冰上神社(陸前高田市)〈『文徳實録』登奈孝志神・衣太手神・理訓許段神〉

冰上神社(ひかみじんじゃ)は 元々冰上の麓に延喜式』所載の仙郡三座理訓許段神社りくこたの かみのやしろ登奈孝志神社となこしの かみのやしろ衣太手神社きぬたての かみのやしろ〉があり 中世 修験道の山岳信仰により 冰上の山頂に三宮を集め氷上三社と総称され 当社はその里宮にあたります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

冰上神社(Hikami shrine

通称名(Common name)

お氷の上様(おひのかみさま)

【鎮座地 (Location) 

岩手県陸前高田市高田町西和野83

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

〈現在の祭神〉

《主》天照大神(あまてらすおほかみ)〈衣太手神社
   素盞嗚命(すさのをのみこと)〈理訓許段神社
   稲田姫命(いなだひめのみこと)〈登奈孝志神社

〈本来の祭神とされる〉

《主》衣太手神(きぬたてのかみ)〈東御殿〉
   登奈孝志神となこしのかみ)〈中御殿〉
   理訓許段神りくこたのかみ)〈西御殿〉

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 
国史見在社

【創  (Beginning of history)】

『岩手県志』に記される内容

【抜粋意訳】

五六 氷上神社

 氷上神社は高田町に在る郷社にして。氷上三社と稱す本社は。氷上山上に在り。延喜式に載する所。
文德實錄云、仁壽二年、登奈考志神加正五位下、理訓許段 衣太手 二神授從五位下、と是なり。

【原文参照】

『岩手県志』,岩手県教育会,明41.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763241

【由  (History)】

由緒

延喜式内三社 国史所載社 気仙総鎮守 勅宣正一位 氷上三社

 いつの祭祀か詳かではないが、上古よりの祭祀と伝えられている。
気仙に官が設置以前より三峰に三社鎮座せられ、往古より郷民氷上山を信仰の聖地とし、三峰を霊峰と称えて尊崇した。
衣太手神社(東御殿)、登奈孝志神社(中御殿)、理訓許段神社(西御殿)三宮を総称し氷上三社と称す。
古記によると、氷上山はお山と称し山名を称さなかった。気仙郡に官を置くに当たり、始めて気仙山と名づけ、後に日の上山と改めた。暁光七彩の雲間より旭昇天を拝しての尊称と思われる。

 又、往古より山頂野火多く発生したが、三社付近で自然に消滅した。かくて火伏の神徳垂れしものとして、日の神・火の神の音相通ずる『火の上』と改めたとも言われている。

以後の主な由緒を次に列挙する。

後光明帝正保元年(1065)村上織部道慶 氷上三社別当神主熊谷修理に託し、又 三社に誓約して辞世の和歌を詠じ、泰然として自ら頸を刎ね、首体の流るること其の言の如く、両邑漁民唖然として和解す。義民道慶と称え、川の神として祭る。
辞世の歌
  誠あれやこの身すてて 行水の瀬は渕となる 末の世までも
  濁りなき名に負ふ水のあわれ知れ 世の仇波に浮き沈む身を

中御門帝亨保8年(1723)春、陸奥守伊達吉村卿 領内巡視の折り、雨降り雨続き夜となり進退極まった。高田・今泉郷民集まり氷上山の社に願を掛け、如意山金剛寺に安泰を祈念した。不思議忽ち雨止み、卿御神徳の深さに感じ、和歌二首を詠じ、当社に奉納す。
あま雲の空にぞ晴るる名にたかき 日のかみ山の恵しられて
  夜の程の雨さへ晴れて祈りしに 民の心やすゑとをりけん

