津神社(つじんじゃ)は 社伝に「嵯峨天皇 弘仁二年(811)の草創 延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 石田郡 津神社(つの かみのやしろ)の論社です 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)の津ノ上山(つのかみさん)〈角上山〉は 壱岐郡と石田郡の郡境にあり 式内社 壱岐郡 角上神社(つのへの かみのやしろ)ともされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
津神社(Tsu shrine)
[通称名(Common name)]
津上山(つのかみさん)
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市郷ノ浦町牛方触684
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
《合》素盞嗚尊(すさのをのみこと)〈大正三年(1914)合祀 牛神祠〉
大己貴命(おほなむちのみこと)〈大正三年(1914)合祀 牛神祠〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
郷ノ浦町指定文化財・史跡
村社(そんしゃ)津神社(つじんじゃ)
指定年月日 平成十二年十月一日
所 在 地 壱岐郡郷ノ浦町牛方触六八四番地二
所 有 者 津神社津神社は『延喜式神名帳』登載の神社である。祭神は 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉比賣命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)の五神である。式内社は壱岐島内に二十四座が鎮座し、そのうち郷ノ浦町には十座が鎮座する。
境内に牛神祠がある。寛文十二年(一六七二)壱岐島内で牛疫病が流行したことに伴い近年造立したものである。指定面積 1.215㎡
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)
天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)施行の養老律令(ようろうりつりょう)の施行細則(しこうさいそく)を集大成した法典を『延喜式』といい、延喜五年(905)、醍醐(だいご)天皇の命により藤原時平(ふじわらのときひら)らが編纂(へんさん)を開始し、康保(こうほう)四年(967)施行した。
第九・十巻には、全国 五畿七道(ごきしちどう)・国郡別の3132座の神名が記されていることから、これらの巻を「延喜式神名帳」という。「延喜式神名帳」に登載された神社を「延喜式内社」略して「式内社」といい、壱岐には24座あり、由緒高い神社である。平成十五年一月 郷ノ浦町教育委員会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
津神社は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)・神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)・素盞嗚尊(すさのをのみこと)・大己貴命(おほなむちのみこと)、の神々を祀られ、伝説に依ると縁結びの神・安産の神様として古くから良縁の恵みを祈り、妊婦の時には御神殿の直下の土を天保銭を投げお金で掬った土を持ち帰り、飲んだり又は腹帯に入れて安産を祈り信仰されて居る。
母子神様の振り袖は縁結びの袖、自分の生れ年(干支)の念珠の玉を撫て、男は左の袖を引けば良き美女に恵まれ、女は左の袖を引けば好男子に恵まれ良縁が結ばれる又相手の年の念珠の玉を撫れば願いが叶う。
母子神様の腰を擦って温めると子供がさずかり家内繁栄し円満な家庭が築かれる、妊婦の時は御腹の子供の年の念珠の玉を撫て安産を祈り栄養豊な母乳にて元気でたくましく育つ様願いをこめて、自分の年(干支)の念珠の玉を撫て磨いてやれば大変喜ばれ、御神様のお顔の表情が変わり氏民の幸を永久に祈られ島民の子 孫繁栄を願い立てられる。境内の案内より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・牛の像
壱岐国牛まつりの由来
この神社には牛神も合袷してあり、それは寛文十二年(一六七二)牛の疫病が壱岐島に大流行した為これを食い止めようと城代三浦十郎兵衛、大塚十右衛門、郡代中島加々石衛門、中原弥佐衛門が相談して費用を国中から集め、牛神の祭社に藩主に要請した。これにより牛神といわれる素盞鳴尊と大国主命をお招きして疫病退散の祈祷が行われ牛神が祭られたといわれており現在でもその守り神として信仰され毎年四月の第二日曜日に牛まつりの祭典が行われています。
平成四年四月吉日建立壱岐国牛まつり保存会
・母子神の像
女性は右の袖を引けば 男性は左の袖を引けば 良縁に恵まれると云われ
母子神の腰を擦れば子供が授かり・家内繁栄・円満な家庭を築くと云われます
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 角上神社(貞)
[ふ り が な ](つのへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsunohe no kamino yashiro)
