山森神社(やまもりじんじゃ)は 元々は 注進略記に「かつては 浮田森在ニ上賀茂乾(北西)六七町(763m程)、賀茂川西也、祭神三座、號ニ山守社、一年、洪水社流」とあり 神社明細帳(明治16年調)には「現在地から約1.1キロ離れた西賀茂山ノ森に鎮座〈境外末社〉。鎮座地一帯が賀茂別雷神社の社領となり、上賀茂神社の境内に遷座された」とある
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
山森神社(Yamamori shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市北区上賀茂本山339(上賀茂神社境内)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》素戔嗚神(すさのをのかみ)
稲田姫神(いなだひめのみこと)
田心姫神(たごりひめのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・病気を治す神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 賀茂別雷神社の境内末社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代 由緒不祥
注進略記に「かつては 浮田森在ニ上賀茂乾(北西)六七町(763m程)、賀茂川西也、祭神三座、號ニ山守社、一年、洪水社流」とある
【由 緒 (History)】
『鈴木重胤全集』第8 日本書紀伝,鈴木重胤先生学徳顕揚会〈昭和15年(1904)〉に記される内容
【抜粋意訳】
日本書紀傳 二十八之卷 (其二 ) 穗積重胤謹撰
注進略記に、氏神祭、四月初申日、社司五官衣冠以下淨衣、舞人十人、騎馬参ニ向于氏神社、奉幣下向、小森社有ニ舞樂、と所見たり、 (其の氏神社にも属社有りと見えて、氏神社、末社四座、木守社大國主命、
奧深社山森社、素戔嗚尊 稻田媛命 田心姫命、
私部社、と有る小守社は、右の小森社なる可きが、下鴨若宮三所の攝社に、小杜社と有る是なる可し、右に引ける中右記なるは此に當れるか、尋ぬ可き君なり、
奧深社私部社は貴布禰の攝社にも在り、
山森社は、同記に、浮田森在ニ上賀茂乾(北西)六七町(7.309km)、賀茂川西也、祭神三座、號ニ山守社、一年、洪水社流、
・・・・
・・・・
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神 総267社が 神階の奉授がなされ 山城國 鴨山口神 従五位下 と記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品神祇官 无位神産日神。高御産日神。玉積産日神。生産日神。足産日神並從一位。 无位生井神。福井神。綱長井神。波比祇神。阿須波神。櫛石窓神。豐石窓神。生嶋神。足嶋神並從四位上
宮内省 從三位園神。韓神並正三位。大膳職正四位下御食津神從三位。左京職從五位上太祝詞神。久慈眞智神並正五位下。大膳職從五位下火雷神。大炊寮從五位下 大八嶋竈神八前。齋火武主比命神。内膳司從五位下庭火皇神。造酒司從五位下大戸自神等 並從五位上。无位酒殿神從五位下。
山城國
正二位勳二等 松尾神從一位
葛野月讀神。平野 今木神並正二位
正四位下 稻荷神三前並正四位上
正四位下 大若子神。小若子神。酒解神。 酒解子神並正四位上
平野從四位下 久度古開神從四位上
正五位上 貴布禰神。正五位下乙 訓火雷神。從五位上水主神等並從四位下
正五位下 合殿比咩神正五位上
從五位下 樺井月讀神。木嶋天照御魂神。和攴神並正五位下
從五位下 祝園神。天野夫攴賣神。 岡田鴨神。岡田園神。樺井月神。棚倉孫神。許波多神。出雲井於神。片山神。 鴨川合神等並從五位上
正六位上 與度神。石作神。向神。簀原神。鴨山口神。小野神。久我神。高橋神。雙栗神。水度神。伊勢田神。无位小社神並從五位下。・・・
・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
山森神社〈上賀茂神社 境内末社〉は 二つの式内社の論社となっています
①山城國 愛宕郡 賀茂山口神社
②山城國 愛宕郡 鴨岡本/鴨岡太神社
①山城國 愛宕郡 賀茂山口神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 賀茂山口神社
