角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
角鹿神社(Tsunuga shrine)〈氣比神宮境内〉
[通称名(Common name)]
政所神社(まんどころじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
福井県敦賀市曙町11-16
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)
《合》松尾大神(まつのおおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 氣比神宮 境内摂社
【創 建 (Beginning of history)】
角鹿神社
摂社、祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、式内社、崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名による。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われる。
氣比神宮HPより
https://kehijingu.jp/map/keidai_16.html
【由 緒 (History)】
角鹿神社(つぬがじんじゃ)
摂社(式内社)。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。
崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等命が氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられるその政所(まんどころ)の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。
現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」でこの御名に因る。往古は東口が表参道であったため氣比神宮本社の門神であった。兒宮(このみや)
末社。祭神は伊弉冊尊(いざなみのみこと)。元は氣比神宮寺の境内に鎮座。
平安時代、寛和二年(986)九月二十日遷宮の事が残されており由緒は古く、子宝及び安産の神と称され、小児の守神として今日に至る。大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
末社(式内社)。御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。敦賀市内氣比大神四守護神の一社で元は北東の天筒山麓に境外末社として鎮座されていたのを明治四十四年現在の地に遷座、稲荷神社、金刀比羅神社を合祀した。
境内案内板より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)と並んで
〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《合》稲荷大神,金刀比羅大神
・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
本社について
・氣比神宮(敦賀市)
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)のすぐ東 敦賀北小学校〈廃校〉校庭に鎮座
伊奢沙別命は 笥飯大神(けひのおおかみ)御食津大神とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承される
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越前国 126座(大8座・小118座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)敦賀郡 43座(大7座・小36座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 角鹿神社
[ふ り が な ](つるかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuruka no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)と同じ神を祀る式内社
御祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)と同じ神 都奴加阿良斯止神(つぬがあらしとのかみ)を祀る神社として
式内社
北陸道 能登国 羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶとあらかしひこのかみのやしろ)
・久麻加夫都阿良加志比古神社(七尾市)
氣比神宮 主祭神 氣比大神神(けひのおほかみ)について
氣比神宮 主祭神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈別名 御食津大神(みけつおおかみ)〉とされます
さらに 異説伝承として
主祭神・氣比大神(けひのおほかみ)は ・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)説・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)説・天日槍(あめのひぼこ)説などがあります
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は
古代朝鮮の加羅国王の王子とされ 角鹿(つぬが)〈角鹿から敦賀に転訛〉の語源とされる
天日槍(あめのひぼこ)と同一神とする説もある
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は
足仲彦天皇(たらしなかつひこの すめらみこと)〈第14代 仲哀天皇〉で 皇后は 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉
伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は
地主神 伊奢沙別命です
“伊奢沙別”という名は 元は神功皇后の皇子 譽田別尊(応神天皇)の名であり “譽田別”という名は 元は伊奢沙別神の名であり 名(な)と魚(な)を交換したとされる
天日槍(あめのひぼこ)は
記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの渡来神
神功皇后の母は 天之日矛の子孫
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と同一神とする説もある
