
実践和學 Cultural Japan heritage
王子宮(おうじぐう)は 創建年代など不祥ですが 安政三年(一八五六) 權現社を改築する際 社殿の横梁に「奉造立 坂本權現 慶長十三歲(一六〇八)孟夏吉日大工小助」の墨書銘が発見されたことから 延喜式内社 土佐國 安藝郡 坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の論社とされています
宇佐八幡宮(安芸郡芸西村和食)&〈境内社〉坂本神社〈『延喜式』坂本神社〉
宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)は 建久年間(1190~99)宇佐八幡宮を勧請したと云う もともとは「正八幡宮(せいはちまんぐう)」と呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に宇佐八幡宮と改名されました 〈境内社〉坂本神社は 延喜式内社 土佐國 安藝郡 坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の論社です
多氣神社・坂本神社(安芸郡奈半利町)〈『延喜式』多氣神社・坂本神社〉
多氣神社・坂本神社(たけじんじゃ さかもとじんじゃ)は 二つの延喜式内社 土佐國 安藝郡 多氣神社(たけの かみのやしろ)・坂本神社(さかもとの かみのやしろ)の合殿です 合祀の経緯については「昔時 坂本神社は多氣神社の東南數町の地に鎮座ありしを 何時の頃にか多氣神社の合殿となれり」と伝わっています
八木ヶ鼻(やぎがはな)は 約600万年前の海底火山活動で形成された海底溶岩ドームの中心部が 約200万年前以降に陸化 その後の浸食・解析の結果 中心部が露出し絶壁が形作られたものと考えられています 古くから神靈地とされ 八木神社も元來はこの山頂に鎭座していたと云い 八木神社の旧鎮座地とされています
八木神社(やぎじんじゃ)は 大同二年(807)八木大明神〈倉稲魂命〉と守門大明神〈盤間戸命〉の二神を八木ケ鼻に勧請 近郷の守護神として祀ったのが創立と伝え その後 現在地に遷宮したと云う 江戸時代に五十嵐神社とも稱されたと謂われ 延喜式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしの かみのやしろ)の論社となつています
五十嵐館跡(三条市飯田)〈五十嵐神社 旧鎮座地〉〈『延喜式』伊加良志神社〉
五十嵐館跡(いからしやかたあと)は 古代から五十嵐川の辺に住居した五十嵐氏の遺蹟です 五十嵐神社は 中世には「五十嵐小文治の館跡」の鬼門の位置(現在地の南200m)に鎮座〈旧鎮座地〉と云い 江戸時代初期に館が排され丘陵地〈五十嵐要害跡〉に遷座 明治3年(1870)要害本丸の場所に社殿を建立し遷座〈現在地〉しました
五十嵐神社(いがらしじんじゃ)は 口碑に「垂仁天皇の第8皇子 五十日帶日子命は 景行帝の御時 越後に來り 普く國内を巡り 民に開墾漁獵の業を教へたまへて 此地に薨去し給ふ 其陵に神祠を建てて 五十嵐明神と崇め奉れり」と云う 延喜式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしのかみのやしろ)です
須義神社(豊岡市出石町荒木字竹ヶ原)(『三代實録』菅神『延喜式』湏義神社)
須義神社(すぎじんじゃ)は 社伝によると「応神天皇四十年の創祀」と云う 一説には 神功皇后が熊襲征討のため出石神社に戦勝祈願をした時の創祀とも云われる 『三代實録』貞観10年(868)従5位下に叙せらた「菅神」は当社の事とされる 延喜式内社 但馬国 出石郡 湏義神社(すきの かみのやしろ)です
須岐神社(すきじんじゃ)は 元正天皇 霊亀2年(716)浅野川河口付近で右岸側の地に創建と伝わり 後に聖武天皇 天平元年(729)赤澤八幡神社が須岐神社の境内地に創建されたと云う 度重なる水害によって遷座 現在の鎮座地は明治になり遥拝殿を拝殿としたとの事 延喜式内社 加賀国 加賀郡 須岐神社(すきの かみのやしろ)です
鶴ヶ峰八幡神社(つるがみねはちまんじんじゃ)は 寛文3年(1663)古縁起等を焼失し創祀年代等は不祥 一説には推古天皇6年(598)一宮波神 賀茂三社を本社に合祀と云う 又 別当正善院清範は この賀茂明神社を延喜式内社 陸奥國 黒川郡 須伎神社(すきの かみのやしろ)と伝えます 又 賀茂明神社は境内社との説もあります
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