【原文参照】
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 津神社
[ふ り が な ](つの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsu no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壱伎郡(いきのこおり)角上神社(貞)(つのへの かみのやしろ)の論社について
・角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)
・覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)
・津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)
石田郡(いしたの こおり)津神社(つの かみのやしろ)の論社について
・津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
・津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
R382号の西側 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)から津ノ上山(つのかみさん)山頂に向かいます
境内の入口と鳥居は 西を向き 社殿は南を向いています
津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
鳥居の扁額には 読みにくいですが 津神社と刻字
拝殿にすすみます
扁額には 津神社
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 立派な屋根の本殿覆屋があります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 津神社は 半城村〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉
と記しています
【抜粋意訳】
津(ツノ)神社
姓氏 津宿祢菅野朝臣同祖百済国都基王之後塩君男番侶君之後也
書紀 津臣
略志 半城村にあり
【原文参照】
国立公文書館『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
神社のある角上山の麓を流れる川があり 海水が往来していたとき 1匹の亀が津神社にお詣りしたが 急に潮がなくなり 帰れなくなって石になってしまった という 亀石の伝説が記されています
【抜粋意訳】
第十五巻 半城村之部
津神社 在 角上頂上
牛形大浦の産神之例祭九月十日
祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 相殿神上坐
御殿 牛未向 桁一丈 梁七尺 板葺
上屋 桁一丈三尺 梁同上 茅葺
拝殿 桁三間 梁二間 茅葺
石鳥居 高九尺五寸 横九尺六尺
櫻木社 在境内
門守神 在境内境内 東西八十間 南北四十三間 周囲二百八間
續風土記云 当社は 日向國鵜戸明神と同躰にして 彦火火出見尊 第三の子なり
〇古老云 立石村深長江より深江の川内尻に通し海水往来せし時 物部の壱岐渡鳥賊の口 柳田を経て角上の麓にて津といへるまで 海水往来せり 故
一の亀 角上の麓にまいりしが 潮涸れて かえるをえず 化して石となりぬと 其の石の周囲は則 亀石の祭畠なり
秀政云 豊玉姫 大亀にのりて女 玉依姫を引いて浜をへてし来る 浜辺あり 児 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊を
此 角上の神と称し奉り 及 亀石の名 又 宜なしにや
〇神社帳云 古来 鎮座年数不知云 元和四年 御殿造営なり 又 御水尾天皇 寛永七庚牛年 宝殿再建の棟札に津上神社とあり 然るは延喜式所載の角上神社にて 津は借字に書しものならん 延宝四年の改めに津神社となしたれど 寛永の棟札の津上となり 上の字になりて 地名と合を考えて正しく角上神社なるへし 式の石田郡 津神社は池田村にあり・・・・牛神祠 在 角上神社境内
祭神 素盞嗚尊・大己貴命
・・・・
当社は 寛文十二年 牛疫病流行して多く死に当州にて・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 角上神社の所在について 湯岳村 塗神(トガミ)〈現 覩上神社(壱岐市芦辺町湯岳本村触)〉としています 又 角上山(津ノ山)に鎮座する 牛方村 津上明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉との説も載せています
式内社 津神社は 半城村〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉石田村〈現 津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)〉
と記しています
【抜粋意訳】
角上神社
角上は 都乃倍と訓べし
〇祭神 詳ならず
〇湯岳村に在す 元名湯村と云 今 塗神(トガミ)と称す 式社考重足云