文化12年(1815)12月10日神階位最高勅宣正一位気仙総鎮守氷上神社大明神を授けられる。

明治5年郷社に列せられ、気仙総鎮守として、郡門一円を崇敬者と定められた。

岩手県神社庁HPより

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

冰上神社 社殿

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・〈拝殿の左右に祀られる境内社〉足名椎神社・手名椎神社

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・〈冰上神社御仮宮〉冰上本地堂

かつて冰上山頂に祀られていた冰上三社の鞘堂です 堂内には 右から東の御殿・中の御殿・西の御殿が奉安されています

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気仙三十三観音 三十一番札所

冰上本地堂(ひかみほんちどう)

 本地とは 冰上山頂に置かれた神仏混淆の霊験あらたかな聖地を指す。明治に入り、神仏混淆禁止令が発せられると、神は神、仏は仏と、神社と寺院は完全に分離した。

『気仙風土草』によると、観音(如意輪観音)は 冰上三社権現「東の御殿」「中の御殿」「西の御殿」の中の「中の御殿」ということになっている。

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・〈神池の中 境内社〉戸隠神社

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・〈石神〉古峰山・富士浅間神社・山神

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・古い手水鉢

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・石川啄木の歌碑

 石川啄木は 盛岡中学3年の時(明治33年7月富田小一郎先生 級友9人と三陸地方を旅行した際 陸前高田高田松原訪れ氷上山登っています 後に高田松原に啄木歌碑が建立昭和32年されましたが チリ地震津波昭和35年5月により流され 後日 歌碑は見つかり 元の高田松原には戻さずに 氷上神社の境内に移転されたものです

 命なき砂のかなしさよ
 さらさらと
 にぎればゆびの間よりおつ
 啄木

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・車の祓所

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・二の鳥居

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・社頭・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

氷上山(875m)の山頂に三つの式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

文徳實録に 〈①理訓許段神登奈孝志神衣太手神〉に神位の奉授が記され 理訓許段 衣太手神は 並に從五位下を授け 登奈孝志神に正五位下を授く と記されます

【抜粋意訳】

卷四 仁寿二年(八五二)八月辛丑

○辛未〈又は 
陸奧國

 伊豆佐 登奈孝志神 志賀理和氣神 正五位下
 衣多手神 石神 理訓許段神 配志和神 舞草神 從五位下

從五位下 御長眞人 近人爲越前守

【原文参照】

藤原基経 編『日本文徳天皇実録 10巻』[4],元章,寛政8 [1796]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2565444

藤原基経 編『日本文徳天皇実録 10巻』[4],元章,寛政8 [1796]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2565444

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

冰上神社(陸前高田市高田町西和野)は 三つの式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉の論社となっています

古来は 氷上山(875m)の山麓に3社が別々に鎮座していましたが 中世に修験道の山岳信仰によって 氷上山(875m)の山頂に三つの式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉が集められたと伝わり 冰上神社は その里宮とされます

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥國 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 理訓許段神社(貞)

[ふ り が な ]りくこたの かみのやしろ
[Old Shrine name]Rikukota no kaminoyashiro

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥國 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 登奈孝志神社(貞)

[ふ り が な ]となこしの かみのやしろ
[Old Shrine name]Tonakoshi no kaminoyashiro

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥國 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 衣太手神社(貞)

[ふ り が な ]きぬたての かみのやしろ
[Old Shrine name]Kinutate no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 陸奥國 氣仙郡(けせんの こおり) 3座(小)について

延喜式内社 陸奥國 氣仙郡 理訓許段神社(貞)(りくこたの かみのやしろ)

・冰上神社(陸前高田市高田町西和野)

・尾崎神社 本殿(大船渡市赤崎町鳥沢)

・尾崎神社 遥拝殿(大船渡市赤崎町鳥沢)

延喜式内社 陸奥國 氣仙郡 登奈孝志神社(貞)(となこしの かみのやしろ)

・冰上神社(陸前高田市高田町西和野)

延喜式内社 陸奥國 氣仙郡 衣太手神社(貞)(きぬたての かみのやしろ)

・冰上神社(陸前高田市高田町西和野)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

陸前高田を訪問したのは 2018/5/1 震災から7年を経過していました まだ 奇跡の一本松があったころです

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陸前高田の中心部であった
JRの大船渡線BRT 陸前高田駅から北方向へ約2.7km 車で5分程度

