馬路石邊神社(守山市吉身)〈『延喜式』馬路石邊神社〉

馬路石邊神社(うまじいそべじんじゃ)は 社伝に 白鳳三年675建速須佐之男命を奉斎創祀 朱鳥元年686大己貴命を合祀と云う 社名の馬路は馬道首因む地名 石邊は馬道郷の土豪石邊君氏」の 馬道(路)郷の石邊君の氏社で 延喜式内社 近江國野洲郡 馬路石邊神社(むまみちのいそへの かみのやしろ)とされます

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

馬路石邊神社(Umajiisobe shrine

通称名(Common name)

・田中大明神(たなかだいみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

滋賀県守山市吉身4丁目4-1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
   大己貴命(おほなむちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内 馬路石邊(うまじいそべ)神社(田中大明神)
御祭神

 素盞鳴尊(すさのおのみこと) (天照大神の弟神)
 大己貴命(おおなむちのみこと)(大國主神の一名)

御神徳

 素盞鳴尊・大己貴命の御神徳は宏大無邊で、この地上の自然界・人間界の宿命、現世の罪、隠世にする恐怖、疫病を始め萬の苦しみ不幸から救いを導き、農業工業商業すべての産業の発展、厄除、交通安全、安産、縁結びの神として、世の中の幸福増進を図る人間生活の守護神である。

由 緒

 當神社の創建は、古く白鳳朱雀年間(皇紀一三一〇年頃 西暦六五〇年頃)何 れも戌年に、この羽賀の地に御降臨になり、田中大明神と崇められ、往古より例祭は四月第二の戌の日に執行され、渡御の神賑わいとして五穀豊穣の古式踊が奉納された。慶長年間、祭禮の際氏子間に闘争があり、神輿を破損し羽賀の田に埋め、神輿塚と称し祭事が營まれてきた。

 當社が田中大明神・田中天王と崇められるのは、馬路郷田中莊(今の吉身・守山・播磨田・金ケ森・小島・市三宅等)の總鎮守にして、この森を「天王の森」「鶴の森」と称した為で、平安朝の延喜式神明帳の中に見える古社であり、 この社の神使は、白犬とされる。

 元亀天正の頃、この付近軍馬の蹄に汚され、社殿、神宝、古記類等を焼失、現在の社殿は江戸末期に再興され明治十四年郷社に列せられる。

社頭の石碑文より

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【由  (History)】

馬路石邊(ウマジイソベ)神社
御由緒

 社伝によれば、創祀は白鳳三年 建速須佐之男命を奉斎し、朱鳥元年、大己貴命を合祀したことに始まると云う。

 社名の馬路は、平城京跡出土木簡『益珠郡馬道郷石邊玉足』森ノ内遺跡出土木簡『馬道首』に見える地名、和名抄「按馬路駅家ハ郷名也」にみえる古郷であり、石邊とは馬道郷の土豪 石邊君氏の姓で、馬道(路)郷の石邊君の氏の社である。

 延喜式神名帳記載の式内社で、中世には江州田中荘(吉身・守山・播磨田・金森市三宅)の総鎮守 田中大明神、田中天王社と崇められた。その森は天王の森と呼ばれ、広大な原生林に覆われ、近江輿地志略 田中大明神社の頃には「吉身村ニアリ村ノ北街道ノ傍林ノ中ニアリ其森ヲ天王ノ森ト云、大己貴命正一位田中大明神ト號ス。祭禮毎年四月二ノ戌ノ日、土俗云、白犬ヲ神使トス」と記されている。

 弘仁年間、嵯峨天皇の病気平癒祈願の為、氏子が水垢離をし平癒祈願の功により、神領と饗の御膳が寄進された。又この時、山野井の姓と竹輪に九枚笹の御紋が下賜され、正月には饗の神事が氏子宅により今も続けられている。

 弘治二年、六角氏により楼門が再建され、祭礼に奉行を派出し篤い崇敬を受けた。

祭礼行列書なる古書に○神馬○三種ノ神器○旗付鉾吹流シ○神輿三基○カネと踊り 笛太鼓 カネ音戸取 ○神官騎馬○禰宜○領主供奉行行列○村ノ士分麻上下帯刀と当時の祭礼模様がしるされている。

 元亀・天正の野洲川を戦場とする争乱によって、社殿に隣接し白鳳時代に建立された益須寺と共に社殿、神宝、古記類を焼失。
江戸時代に社殿が再興されたが、天明四年に再び火災に遭い、現社殿は文久二年に再建、社頭整備も逐次進められ明治九年には村社に、明治十四年には郷社に列した。
祭礼には神輿の渡御と共に、天下泰平・五穀豊穣を祈る古式踊(豊年踊)が奉納される。

滋賀県神社庁HPより抜粋
https://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=441

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇滋賀縣 近江國 野洲郡守山町大字吉身

郷社 馬路石部(ウマチノイソベ)神社

祭神 速素戔鳴(ハヤスサノヲノ)尊 大己貴(オホナムチノ)

