豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)は 第21代雄略天皇の御代に丹波国から伊勢神宮外宮に遷宮された゛豊受大神゛を祀ると伝わる 元伊勢伝承地の1つで 通称名を゛元伊勢外宮゛と呼びます 又 その境内を比沼の真名井ケ原と称したことから 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
豊受大神社(Toyoyukedai shrine)
【通称名(Common name)】
・元伊勢外宮(もといせげくう)
【鎮座地 (Location) 】
京都府福知山市大江町天田内船岡山
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊受大神(とようけおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
丹後国 元伊勢 豊受大神社 由緒略記
京都府福知山市大江町天田内船岡山 元伊勢外宮社務所
豊受大神社由緒
御祭神 豊受大神(とようけおおかみ)
相殿 日子番能邇々杵命(ひこほのににぎのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
天太玉命(あめのふとだまのみこと)四所引宮 多賀神社(たがじんじや) 土之神社(つちのじんじや)
月読宮(つきよみのみや)風之神社( かぜのじんじゃ)末社三十七社
御鎮座の由来
当社は旧号を与佐宮と称へ豊受大神を御主神として仰奉り境内末社には全国の名神大社の神々が奉斎されています 大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり国民に篤き御加護を垂れさせ給ふ大神に座します 皇祖天照大御神は天孫降臨以来皇居に奉斎せられていましたが人皇第十代崇神天皇の代に至りまして天皇の御住いと同じ皇居に御祭りしているのは誠に畏れ多いと思召され即位六年に倭国笠縫邑に御遷座になりまして皇女豊鋤入姫命が祭事を掌っていられましたこの地に三十三年間御鎮座になりましたが別に大宮地を求めて鎮め祭れとの天照大御神の御神勅がありましたので同三十九年八月に当地を大宮地と定め給いて大和国笠縫邑より遷御されたのであります
当地で始めて宮殿を建立され大御神を奉斎されたのであります 此の時同時に豊受大神を合せ祀られたのが当社の創始でありまして今から二千四十一年前のことであります境内を比沼の真名井ケ原と称へ孤立したー丘陵を形成し御神霊の鎮り座すに相応しい神秘な霊域を出御されます 豊鋤入姫命は各地に大宮地を求めて御遷幸中既に老令に向かわれましたので途中第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が御引継ぎになられ垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と定められ御鎮座になったのであります 笠縫邑を出御されてより五十年間の歳月を経ております
然しながら豊受大神は御鎮座以来御移動がなく此の真名井ケ原に鎮り給いて万民を恵み守護されて来ました
ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に皇祖天照大御神の御神勅が天皇にありました その御神勅は「吾れ既に五十鈴川上に鎮り居ると雖も一人にては楽しからず神饌をも安く聞食すこと能はずと宣して丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告げでありました 同様の御告げが皇大神宮々司大佐々命にもありましたので 天皇に奉上されたところ非常に驚き恐れ給ひて 直ちに伊勢国度会の山田ヶ原に外宮を建立され 大佐々命をして豊受大神を御遷座になったのであります 今から数へて千五百五年前のことであります 然しながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の信者は引継ぎ大神の御分霊を奉斎して元伊勢豊受大神宮と尊称し現在に及んでいるのであります一説に第三十一代用明天皇の御代に皇子麻呂子親王が凶賊を退治し給う時 当社に賊徒平定の祈願を籠められ御神威によって無事に事変が鎮定したので報賽として社殿その他の建物をも併せて造営せられ 専ら伊勢国外宮神宮に模倣して本殿別宮其の他の建物をも併せて増祀あらせ給うたと言います
爾後式年を定め当社の建築法は一に之に則るべく永く之を恒範として甲子六十一年目毎に改築して来たのであります 其の挙あるや専ら国主の監護並に金穀の寄進を仰ぎ従って遠近諸国の崇敬者の協賛によって維持保存を得たのであります
明暦二年征夷大将軍源家綱公疱瘡平癒のため 時の国主四位侍従源高国公を以って本殿並に諸建築物を造営修補せられました (棟札現存)
爾来旧宮津藩主本荘宗武公に至る迄崇敬弛まず祭事の節は必ず参拝又は代拝あり
尚恒例として年々社領高四石六斗四升二合を寄附されていました主な祭事
元旦祭 節分祭 例祭四月二十六日 八朔祭九月第一日曜日
注 右由緒は古文献により記載す 第四十三代元明天皇和銅六年に丹波国を割きて丹後国を設く旧くは丹波国なり
神社由緒書きより
【由 緒 (History)】
由緒
当社は、豊受大神をお祀りする神社で、正式社名は豊受大神社であるが、一般にその上に元伊勢外宮を冠してお呼びしている。
大神は人類生存上1日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、崇敬者に篤き御加護を垂れさせ、給う大神に座します。社伝によれば、元伊勢内宮皇大神社に奉斉する皇祖天照大御神は人皇第十代崇神天皇39年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と御神勅を下されたので、それまで祀られていた大和国笠縫邑より当地(大江町字内宮)に遷幸されたのであるが、此の時同時に豊受大神を当船岡山に合せ祀られたのが当社の創祀であり、いま(平成5)から2051年前のことである。