いずれも 氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)〈神功皇后〉に関連する神です
この天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社に 但馬國一之宮 出石神社 があります
神紋を同じくする 越前國一之宮 氣比神宮 と 但馬國一之宮 出石神社 について
双方とも 日本海側の大社であり 新羅からの渡来神 天日槍(あめのひぼこ)との関連があります
ともに・桐・三つ巴・十六八重菊を御神紋としているのは何故なのでしょうか
・越前國一之宮 氣比神宮〈神紋は 五七の桐 三つ巴 十六八重菊〉
・氣比神宮(敦賀市)
・但馬國一之宮 出石神社〈神紋は 五三の鬼桐 三つ巴 十六八重菊〉
・出石神社(豊岡市出石町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR北陸本線 敦賀駅から北へ約1.1km 徒歩15分程度
氣比神宮 表参道には 旧国宝の氣比の大鳥居が建ちます
氣比神宮(敦賀市曙町)に参着
・氣比神宮(敦賀市)
そのまま車道を西へ進み 南参道口 さらに東参道口へと進むと最寄りの入口になります 境内案内図を参照願います
東参道口には 社号標が立ちます
東参道を進みます
その更に東に 土公の遥拝所があります
氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)に参着
・土公(どこう)〈氣比神宮 古殿地〉(敦賀市曙町)
大宝2年(702)社殿造営以前の神籬(ひもろぎ)氣比大神降臨の地
東参道の左手には 境内社〈・角鹿神社・兒宮・大神下前神社〉が鎮座します
3つの神社が並んで祀られています
向かって左より
〈式内社〉摂社・大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
《合》稲荷大神,金刀比羅大神
・大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
中央の鳥居の先には
・兒ノ宮(このみや)
《主》伊弉冊尊(いざなみのみこと)
本殿は 覆屋の中に祀られていて 〈享保十一年(1726)〉約300年前の狛犬が左右に座します
向かって右の鳥居の先には〈式内社〉摂社・角鹿神社(つぬがじんじゃ)
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)に参着
鳥居の前には社号標「式内 摂社 角鹿神社」と刻まれています
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には「角鹿神社」と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
参拝日は6月7日 午前8時頃でしたが 丁度 西を向いて建つ社殿の真後ろ〈東〉から陽が上って行きます
参道の石畳みの真ん中に 社殿の陰が 鳥居の中央から陽が上ります
再び参道より一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』垂仁天皇の段 に記される伝承
垂仁紀には 「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、『何の国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅国(おほからのくに)の王(こきし)の子、名は都怒我阿羅斯等。亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ。」と記されて
都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)という 額に角のある渡来人が 一つの船に乗って 越国の笥飯浦(けひのうら)に着いたゆえに そこを名づけて角鹿(つぬが)という と記し
そこから 天日槍(あめのひぼこ)の伝承から 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)の伝承が語られています
【抜粋意訳】
活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちの すめらみこと)〈垂仁天皇〉の段
即位2年の条
この年、任那人(みまなのひと)蘇那曷叱智(そなかしち)が 「国に帰りたい」と言った
先皇の御世〈崇神天皇〉に来朝して まだ帰らなかったのであろうか
それで 蘇那曷叱智(そなかしち)を厚くもてなし 赤絹(あかきぬ)を一百匹(ひとももまき)〈100巻〉を持たせて任那王(みまなのこしき)に贈られた
ところが 新羅人(しらぎのひと)が道中でこれを奪った
この二つの国が怨む始まり起きた時です
また一書によると
御間城天皇(みまき すめらみこと)〈崇神天皇〉の御世に 額に角の有る人が ひとつの船に乗って 越国(こしのくに)の笱飯浦(けひのうら)に停泊した
それで その所を 角鹿(つぬが)〈敦賀〉と名づけた「何処の国の人か」と問い尋ねると
「大加羅国(おおからのくに)の王(こしき)の子 名は 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと) 亦の名は 于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と言います
人づてに 日本国に聖王(ひじりのきみ)がいると聞いて 帰化(まうおもぶく)するつもりです
穴門(あなと)〈長門国(ながとのくに)〉に至ったとき その国に人がおり 名は伊都都比古(いつつひこ) 『私は この国の王だ 私の他に二人と王はいない だから他の所に行くな』と言いました
然るに 臣が その為人(ひととなり)を見て けっして王ではないと知ったので すぐに 引き返した
道が分らず 嶋浦(しまうら)を連らね留めながら 北海(きたのうみ)から回って 出雲国(いずものくに)を経て ここに来ました」と述べた
このとき 天皇の崩御があった
そこで 留まって 活目天皇(いくめの すめらみこと)〈垂仁天皇〉に仕えて三年になります
天皇は 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)に問われた
「汝(なんじ)の国に帰りたいと欲するか」
答えるに
「それを望んでおります」
天皇は 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)に命じました
「お前が 道に迷わずに速くやってきていたら 先皇にも会えて仕えていただろう そこで 汝(なんじ)の本国の名を改め 御間城天皇(みまきすめらみこと)の御名をとって 汝(なんじ)の国の名にせよ」
そして 赤織(あかおり)の絹を阿羅斯等(あらしと)に与え 本土に返した
ゆえに その国を名づけて彌摩那国(みまなのくに)というのは この縁によるものである