[ふ り が な ](かもやまくちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamo yamakuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
②山城國 愛宕郡 鴨岡本神社/鴨岡太神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 鴨岡本〈鴨岡太〉神社
[ふ り が な ](かもおかもとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kamo okamoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂山口神社(かものやまくちの かみのやしろ)の論社について
式内社 賀茂山口神社は 近世には所在は不明となっていたとされます
・賀茂山口神社〈澤田社〉(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内摂社〉
現在の賀茂山口神社は 明治時代に〈澤田社〉をあてて 奉斎された
・山森神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内末社〉
注進略記に「かつては 浮田森在ニ上賀茂乾(北西)六七町(763m程)、賀茂川西也、祭神三座、號ニ山守社、一年、洪水社流」とあり
延喜式内社 山城國 愛宕郡 鴨岡太〈鴨岡本〉神社(かもをかもとの かみのやしろ)
・山森神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社 境内社〉
・幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)
・厳島神社(京都市左京区静市市原町)
・大神宮(京都市左京区静市市原町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
上賀茂神社 一の鳥居から東へ120m程 徒歩2分程度
ならの小川に面して 鎮座します
山森神社(京都市北区上賀茂山本町)に参着
一の鳥居の東に流れる「ならの小川」沿いに境内末社 梶田神社と並んで 鎮座します
社殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 賀茂山口神社について 所在は゛在所詳ならず゛〈所在不明である〉と記し 祭神は゛必ず大山祇神を祭るならん゛とも記しています
【抜粋意訳】
賀茂山口神社
賀茂は前に同じ、』山口は也来久知と訓べし、
○祭神 大山祇命歟
○山口神と申すは、必大山祇神を祭るならん、大和國に数多祭り、祈年祭祝詞にも、天照大御神に続き、御縣坐神水分坐神等に列ねて殊更なるは、故ある事なるべし、なほ所々の山口神考へ合すべし、
○山城志云、山口波爾久我末刀神社、混ニ雑下賀茂小祠、今不可考、
類社
大和國添上郡夜支布、同國平群郡伊古麻、同國葛上郡巨勢、鴨、同國葛下郡當麻、大坂、同國吉野郡吉野、同國十市郡石寸、耳成、同國山辺郡都祁、山口神社、(各一座並大月次新嘗)
神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授ニ山城國正六位上鴨山口神從五位下、
【原文参照】
式内社 鴨岡本神社について 所在は゛在所今廃亡す゛とあり 廃絶して不明と記しています
賀茂保房縣主の同氏福縣主記には゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉との説を挙げています
【抜粋意訳】
鴨岡本神社
鴨は前に同じ、」岡本は哀加毛止と訓べし、
○祭神詳ならず〔比保古に、太の字を據として、岡田賀茂と等しく建角身命と究めしは信用がたし〕
○在所今廃亡す
賀茂保房縣主云、同氏福縣主記〔延宝年間 人也〕に、岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり、彼射場〔今頽敗せり〕の邊に林あり、此内に神木とて伐らず綺(イロ)はざる樹立今にあり、是 岡本社の旧跡也と言伝へたりと見ゆと云り、
〔連胤〕按るに、今の岡本町は西に隔つるといへども、此邊すべて岡本と呼し處にもやあらん、雑事
續本後紀、天長十年十二月癸未朔、道場一処在山城國愛宕郡賀茂社以東一許里、本号岡本堂、是神戸百姓奉為賀茂大神所建立也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 賀茂山口神社について 所在などは記されていません
