宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)

宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

宇治山田神社Ujiyoda shrine〈内宮 摂社〉

〈御同座 那自賣神社(Najime shrine)〉〈内宮 

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市中村町字西垣外918

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

〈宇治山田神社〉
《主》山田比賣命山田姫命(ようだひめのみこと)
  〈大水上神(おほみなかみのかみ)の御子神(水神)〉

〈御同座 那自賣神社〉
《配》大水上御祖命(おおみなかみのみおやのみこと)
   御裳乃須蘇比賣命(みものすそひめのみこと)

  両祭神とも五十鈴川(御裳濯川)の水の守護神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

宇治山田神社について

『大神宮叢書〈昭和7-9年(1932~1935)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

攝社 宇治山田神社

字治山田は宇治郷の山田なり。沼木郷に山田てふ地あれば、かく分て云成るべし。かかる類多かり。(下條に宇治奴鬼神社といふも、度會祁に沼木郷あれば、宇治郷なるをしらしめたるなり。)
古事記に、(垂仁段)、尾張國之三野別、といふも三野といふ國あれば、尾張といふ例に同じかるべし。此山田を古本に耶宇多と訓り。(今も山田をヤウダといへり。)楊田とも古書にあり。
此地は建久行事記に、(二月八王子祭)世木楊田田經テ、月讀宮鳥居前下馬、とあり。是古へ月讀宮に往來の大道なるべし。此道は世木淵の南を經て尼坂の下を通り、上森の前に出しなるべし。(二月十二日條)三御前神態に、刀禰祝等引率、宇治岡山路饗行向、道祖神祭禮、使(参向の禰宜なり。)神事河原ニ参著云々、刀禰等自ニ楊田岸河原ニ帰参、とあり。(道祖神の祭地は今の火燒の里なれば、上森の下道を通ひし也。)

また雜事記併 園太曆(〇文和五年三月廿五日の條、)に、治曆四年九月祭使云々、楊田片岸卜云道ニ趣テ井面ヲ徹テ、といふは、川邊の道を通行せしと聞え、勅使記に治暦四年に、宇治岡之東字揚田道。子良殿記に、牛谷陽田建國寺山とありて此楊田はいと名高し。今の世も此名存りて、明應八年五月十六日の沽券に、田地云々、在所は山田のながをさ、束を限り新三郞作、南は道、西新樂寺とあり。長をさは今尼坂の下の溝水の流れをいへり。南は道といふは上森に通ふ道なるべし。(是古への大道なり。)

慶長十四年二月八日田地沽券に、山田田壺段半、延寶二年三月沽券によふた田とあり。今も村人上森の邊を山田道といへり。(山田大路(ヨウダオウジ)といふ家も古へは此邊にありしにや。)かかれば此地は世木淵の東より尼坂の下まで、宇治川の南方、また新樂寺の西までをかけて廣く云名也。(或説に、楊田は耶奈岐多と訓べし。中村の東漆と云地に連ねて字は耶奈伎多といふ地あり。楊田社こゝに在て、カヤノ木の森ともいへり。近き世此森は田地となりたれど、其地をカヤノ木の下といへるよしいへど方角違へば誤なり。)
帳に、久麻良比神社、宇治山田神社、津長大水神社と次第たれど、大神宮式に朽羅社、伊佐奈彌社、津長社とありて、此社は見えず。されど二月神態には、大土神御子社、津長社、楊田社を祭る祝詞見えたれば、此四社は上の六社に次て尊き社なる事しるし。

此神社は正殿ー區、御垣二重、(一重玉垣、一重柴、)坐地二段三百步、四至(東道、南宇治大川、西澤拜畠、北大道 ,)とあり。今は此殿垣廃絶して其社地知がたけれど、いはゆる興玉森の南中人淵の北岸に杉樹二株あり。村人古へ宇治橋のかゝりし橋姫の舊跡といひ傳ふる處あり こは宇治山田を唱へ誤れるならんか。
此處のさま東北に道あり、西に澤田あり、古へといふベき地なり。南に宇治大川あればよく古記の文に叶ひたる處なり。是や舊跡ならんかし。されど今ある Sよ川岸にて、社地と云べき地にあらず。川岸の崩壊せしよりかく成しにやあらん。
神宮不審問答といふ書にも、楊田片岸といふは今御馬森の北の岸上ならんといへり。(此中人神淵といふも道と川との中ほどなる神の邊の淵といふ意ならんか。)猶考ふべし。

稱に 大水神兒 山田姫命

山田は揚田にて地名なる事にいへり。されば此地を守護ります神なるべし。地名をもて神名とする例上にいへり。されど山を耶宇と訓は後の轉語なるベし。(今も山田大路てふ家名ありて、山田なやうだと俗にいへり。)古へは此地にも人家ありしなるべし。(上に云山田大路といふし此地より出しといひ傳へ、村童歌にもヤウダの町といふも沼木郷山田原にあらず。)

