除川神社(よけがわじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「除川社(よけがは)のやしろ」の論社とされます 與都彦命神社(よとひこのみことじんじゃ)は 『日本文徳天皇実録879 AD.』の仁壽(にんじゅ)元年(851)九月の条に神階の奉授が記されている古社です
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記733 AD.』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳927 AD.』
➂最後に『出雲國風土記733 AD.』と『延喜式神名帳927 AD.』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 大原郡(ohara no kori)
不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)
【社名】除川社
【読み】(よけがは)のやしろ
【How to read】(yokegaha no) yashiro
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
官社ではない為 該当しません
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
除川神社(Yokegawa shrine)
與都彦命神社(Yotohiko no mikoto shrine)
【通称名】(Common name)
除川 與都彦命両神社
【鎮座地】(location)
島根県雲南市大東町小河内167
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
〈除川神社〉
《主》大山祇命(おおやまつみのみこと)〈山神社〉
《配》神素盞嗚命(かんすさのをのみこと)〈天王社〉
〈與都彦命神社〉
《主》與都彦命(よとひこのみこと)
【御神格】(God’s great power)
・五穀豊穣・森林殖産・諸願成就
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載社
【創建】(Beginning of history)
創建年代不詳
【由緒】(history)
由緒
出雲風土記所載の除川社といわれ、境内には淀彦命が祀られている。
古くは、小川内村大神(風土記抄)、また小川内村 除川大明神とも称えられている。(慶長十九年九月九日の棟札に奉造立 小川内村 除川大明神 御社一宇(下略)とある)
古くより、此の地の守護神として崇敬されている。
島根県神社庁HPより
【境内社】(Other deities within the precincts)
向かって左側に祀られる
・石の祠 一宇〈祭神不詳〉
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「除川社(よけがは)のやしろ」の論社について
・除川神社& 與都彦命神社
・除川神社
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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
JR木次線 出雲大東駅から 赤川を遡るように 県道24号と53号を西へ 約10.2km 車15分程度
ここは 赤川〈斐伊川の支流〉の源流域 東へ一つ峠を超えると意宇川の源流域となります
つまり鎮座地は 西出雲〈出雲大社〉と東出雲〈熊野大社〉とへ流れる大河の源流域で 古代には 二郡〈意宇郡・大原郡〉の境界地で 交通の要所であったと考えられます
赤川の刻んだ谷間の西側 小高い所に鳥居が建っています
除川神社 & 與都彦命神社(雲南市大東町小河内)に参着
一礼をして鳥居をくぐります 鳥居の扁額には「除川神社」とあり そのすぐ横の社号標には「除川 與都彦命両神社」とあります
2社の合殿なのか 2つの神社が鎮座するのか? どちらだろうとなどと想いながら参道を進むと 綺麗な赤とんぼ
社地は深い森の中で 良く晴れた天気で 陰影があり過ぎて 参道の石段の先は全く見えません
石段を上がって行くと 木漏れ日があり 森の中も十分に明るく清々しい 拝殿のような建屋が2つあるので この2つの社殿が両社なのかと思いながら進みます
どうやら向かって左側の建屋が 2つの社の 共通の拝殿です
拝殿の奥まで石段は続いていて その一段高い社地には 2つの本殿が鎮座しています
向かって左奥「龍王 與都彦命神社」
中央に「除川神社」の2つの社が並んで鎮座し 右横に石祠の境内社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』にある伝承
除川神社&與都彦命神社(雲南市大東町小河内)の前を流れる赤川の源流域は 古代には 二郡〈意宇郡・大原郡〉の境界地で 人の往来も多かったと思われます
【意訳】
海潮川(うしおかわ)〈現 雲南市 赤川〉
源(みなもと)は 意宇(おう)と大原(おおはら)二郡の堺より出ている 矣〈であろう〉 村山の北は 海〈湖〉[年魚(あゆ)少々あり]
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
仁壽(にんじゅ)元年(851)この年の5月に出雲国に地震があったと国司から奏上が記されています それと関連するのかどうか?
御祭神の輿都彦命(よとひこのみこと)が 他の出雲の神々とともに 神階の奉授が記されています
【意訳】
仁壽(にんじゅ)元年(851)九月 乙酉の条
特に擢(ぬきんで)て
出雲國 熊野〈熊野大社〉杵築〈出雲大社〉両大神に並び加え 従三位を
青幡位草壮丁命(あおはたさくさひこのみこと)〈佐久佐神社〉
三澤命(みさわのみこと)〈三澤神社〉
阿遅須伎高彦根命(あちすきたかひこねのみこと)〈三澤神社〉
輿都彦命(よとひこのみこと)〈與都彦命神社〉
速飃別命(はやつむじわけのみこと)〈同[筑陽]社坐 波夜都武自和氣神社〉
天穂日命神(あめのほひのみことのかみ)〈天穂日命神社〉
並びに授(さず)く 従五位下を
【原文参照】
『雲陽志(unyo shi)1835AD.』大原郡 小河内 にある伝承
現在の除川神社(雲南市大東町小河内)について 天王 山神と記しています
『雲陽志(unyo shi)』では
小河内
「天王 素盞嗚尊なり」「山神 天王山神を一社に合まつる 祭禮二月十一日 九月九日なり」 と記しています
【原文参照】
『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承
除川社を二つ あげています 小河内(をかはち)大明神〈現 除川神社(雲南市大東町小河内)〉と遠所(えんじょ)の高木(たかき)大明神〈現 除川神社(雲南市大東町遠所)〉 そして小河内(をかはち)が正しいだろうと 記しています
【意訳】
除川社(よけがは)のやしろ
風土記抄には小河内(をかはち)大明神といひ、風土記考には遠所(えんじょ)の高木(たかき)大明神といつて居るが、これは小河内の方が正しかろう。
除川社は、海潮村 小河内(をがはち)の東北部にあって、熊野村へ越す才ノ峠(さいのたは)の西々南にあたる。
安永二年の棟札の表面には、奉造営龍王社一宇、本願(ほんぐわん)坂根和十、神主 中澤石見守平秀清とあり。その裏面に「當社 御祭神 者 淀本庄(よどほんじょう)に坐す淀彦(よどひこ)命也、古老傳曰 往昔 顕然社柄(けんぜんたるやしろがら)而最盛矣、雖然 中世以降 及び 零落年 久為野社僅祭之而已、今欲謀其再興一祠建立于 小河内大明神 山神社(さんじんじゃの)境内者也、于時安永二年巳三月十五日」とある。
この淀彦命は、文徳實録に、仁壽元年 出雲國 輿都彦命に授従五位下とあるものにあたる。
慶長十九年九月九日の棟札には、奉造立 小河内村 除川大明神 御社一宇、本願坂根孫兵衛、神主別火淡路守秀家等の文字がある。
肥前の輿止日女神社も、筑後の豊比咩一名淀姫神社も、海神豊玉姫命を祀るから、此處の淀彦命も豊玉姫命の祖神と考へられ、海神として社を龍王社とも名つけたものであらう。
【原文参照】
除川神社&與都彦命神社(雲南市大東町小河内)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)