三代実録の神階 奉授が記されています
【抜粋意訳】
賀茂山口神社
清和天皇 貞観元年甲申、正六位上 鴨山口神に従五位下を授く、〔三代実録〕
【原文参照】
式内社 鴨岡本神社について 所在は゛今 廃たり゛とあり 廃絶して不明と記しています
寬文の頃にかける賀茂氏福筆記に゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉との説を挙げています
【抜粋意訳】
鴨ノ岡本神社
今 廃たり、〔山城式社考、式社考証〕
〔〇按 續日本後紀 天長十年十二月癸未朔日の條に、道場一所、山城國愛岩郡 賀茂社 以東 一許里にあり、本岡本堂と號く、是神戸百姓賀茂大神の為に建立する所也、とあるを思ふに、當社は其神戸ありしに因て祭られしものなるが、後に寺をも建しなるへし、さて寬文の頃にかける賀茂氏福筆記に、當社は神坂と中山との間 南の梺にありと云るによりて、式社考証に今 本社一鳥居より東七町餘にあれば、其邊と知られ、又此西側に岡本町あるも縁ありと云るは、舊社なるへし〕
盖 賀茂大神を祭る〔續日本後紀大意〇按 本書に、岡本は賀茂大神神戸の地也〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 賀茂山口神社について 所在は゛別雷社境内 片岡山麓 賀茂別雷攝社゛〈現 賀茂山口神社(京都市北区上賀茂本山)〉と記しています
【抜粋意訳】
賀茂ノ山口(ヤマクチノ)神社 稱 澤田神社
祭神 御年神(コトシノカミ)
神階 清和天皇 貞観元年二十七日甲申、奉授ニ 山城國正六位上 鴨ノ山口神 従五位下
祭日 四月田植祭
社格 賀茂別雷攝社所在 別雷社境内 片岡山麓
今按 御祖神社 大宮司 岡本經春云 別富神社從來四月某日に植祭(ウエマツリ)と稱し 神官等 澤田社の前にて稲實を檢しで御戸代(ミトシロ)田に行向て 早苗(サナエ)を植る式ありて 五穀豊穣を祈るの神事あり 且片岡山の南麓に鎮座て地景 尤も山口神社と稱へれと云る由ありて聞ゆれば 之に従ふ
【原文参照】
式内社 鴨岡本神社について 所在は
①市原村の産神なり〈現 大神宮(京都市左京区静市市原町)〉
②市原村の辨天祠〈現 厳島神社(京都市左京区静市市原町)〉
③賀茂氏福筆記に゛岡本神社は神坂〔太田社の東二町の麓路をかく云り〕と中山〔神坂に続きたる山の惣名也とぞ〕の間 南の麓に、元射場と云所あり 是 岡本社の旧跡也と言伝へたり゛〈現 幸神社(京都市北区上賀茂岡本町)〉
④本社一鳥居より東七町餘〈現 山森神社(京都市北区上賀茂山本町)〉
との四つの説を挙げて 説明をしています
【抜粋意訳】
鴨ノ岡本(ヲカモトノ)神社
祭神
祭日
社格所在
今按
京郡府式内考證に 當社或は市原村の産神なりと云ひ
又 西賀茂の邊ならんと云ふ 今 推考するに所謂 市原村と云は別雷神社あり 正保二年上申の書中に 山城國愛宕郡岡本郷市原村とあるを證としたるにて其社邊に 辨天祠あるを岡本堂の跡ならんと考へたるなれど 彼岡木郷は獨り市原村に限るべからず 況や岡本堂賀茂社以束にあること 正史に著きを 此村は同社の北にあれば 彼辨天祠は此堂の跡に非ること知るべし
又西賀茂の邊と云るは 賀茂神記に 岡本郷の内に錦部郷中村郷ありて 此錦部郷は 今西賀茂の邊ならんと云るより 推當よる説なれば 分明ならず
賀茂縣主氏福筆記に岡本神社は 神坂〔太田社の東二町の麓〕と中山〔神坂の続き山の惣名〕の間 南の麓に 元射場と云所あり 彼射場の邊に林あり 此内に神木とて伐らず綺(イロ)はざる樹立今にあり 是 岡本社の舊跡也と云るは 今 本社一鳥居より東七町餘 小山の麓に小林尚存せる所にして 鴨岡本の號之を實地に徴すべく
又 續日本後紀に 賀茂社 以東一許里 本號 岡本堂とみえたる一里は 今の一里に非れば 凡此邊にありと知られ 又 北西側の人家を岡本町と云も尤縁ありて聞ゆれば 蓋是 當社舊地と定むベきかと云る據あるに似たり
【原文参照】
山森神社(京都市北区上賀茂山本町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
・賀茂山口神社〈上賀茂神社の摂社〉は 賀茂別雷神社(京都市北区上賀茂本山)の境内に鎮座します
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の境内・境外・摂社・末社についての詳細は
賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)の摂社・末社について