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

【由  (History)】

〈那自賣神社について〉

『大神宮叢書〈昭和7-9年(1932~1935)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

末社 那自賣神社

那自賣は地名なり。此地のこと、解に、奈宇志禰は宇治郷岡田中之切町の山神社ならんと云。
和漢三才圖會に、在ニ岡田御裳濯川岸乎、などいへろも神名をもて推量の説なれば信がたし。今考ふるに、園太曆に、(〇文和五年三月二十五日條、)神宮雜記に、(今の雜事記にて此文おなじ。)治曆四年九月勅使宮司到ニ宇治天、浦田坂爾不レ向須、是奈宇志禰止云所ニ居住下民死去、爲 違ニ彼家門依ニ先例云々、楊田片岸止云道ニ趣テ井面ヲ徹テ河上ヨリ参宮、といへり。此文を思ふに、那自賣を後に奈宇志禰と訛りしなるべし。

さて浦田坂といふは雜事記に、神龜六年正月十日、参ニ太神宮之間、字浦田山之迫道、また嘉曆勅使記に、自尾上坂迄浦田坂とも見えて、中古まで此坂は大道なるべし。
勅使雜記(〇伊勢公卿勅使部類記)には、治曆四年九月、使王章資王中臣元範、宇治岡之東字楊田道江懸天、井面止云所乎徹天河上参宮世利、其故波奈宇志禰止云所仁居住下人死去了、仍彼門爲レ違依ニ先例所ニ参宮也。また文永遷宮記に、造宮所細工者云々、被レ宿ニ置納米住人中九郞守眞住宅、また道々細工等、令レ寄ニ宿岡田納米緣邊之在家、など見え、建久行事記に(二月十二日、)刀禰祝等引率、宇治岡山路饗行向云々、使神事河原参着云々、刀禰祝等、自ニ楊田岸河原帰参、とあるを見わたし考ふるに、宇治岡と云は浦田坂の事にして楊田道の西にあり。明應八年の沽券に、在所は山田ナカヲサ、南道、西新樂寺、とあれば、楊田といふ地は宇治岡の南にあり。楊田片岸といふは片方に大川の流れ在しなるべし。(今もソハ河原といふ處あるも片岸のいひなり。)

井面といふは今も中村庄世古てふ地に井面街道と云名残れるは、井面へ通ふ古道にて、治曆四年に楊田片岸に勅使の通行ありけるは此處にもやあらん。されば納米とは舟橋のあたりなるべし。荒木田系本に、舟橋長官氏成、其父延季は家田長官と云、其叔父に三禰宜氏俊、其子納米長官尚良とあれば、舟橋近きあたりに同族の住たりけん。近代元祿勘文に、皇女森、在下中村與ニ楠部之堺、或云奈志志根宮、(此説は倭姫世記に奈久志根田上宮坐、と云によれるなり。)
拔穗神事場、在ニ楠部村南皇女森東、元云ニ船橋辻、と云も後に傳へ誤れる説もあるべけれど、上に云如く船橋邊なる事はしるし。此船橋と云地は今皇女杜西方の地を云なり。(勘文に此杜の東方を云如く記しつるは後の誤也。此地の事は姓氏考に云べし。)
今按に、皇女森西方中村楠部堺の西に森と云地名あり。此處は古跡なるか。井面清水(井面街道の邊なり。)と云に森の形あり。此地なるか、よく考ふべし。(猶那自賣神社の事は下の宮外 橋姫社にいへり)

大水上御祖命、形石坐

此神上文には大水神、また大水上ともあるを、此處に大水上御祖命とあるは正しき神名なるべし。御祖とへいへるは、上(國津御祖神社・大水社•江神社)にいへり。

同御玉御裳乃須蘇比女命、形石坐

同御玉とは大水上の御玉なり。此神は宇治大川をすべて知食す神なれば ,其御玉を稱へてかく申す成べし。さる故に正しく御祖神と此に挙てしらしめたる也。御裳乃とある乃の字は衍なるべし。帳に神の御玉を祭る神社多かり。
(川原社)月讀神御玉、(榛原神社)天須婆留女命御玉、(許母利神社)•粟島神御玉などあり。御裳須蘇川といふは五十鈴川の一名なるよし、祝詞考に委しくいへばこゝに略せり。俗に橋姫社といふも此神社ならんかと思ふよしあり。下條に云べし。

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

宇治山田神社は 皇大神宮(内宮)摂社です

・皇大神宮(内宮)

〈御同座 那自賣神社〉の旧地 宇治神社(伊勢市宇治今在家町)

・宇治神社(伊勢市宇治今在家町)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】 

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】 

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭。

以下略

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大國玉比賣神社
[ふ り が な ]おほくにたまひめの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokunitamahime no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

大國玉比賣命(おほくにたまひめのみこと)について

度會乃大國玉比賣神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉の御祭神は 現在2柱の神〈大國玉命(おほくにたまのみこと)弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)〉とされていますが 社号の神名は゛大國玉比賣神(おほくにたまひめのかみ)゛であります

『大日本女性人名辞書』に記される内容

【抜粋意訳】

大國玉比賣命(おほくにたまひめのみこと)

度會の地主神。神武天皇の時、天日別命國覓(くにまぎ)に當り、この神、彌豆佐々良比賣命とともにこれを土橋郷岡本村に迎へられた。
豊受大神宮攝社度會大國玉比賣神社に祀られる。