氷上山の麓に向います

ところで 延喜式内社 陸奥國 氣仙郡(けせんの こおり) 3座〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉の論社は ここ陸前高田の冰上神社大船渡尾崎神社となっています

どちらも北緯は ほぼ同じです

延喜式内社の太平洋沿岸の最北に位置していて その当時 ここより北は 大和朝廷の勢力外で蝦夷の土地であったのであろうことが 推測できます

式内社3座〈①理訓許段神社②登奈孝志神社③衣太手神社〉は 本来は 土地神 地主神であったとされ

日本の歴史学者 地理学者(歴史地理学)吉田 東伍(よしだ とうご)元治元年4月14日〈1864年5月19日〉 大正7年〈1918年〉1月22日〉氏は 以上の三神〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉は 皆これ蝦夷語(アイヌ語)ならむと曰へり アイヌの神との説を唱えています 
理訓許段神社は゛森の中に鎭まる神゛
登奈孝志神社は゛沼を越え遥か彼方に鎭る神゛
衣太手神社は゛丘に鎭まる村の神゛

又 寛延七年(1750)には 山の神が 仏を排除したと云う「氷上山大騒擾(そうじょう)」という出来事が伝わっています

ある僧が銅仏三体 木造仏三体を冰上山頂に奉納しようと人夫を雇って登山すると 大雨が篠を突くように降り 地震もおきて山が鳴動したので 人夫は恐れおののき 仏像を置いて逃げてしまった
寄合い話しによって この山には一度も仏像をもって上がった事は無く 神が怒られたのであろうとなり 仏像を冰上山に上げる事は゛なし゛と決まった

この時 氷上山は大荒れ 立ち木も倒れたが 仏像を取り下げると 風雨収まり 快晴となり 不思議な事に 嵐は氷上山だけで 他は晴れていたと伝わります

冰上神社(陸前高田市高田町西和野)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 参道を進むとすぐに二の鳥居があります

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二の鳥居をくぐると 参道の四方に注連縄が廻されて 結界のようになっている箇所があり ここから先へ進んで良いものやら どうしょうかと悩んでいると 里のおばあさんが一礼をして歩んでいきました 自動車の御祓い所であると案内板が置かれていて 私も一安心して 但し一礼をしてから進みました
正面の建物が 社務所のようです

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参道は社務所の手前で左に折れていて ここから 社殿 境内 参道は冰上山(ひかみやま)を背にして 南を向いています

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石畳の参道の右手〈神池の中の境内社〉戸隠神社が祀られ 左手には〈冰上神社御仮宮〉冰上本地堂があります

この冰上本地堂は かつて冰上山頂に祀られていた冰上三社の鞘堂です 堂内には 右から東の御殿・中の御殿・西の御殿が奉安されています

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拝殿にすすみます

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地元のおばあちゃんの後に続いて

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の両脇には 稲田姫命(いなだひめのみこと)〈登奈孝志神社〉の親神にあたる足名椎神社・手名椎神社が祀られています
拝殿の奥は 一段高い壇に社地があり 本殿が祀られています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉について 何れも゛祭神 在所等詳ならず゛と記しています

その上で 三社について諸説を挙げています
理訓許段神社は 所在について゛前崎村蛸浦に在す、今 尾崎大明神と稱す゛〈現 尾崎神社(大船渡市赤崎町鳥沢)
登奈孝志神社は 所在について竹駒村に在す、゛〈現 竹駒神社(陸前高田市竹駒町)〉
衣太手神社は 所在について゛此方新城村に在す゛

式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉は 所在について゛氷上山に在す、三神相殿 三社大明神と稱す゛〈現 冰上神社(陸前高田市高田町西和野)〉と記し いずれとも決められない と記しています