今 石田郡牛方村 津上明神こそ角上神社ならめ、当村郡境にて角上山あり、両郡に跨り、山の北ノ方 壱岐郡 南ノ方 石田郡 也といへり、然もあらんか、されど当国は、延宝八年、国主 松浦家より命じて壱岐略誌を撰み、是を以て 国應の規定としたれば、今略誌に従ひ置ぬ、尚考ふべし津神社
津は假字なり
〇津宿禰祖神歟
〇半城村に在す 土俗 津明神と称す
〇姓氏録 津宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男番侶君之後也
又 菅野朝臣同祖 百済国都基王十世後 貴首王之後也重足云 津上明神は壱岐郡角上神社なるべし 当郡石田村 宇津宮に津宮明神といふ社あり この津神社なりといへり されど今は略誌に従う 事 角上神社に同じ 尚考ふべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 角上神社の所在について 武荘 牛形郷 角上岳 角上大明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉と記しています
【抜粋意訳】
角上(ツノヘノ)神社
今 武荘 牛形郷 角上岳 角上大明神 是也
文徳天皇 嘉祥三年六月 壱岐島 角上神列ニ於 官社に預からしむ
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 角上神社の所在について 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 湯岳村出石都上岳に新たに角上神社〈現 角上神社(壱岐市石田町湯岳射手吉触)〉を祀った 本来は大武庄牛形の郷 角上岳 角上大明神〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉の説を記しています
式内社の津神社について 半城村〈現 津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)〉とされているが 石田邑の境に昔より津宮大明神と称する小社〈現 津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)〉との説もある
【抜粋意訳】
角上神社
祭神 須佐之男尊
祭日 九月十八日
所在
今按〈今考えるに〉
神社考 湯岳村出石都上岳には祭神なかりしを 角上神社を延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に新たに勧請し石社 木鏡を奉納したり 角上を覩上とは如何して思誤れるにや 且此地は昔 石田郡にして壱岐郡にあらず 今 城邑 角上大明神は大武庄牛形の郷 角上岳 角上大明神と称して角上神社なる事明白なりとみえ
式社所名徴に壱岐廿四座記 承應社記 吉野公光記 神社考 式社略考等にもみな牛形村にあるときは湯岳村にはあるべからず尚よく考べし津神社
祭神
祭日 九月十日
社格 村社所在 半城村 字津上岳(石田郡柳田村大字半城)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記ともに半城村 津上岳とす 然るに神社考に半城村角上大明神を延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に津神社と定めしは津岳とあるを以て 津神社と見たるよりの誤なるべし
石田邑の境に昔より津宮大明神と称する小社 神坂にあり 是 式社ならんとみえ 式社沿革考に壱岐廿四座記承慶記 神社考等にも石田村とあれば その村の神坂津宮大明神は津神社の旧地にして石田池田両村の宗社天満宮に遷座奉れる歟 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前 当社を式内と称し 又 宮津と云傳ふる印通寺浦も甚近ければ由ありと云えり 姑附て後考を俟つ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
柳田村ノ部
村社 津神社 〈旧号 津上大明神〉
鎮座地 柳田村半城牛方触
祭神 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
豊玉比咩命(とよたまひめのみこと)
玉依比賣命(たまよりひめのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)大正三年五月廿八日 牛神社合祀、素佐男尊、大己貴命
例祭日 十月十日 又 春季祭、報賽祭アリ神幸式、神楽、流鏑馬ノ式アリ
境内地 二千八百七十六坪〔由緒沿革〕
当社は嵯峨天皇 弘仁二年の草創、延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり一、文徳天皇 仁壽元年 春正月庚子 詔して正六位上の神位を授奉らる
一、陽成天皇 元慶元年 九月廿五日 中臣忌部両氏を遣はし班幣し給ふ 大嘗會供奉るに依りてなり
一、神階を進めらる 事式内小社の例に依れり
旧平戸藩主の崇敬神社にして社殿造営毎に白銀五枚を献ぜられ 祭日には代賛として馬廻衆参向の社たり
一、明治九年十二月四日 村社に列せらる
一、同四十三年十月廿五日 神饌幣帛料供進神社に指定せらる
【原文参照】
津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)