阿羅斯等(あらしと)は 賜った赤絹(あかきぬ)を自分の国の郡府の蔵に納めた
新羅人(しらぎのひと)が それを聞いて兵を伴いやってきて その赤絹(あかきぬ)をすべて奪った
これが 二つの国が相怨む始まりですまた一書によると
はじめ 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)は 国にいたとき 黄牛(あめうじ)に農具を負わせて 田舍に行っていた
ところが 黄牛(あめうじ)が 忽然といなくなった
すぐに跡を追って行くと 足跡はある郡家の中に留まっていた
その時 一人の老人が言った
「汝(なんじ)が 探している牛は この郡家の中に入った
郡公(むらつかさ)〈村役人〉が言うのには
『牛が背負っている物から考えると きっと殺して食べてもよいだろう もし その牛の主が返せといってきたら 物で償いをすればよい』と 殺して食べてしまったもし役人に『牛の代価に何が欲しいか』と言われたら 財物を望まずに『邑(むら)に祀る神を得たい』と言いなさい」
しばらくして 郡公(むらつかさ)〈村役人〉が来て言った
「牛の代りに何を欲するか」
老人に言われたように答えた
その邑(むら)に祀る神は”白い石”であった
それで”白い石”を牛の代価とした
それを持ち帰り 寝屋の中に置くと 石は美麗な童女(おとめ)となった阿羅斯等(あらしと)は 大変喜び 交合しようとしました
しかし 阿羅斯等(あらしと)が わずかに離れたすきに 童女(おとめ)は失せてしまった
阿羅斯等(あらしと)は 大変驚き 婦人に尋ねた
「童女(おとめ)何処へ行った」
答えて言いました
「東の方に行きました」
すぐに尋ね追い求めると 遂には海を越えて 日本国(やまとのくに)に入りました
求めた童女(おとめ)は 難波(なにわ)に詣で 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)となりました
または 豊国(とよくに)の国前郡(くにさきのこおり)に至り 比売語曽社神(ひめこそのやしろのかみ)となりました
この二つ所で祀られています
三年春三月の条新羅(しらぎ)の王子 天日槍(あめのひぼこ)がきました
持ってきたのは 羽太玉(はふとのたま)一箇 足高玉(あしたかのたま)一箇 鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一箇 出石小刀(いづしのこかたな)一口 出石桙(いづしのほこ)一枝 日鏡(ひかがみ)一面 熊神籬(くまのひもろぎ)一具 合せて七点
それを 但馬国(たじまのくに)に献上して 神宝(かんたから)としましたまた一書によると
はじめ 天日槍(あめのひぼこ)は 艇(はしぶね)に乗って 播磨国(はりまのくに)泊まり 宍粟邑(しさはのむら)にありました
その時 天皇が 三輪君(みわのきみ)の祖の大友主(おおともぬし)と 倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)を播磨に遣わし 天日槍(あめのひぼこ)に尋ねられた
「汝(なんじ)は誰か また どこの国の人か」
天日槍(あめのひぼこ)は
「僕(やっこ)は 新羅(しらぎ)の主(こしき)の王子です しかし 日本国(やまとのくに)に聖王(ひじりのきみ)がおられると聞いて 私の国を弟の知古(ちこ)に授けてやってきました」
そして言い 奉ったのは
葉細珠(はほそのたま) 足高珠(あしたかのたま) 鵜鹿鹿赤石珠(うかかのあかいしたま) 出石刀子(いづしのかたな) 出石槍(いづしのやり) 日鏡(ひのかがみ) 熊神籬(くまのひもろぎ) 胆狭浅太刀(いささのたち) 合せて八種類それで 天皇は 天日槍(あめのひぼこ)に詔し
「播磨国(はりまのくに)の宍粟邑(しさはのむら)と 淡路島の出浅邑(いでさのむら)の二つ邑(むら)に 汝(なんじ)の心のままに住みなさい」
天日槍(あめのひぼこ)は申し上げた
「臣(やつがれ)の住む所は もし天恩(てんのめぐみ)をいただき 臣(やつがれ)の願う土地をお許し頂けるならば 臣(やつがれ)が自ら諸国を巡り歩き 心に適った所に住まいたいと思います」そのお許しがあった
そこで 天日槍(あめのひぼこ)は 宇治河(うじがわ)を遡って 近江国(おうみのくに)の北の吾名邑(あなむら)に到着して しばらく住んだ
その後 近江から 若狭国(わかさのくに)を経て 但馬国(たじまのくに)に至り居処(いところ)を定めました
近江国の鏡邑(かがみのむら)の谷の陶人(すえびと)は 天日槍(あめのひぼこ)の従者である天日槍(あめのひぼこ)は 但馬国の出嶋人(いづしのひと)太耳(ふとみみ)の娘 麻多烏(またお)を娶り 但馬諸助(たじまのもろすく)が生まれた
諸助は 但馬日樁杵(たじまのひならき)を生んだ
日播杵は 清彦(きよひこ)を生み
清彦は 田道間守(たじまもり)を生んだとされます
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
角鹿は 都奴我(つぬが)と読むべし と記し 日本書紀の垂仁天皇記を載せています
【抜粋意訳】
角鹿神社
角鹿は都奴我と訓べし
〇祭神 都怒我阿羅斯等 社説
〇氣比宮東一町余りに在す、俗 政所神社と称す 社説〇日本紀 垂仁天皇二年春二月条
一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海之、經出雲國至於此間也。」是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」對諮「甚望也。」天皇詔阿羅斯等曰「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。氏人
續日本紀 天平神護元年五月丁酉 授ニ外従八位上 敦賀直島麻呂外従五位下 以 助ニ官軍也
類聚国史 天長五年閏三月庚子 越前國 正税五百束、給ニ采女 角鹿直福貴子
三代実録 貞観九年三月十日庚戌 角鹿直眞福子 外従五位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
社伝には 祭神を 都怒我阿羅斯等(つぬがのあらしと)とする説をとる と記しています
【抜粋意訳】
角鹿神社
祭神 都怒我阿羅斯等
今按〈今考えるに〉
社伝に 祭神 都怒我阿羅斯等とあり
日本書紀 垂仁天皇二年春二月条に一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時 云々とある由縁によりて
その氏人も この地に住めりと思しく
續日本紀 天平神護元年(765)五月丁酉 授ニ外従八位上 敦賀直島麻呂
また
類聚国史 天長五年(828)閏三月庚子 越前國 正税五百束、給ニ采女 角鹿直福貴子などみえたれば 即ちその祖 都怒我阿羅斯等を神として祭れる事著し 故 今社説に従う祭日 四月十一日
社格 気比摂社
所在 気比社東
【原文参照】
角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)