【抜粋意訳】

理訓許段神社

理訓許段は 假字也

〇祭神 在所等詳ならず

神位
 文徳實錄、仁壽二年八月辛未、陸奥國 理計段神、授に從五位下、

登奈孝志神社

登奈孝志は 假字也

〇祭神 在所等詳ならず

類社
 越前國 坂井郡 都那高志神社

神位
 文徳實錄、仁壽二年八月辛未、陸奥國 登奈孝志神、加に正五位下、

衣太手神社

衣太手は 假字也

〇祭神 在所等詳ならず

神位
 文徳實錄、仁壽二年八月辛未、陸奥國 衣太、授に從五位下、

前件三社、参拜錄云、
理訓許段社は前崎村蛸浦に在す、〔参考同〕今 尾崎大明神と稱す、
登奈孝志社は竹駒村に在す、〔参考云、前崎村 稲荷平丹波屋敷〕
衣太手社は此方新城村に在す、〔参考同〕今 毘沙門天と稱す、今 本吉郡気仙沼、

〇一説云、氷上山に在す、三神相殿 三社大明神と稱す、孰れか定めがたし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉について 所在について゛ 〈三社〉並に高田村 氷上山に在り、合せて氷上三社権現と云ふ、即 気仙郡 總鎮守也、゛〈現 冰上神社(陸前高田市高田町西和野)〉と記しています

【抜粋意訳】

理訓許段(リタコダノ)神社
登奈孝志(トナコシノ)神社
衣太手神(キヌタテノ)

 今 〈三社〉並に高田村 氷上山に在り、合せて氷上三社権現と云ふ、即 気仙郡 總鎮守也、
理訓許段社は西に在り、依て西御殿と云ひ、
衣太手社は東に在り、東御殿と云ひ、
登奈孝志社は山の中谷に在るを以て、中御殿と云ふ、

〔奥羽観迹聞老志、封内風土記、〇按 本書 郷人の説を載て曰、今 三社権現の北五十町の一山に、三小祠あり、蓋 理訓許段社の舊址也、其 西北七町 神山の小祠を孝志社い云ふ、登奈孝志の舊址也、又 其 西北十七町を距て一山あり、衣太手森と云、衣太手社の舊址也、 されど神社 甚(いた)く荒廃たるを以て、今地に遷して合祭りし也と云り、姑附て考に備ふ〕

文徳天皇 仁壽二年八月辛丑、理訓許段 衣太手神、並に從五位下を授け、登奈孝志神に正五位下を加ふ、〔文徳実録〕

凡 毎年九月九日、神田の新稲を採て、三社神前に供て之を祭る、〔封内風土記、江刺神社調、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社〈①理訓許段神社登奈孝志神社衣太手神社〉について 三社ともに『文徳実録』に神位の奉授が載る゛国史見在社゛であることを記しています
しかし 中古に社僧によって仏号となり 現在は〈現 冰上神社(陸前高田市高田町西和野)〉と記しています

【抜粋意訳】

理訓許段神社

祭神 稱 西御殿

神位
 文德天皇 仁壽二年八月辛未 陸奧國 理訓許段神 授從五位下

登奈孝志神社

祭神 稱 中御殿

神位
 文德天皇 仁壽二年八月辛未 陸奧國 登奈孝志神 授從五位下

衣太手神社

祭神 稱 東御殿

 今按 この三社 中古以來 社僧にて神勤せし故神名轉じて佛號となりしを寛政五年より佛號を廃し 理訓許段神社を須佐之男神 登奈孝志神社を稻田姫神 衣太手神社を天照大御神として祭たれど 實は神名不詳也
氣仙聞老志に 高田村の長砂と申所に 往古 醫王山安養寺と云あり 此地は理訓許段神社の跡なり 又 同村 神山に高田山光寂寺と云あり 其地は往古の登奈孝志神社 又 同村衣楯の杜と云處に 鳳凰山某寺と云しは衣太手神社の跡なり
理訓許段神社は藥帥に 登余孝志神社は観世音に 衣太手神社は阿彌陀と云ひ 別當寺を醫王山など云るを思ふに 理訓許段神社は必ず少彦名神を祭れるなるべし 又 衣楯の森に今 山祇の神社と云小祠あり これによらば衣楯神社は大山祇神ならんか 登奈孝志神社の祭神は考ふべきよしなし 姑附て後考をまつ