 創祀は天智天皇 白鳳 素戔鳴尊を奉齋せしに起る、尋いで持続天皇 朱鳥元年 大己貴命を合祀す社記、醍醐天皇 延喜の制小社に列す(延喜式)嵯峨天皇の朝 御祈願の事あり、米千石銭千貫を賜ふ、
降って佐々木氏 当國に勢を得るや、また厚く本社を尊崇し、天正年間まで時々の祭祀怠る事なかりき(社記)、

世に田中大明神とし、田中庄守山村、吉身村、市三宅、及 播摩田村、今市、荒見、金森等の産土神たり、後 佐々木家 衰へてよりは六角氏 其の祭祀を行ふ、正親町天皇永禄年中六角氏亡び、領主の交送数なり、後陽成天皇 慶長 事ありて氏子分裂し、市三宅村の外  小津神社に附属せしが、後復 吉身、守山、播摩田の三村は当社に帰するに至る(與地志略、社記)、明治年村社に列し、十四年郷社に昇格す、境内二千百十二坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿其他倉庫、水屋、社務所等を備ふ、地横田川平野に位し、前に大湖を抱き、陸には鐵路の利ありて交道甚便なり、神杜覈録 神祇志料 共に馬路石部神社の所在を明示せず、猶考察を要す。

境内神社
 事代主神社 神明社 住吉神社 八幡社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

馬路石邊神社 中門

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馬路石邊神社 拝殿

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・〈境内社〉興福稲荷神社・山王神社・八幡神社・事代主神社・住吉神社・神明神社

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・〈境内社〉愛宕大神

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・社務所

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・手水舎

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馬路石邊神社 神門

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東の参道 鳥居

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・東の参道

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈南の参道〉神輿塚(みこしづか)

神輿塚 近江興地志略より

 馬路石邊神社の傍 田の中にあり往古 祭礼の時、神輿を破却しここに埋むといふ。今少にてもこの塚を損する事あれば必ず祟あり云々

〔解説〕

 この塚は、北に弥生鈴代の下之郷遺跡や二ノ畦・横枕遺跡、南に吉身東遺跡、益須寺遺跡。西に古墳時代の吉身中遺跡に囲まれ、その中間地点に位置します。
馬道首(うまみちのおびと)に繋がる、吉身の臣の先祖の古墳ではないかと、お祀りされて来ました。

 興地志略の往古とは、伝承では慶長六年旧暦卯月の祭礼時に、氏子間で争いがあり神輿を壊し、ここに埋めたと伝わります。これより神輿塚古墳と言われる様になりました。

現地案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)近江國 155座(大13座・小142座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)野洲郡 9座(大2座・小7座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 馬路石邊神社
[ふ り が な ](むまみちのいそへの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Mumamichi no isohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

近江國 野洲郡 馬路石邊神社(むまみちのいそへの かみのやしろ)の論社

・馬路石邊神社(守山市吉身)

『延喜式神名帳』所載「いそへのかみのやしろ」の社号を持つ式内社とその論社について

『延喜式神名帳』に所載される各々の「いそへのかみのやしろ」は 古代の氏族・「石邊公」「石部氏」に関係する神社 又は 海人族の「磯部氏」に関係する神社とも云われ 数多く分布しています

音は「いそへ」と同じでも その要因は 様々な要素から成り立っていて 特定は非常に難しく その為 各々の神社を検証してみます

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR東海道本線 守山駅から駅前グリーンロード と 県道11号 経由で北西方向へ約1.7km 車での所要時間は5~6分程度

>

県道11号の吉身三丁目の交差点から旧中山道を東方向へ向かうと 馬路石邊神社の社号標があり 東からの参道となります

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参道には石鳥居が建ちます

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砂利の敷詰められた平地があり 参拝者の駐車場として利用できます
神門が建ちます

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馬路石邊神社(守山市吉身)に参着

この神門 宮津藩陣屋の表門守山市役所に保管されてあったものを移築したとのこと 

一礼をして 神門をくぐります

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扁額には゛石邊神社゛と記されています

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神門をくぐり抜けると 境内中央の 拝殿にすすみます

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拝殿の向かって左には社務所があります
不在でいらしたが 馬路石邊神社の豊年踊りの案内がありました

昭和31から衰微していたが 有志の努力により昭和51年1976に保存会が結成され復活された とのこと

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拝所は 本殿の前 中門に設けられています
拝殿を廻り込むように 中門にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 馬路石邊神社について 祭神・所在は良くわからない と記しています

【抜粋意訳】

馬路石邊神社

馬路石邊は宇麻也智伊曾倍と訓べし

〇祭神在所等詳ならず

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 馬路石邊神社について 社号のみが 記されています

【抜粋意訳】

馬路石邊(ウマヤヂノイソヘノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 馬路石邊神社について 所在は゛吉身村 (野洲郡守山町大字吉身 )゛〈現 馬路石邊神社(守山市吉身)〉と記されています

【抜粋意訳】

馬路石邊(ウマミチノイソヘノ)神社

祭神
祭日
社格 村社(明治十四年十一月七日郷社格許可(郷社)

所在 吉身村 (野洲郡守山町大字吉身 )

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

馬路石邊神社(守山市吉身) (hai)」(90度のお辞儀)

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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