野氏の祖神を祭るを明らむべし

神位
 仁明天皇 承和三年五月庚子 に無 小野 從五位下
 清和天皇 貞觀元年十二月丙辰 近江國正五位上 小野神 に従四位下

祭日 八月十五日

社格 村社(郷社)(明細帳に村とあり)

所在 小野村(滋賀和邇村大字小野)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

小野神社(大津市小野)について 式内社  小野神社 二座 名神大であり
明治年郷社に列したことが記されています

【抜粋意訳】

〇滋賀縣 近江國 滋賀郡和邊村大字小野

郷社 小野(ヲヌノ)神社

祭神 天足彦國押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)
   米餅搗大使臣命(タカキツキオホオミノミコト)

 按ずるに 祭神 天足彦押人命は孝昭天皇の皇子に座まし、米餅搗大使臣命は彦國押人命の御子(又御孫とも云ふ)彦姥津(ヒコオケツノ)命五世に坐まして、共に小野氏の氏神なり(姓氏録、古事記、本社創建年代は詳ならずと雖も、推古天皇の朝遣隋大使となりて世にその名高き大徳小野妹子は、即ち此の小野村に住し、因つて以て氏とせる由 姓氏録に見えたるを思ふに、同族の人の其の祖神を祀りたるものなること明らかなり、
一説に本社祭神を伊弉諾尊伊弉冉の二神となすものあれど(近江與地志略)信じがたし、
光仁天皇の宝亀月己卯 西大寺の塔大に震ふ、之をトするに、小野神社の神木を採つて其塔を造るが故なりといふ、因つて郡の二戸を神領に充て、神意を慰め奉り(日本紀)

仁明天皇 承和元年月辛丑勅して、 春秋の祭祀には、小野氏の人 五位以上のものは官符を持たずして社に往還するを許され、同月庚子、初めて社の神に從五位下を授け給ふ、之れ遣唐使小野朝臣の奏請に依つてなりと、同月癸卯勅して、大春日 粟田二氏の五位以上の者に、当社春秋の祭には、官符を待たずして当社に往来する事小野氏の如くなるを許さる、大春日粟田両氏も小野氏と同祖なればなり(続日本後紀新撰姓氏録)、

尋いで清和天皇 貞観十二二十二日、正五位上小野神に從四位下を授け給へる由 三代実録に見えたり、蓋し其の以前に從五位より正五位に進ませ給ひしなり、
醍醐天皇 延喜の制二座に名神大社に頂りたり(延喜式)
明治年郷社に列す。
境内千百九十三坪(官有地第一種)、社殿は本鍛、拝殿等の建物を具へ、地は琵琶湖を距る事遠からず、当村の西部丘陵の上に在りて、登臨の美甚だ賞すべきものあり。

境内神社
 小野篁神社 松尾神社 八幡神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

小野神社(大津市小野) (hai)」(90度のお辞儀)

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