『伊勢風土記』逸文に「夫れ度會郡と號る所以は、畝傍の橿原宮に御宇めす神日本磐余彦天皇、天日別命に詔りたまひて、國を覓(ま)ぎたまふ時、度會の賀利佐の嶺に火の氣たてり。天日別命視さけて、ここに小佐(をさ)をるかと曰ひて 禮使を遣はして見せしかば、使者還り來て、大國玉神有りと申しき。賀利佐に到れる時に、大國玉神使を遣はして、天日別命を迎へ奉る。因りて、其の橋を造らしむるにいまだ造り畢へざるに到りければ、梓弓を以て橋と為して度らしめき。爰に大國玉神、彌豆佐々良比賣命を資けて参ゐ來て、土橋郷岡本村に迎へ相ひき。天日別命歓びて、地主に参り會ふ日、刀自に度り會ひぬと申しき。因(か)れ以て名と爲せり。」と見える。 (採諸國風土記 )

【原文参照】

高群逸枝 著『大日本女性人名辞書』,厚生閣,1939. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879750

大國玉比賣神゛が 二つ所載延喜式神名帳 927.AD伊勢國 度會郡 

『延喜式神名帳』伊勢國の度會郡には 二つの゛大國玉比賣神゛が所載されています
それは 伊勢の両宮〈・皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉各々の摂社として祀られています

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社

皇大神宮(内宮)の摂社が論社となっています

①堅田神社の説

度会延経や伴信友は 堅田神社を比定する見解を述べ
薗田守良は 堅田神社の西方に大國玉比賣神社があったのではないかと述べています

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

②宇治山田社の説

近世になると御巫清直が『二宮管社沿革考』で「本社大國玉比賣社ハ宇治山田社ノ一名トシ、神名帳ニ榎村社トアルヲ堅田社ノ異名トシテ」と記述して 宇治山田神社を大國玉比賣神社であると述べています

・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)

豊受大神宮(外宮)の摂社が論社となっています

・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

皇大神宮(内宮)宇治橋から おかげ横丁を 五十鈴川沿いに北上して 約1.5m 徒歩でも散策をしながら25分程度

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こんもりとした鎮守の杜があり その南側が入り口〈鳥居はありません〉

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宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着

社号の石柱があり゛宇治山田神社゛と刻字(うじようだじんじゃ)と読みます

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一礼をしてから 参道を進みます

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石段の上に鳥居が建ち 社殿が見えます

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参道は 正中を進まないように 弧を絵描くようになって社殿に向かっています

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 南向き 東西に御敷地と古殿地が並んでいます

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社殿に一礼をして 参道を下ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 大國玉比神社について 所在は 不明で定かではないが 或は 堅田社称す〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉であろうと記しています

【抜粋意訳】

大國玉比神社

大國玉は於保久爾多麻と訓べし、比は假字也、

〇祭神 玉命、佐々良比命、
○在所詳ならず、亦 堅田社称す、考証

○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第十三に載す、
○儀式帳云、稱に東方堅田神社、形石坐、倭姫内親王代定祝、
神名略記云、儀式帳津長下大水上載堅田神社無大國玉比神社、
神祇本源云、大國玉比社、長寛検録文無に寶殿敷地、按堅田神社即大国玉比也、祇言見依此二神鎮座名二見歟、長寛不考合二名其言如此、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大國玉比神社について 所在は 二見郷江村にあり佐見都日女命を祀る〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
堅田社について 倭姫命が諸国を巡幸し二見の地を訪れた際 土地の神である佐見都日女命は倭姫命に堅塩を奉った事が記されています

【抜粋意訳】

大國玉比賣(オホクニタマヒメノ)神社

 

 二見郷江村にあり、延暦儀式帳解、度會縣神社帳、
蓋 佐見都日女命を祀る、倭姫命 大御神の大宮處を覓給ひ、二見濱に御船留給て坐時 佐見都日女参奉りき、汝 國名何と問給き、御詔を聞す御答白さすて堅鹽を以て多御饗奉りき、倭姫命慈給ひて、堅田社定給ふ即是也、(倭姫世紀〇按延暦儀式帳、堅田社を載せて、大國玉比賣神社なく、延喜式、大國玉比賣神社ありて、堅田社を載せず、一社二名歟宜しく堅田社の條と合せ考ふへし、世紀に據るに、佐見都日女、或は二見國の地主神に似たり、故二見國玉の義にて、大國玉比賣神と云るなるへし、姑附て後考を俟つ
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞祭に預る、凡己上五座、及 大土御祖、國津御祖、坂手國生、粟皇子、久久都比賣社、井太神宮所攝廿四座の神也、延喜式

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大國玉比神社について 所在は 宇治郷中村〈現 宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

大國玉比神社

祭神 大國玉比
祭日
社格 内宮所攝

所在 宇治郷中村(明細帳に宇治郷に中村なるものなし凡て此神社見えず覈録に所在詳ならすしあり)

今按 神社檢錄に儀式帳に宇治山田神社 建久年中行事に楊田社または八王子社とあるは是欺と云へり猶よく考ふベし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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