神位
 文德天皇 仁壽二年八月辛未 陸奧國 衣多手神 授從五夜下

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

冰上神社(陸前高田市高田町西和野)ついて 延喜式内社゛理訓許段神(リクコダ)神社、登奈孝志神(トナコシ)神社、衣太手神(キヌタテノ)神社、今並に高田村氷上山に在り、合せて氷上三社椎現と云ふ゛と記しています

【抜粋意訳】

〇巖手縣 陸前國 氣仙郡高田町

郷社 氷上(ヒノカミ)神社

祭神
 天照大御神(アマテラスオホミカミ)
 稲田姫神(イナダヒメノカミ)
 建速須佐男神神(タケハヤスサノヲノカミ)

 本社の建立詳ならざれども、神社志料に日く、理訓許段神(リクコダ)神社、登奈孝志神(トナコシ)神社、衣太手神(キヌタテノ)神社、今並に高田村氷上山に在り、合せて氷上三社椎現と云ふ、卽 氣仙郡總鎖守也、理訓許段社は西に在り、依て西御殿といひ、衣太手社は東に在り、束御殿と云ひ、登奈孝志社は山の中谷に在るを以て、中御殿と云ふ、

〔奥羽観迹聞老志、封内風土記、〇按 本書 郷人の説を載て曰、今 三社権現の北五十町の一山に、三小祠あり、蓋 理訓許段社の舊址也、其 西北七町 神山の小祠を孝志社い云ふ、登奈孝志の舊址也、又 其 西北十七町を距て一山あり、衣太手森と云、衣太手社の舊址也、 されど神社 甚(いた)く荒廃たるを以て、今地に遷して合祭りし也と云り、姑附て考に備ふ〕

文徳天皇 仁壽二年八月辛丑、理訓許段 衣太手神、並に從五位下を授け、登奈孝志神に正五位下を加ふ、云々とあるは蓋し當社なり、

吉田東伍氏は 以上の三神 皆之れ蝦夷語ならむと曰へり、封内記によれば
「延喜式所載、氣仙郡 理訓許段神社、登奈考志神社、衣太手神社、今在に高田邑、相傳 三神社、斯地而行に神事、祭禮、因茲具考、地則與に今所に祭、異、郷人嘗曰、 

理訓許段神乃距に今 三社山 北五十餘町當に辰巳方、登奈孝志神社乃距に理訓許段神社 東七八町、當 西方、維衣太手神社、乃距に登奈考志神社 十六七町、當是古之社地也」。

退閑雑記に云く、「鹽竈の明神の社家に、藤塚式部といふものは、和漢の書などもよくみわたして、風流を好む人なり、云々、氷上三社明神の額かいてよと望みしかば、書いてやり侍りぬ、殊に喜びてかくなんきこえける、
 木に入しものの中にもつくろはで直きを神もみづぐきのあと

この氷上といふは、延喜式などにもある古き社なりしが、今は絶えはてぬるほどに成けるを、こたび造營して、其事なとをつらねて碑をたてたり云々、」
などあり、

社記には後小松天皇の應永二年 熊谷上總介丹治興信 之を再建し、後數世にして元興と云ふもの、光格天皇の天明元年 私有地を寄せ、山麓に搖拜所を立てられしと云ふ、郡民今に之を假宮と稱す、明治五年四月郷社に列す、本社は七百米の高地に位し、其 西南大杉の下に池あり、是れ古の修禊川なり、境内十三坪餘(官有地第一種)を有し、社殿は本殿一宇なり。

境内神社
 雷神社 風宮神社 稲荷神社 八千矛神社
 清ノ神社 森ノ神社 道祖伸社 御禊神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

冰上神社(陸前高田市高田町西和野) (hai)」(90度のお辞儀)

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陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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