境内は一名 比沼の真名井ケ原と称へ孤立した一丘陵を形成し御神霊の鎮まり座すに相応しい神秘な霊域で一万余坪の御山である。
天照皇大神は4年間御鎮座になりましたが、さらに大宮地を求めて当地を出御され第十一代垂仁天皇25年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と崇められ御鎮座になった。
しかし乍ら豊受大神は御鎮座以来移動がなくこの真名井ケ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されたきた。
ところが536年後の第二十一代雄略天皇22年に皇祖天照大神の御神勅が天皇に下った。その御神勅は「われすでに五十鈴川上に鎮り居ると雖も1人にては楽しからず神餅をも安くきてしめすこと能はずと宣らして丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告げであったので、直ちに伊勢国度会の山田ケ原に外宮を建てられ、豊受大神を御遷座になったのである。今から数えて1513年のことである。
しかしながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は引き続き大神の御分霊を奉斎して元伊勢外宮などと尊称し現在に及んでいる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・〈四所引宮〉
・社殿の左右に並ぶ・土之神社・多賀神社
・〈社殿向かって右並び〉土之神社(つちのじんじや)
・〈社殿向かって左並び〉多賀神社(たがじんじや)
・〈社殿向かって右後〉風之神社( かぜのじんじゃ)
・〈社殿向かって左後〉月読宮(つきよみのみや)
・末社三十七社
〈かつて37軒の社家があった 37社の末社はそれぞれの社家が1社ずつ祀っていたと云う〉
〈本殿の後 向かって右奥4宇と1社〉向かって右から
・繁昌神社・鹿嶋神社・神南神社・蓬戸神社
・金刀比羅神社
龍燈の杉
〈本殿の後向かって左奥4宇と風宮神社〉向かって右から
・東羅神社・瀧之神社・種木神社・竈原神社
・風宮神社
〈境内向かって右の境内社7宇〉向かって左から
・横河神社・青榊神社・保浪神社・平岡神社・礒之神社・甲之神社・小篠神社
〈境内向かって右の境内社11宇〉向かって左から
・白鬚神社・福徳神社・南野神社・榊原神社・姫若神社・椿本神社・祓戸神社・日吉神社・酒造神社・保養神社・岩崎神社
〈境内向かって左の境内社 9宇祠と1社〉向かって右から
・知恵神社・鏡作神社・大若神社・御釼神社・和幣神社・榊森神社・若宮神社・蜂須神社・天田神社
・御幸神社
・神饌所
・神楽殿
・黒木鳥居
〈黒木鳥居・・・極めて原始的な鳥居の形式 樹皮のついたままの鳥居のこと〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹波郡 9座(大2座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 比沼麻奈為神社
[ふ り が な ](ひぬまなゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hinumanai no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社
現在 式内社 比沼麻奈為神社の論社は 三つあります
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
豊受大神宮(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 豊受大神宮(伝承地)について 遷幸順に
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 | 比沼麻奈為神社 (京丹後市峰山町久次字宮ノ谷) |
(与謝郡比冶山頂麻奈井原) | 奈具神社 (京丹後市弥栄町船木) |
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真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
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豊受大神社 (福知山市大江町天田内) |
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藤社神社 (京丹後市峰山町鱒留) |
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摂津国 | 大神木神社〈假宮・姫宮〉(吹田市山田市場) (旧:摂津国三島郷大神木) |
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伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 (伊勢市豊川町) |
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受⼤神宮(外宮)
福知山市大江町の゛元伊勢三社゛について
福知山十景
元伊勢三社 Motoise Sansha
元伊勢三社とは、(元伊勢外宮)豊受大神社、(元伊勢内宮)皇大神社、天岩戸神社の総称です。
ここ(元伊勢外宮)豊受大神社は、丹後地方へ天下った農業の神様「豊受大神(とようけおおかみ)」がまつられた神社で、伊勢神宮外宮の元宮と言われています。福知山市観光振興課 現地案内板より
・元伊勢内宮 皇大神社(福知山市大江町内宮)
・〈元伊勢外宮〉豊受大神社(福知山市大江町天田内船岡山)
・〈元伊勢内宮 皇大神社 奥宮〉天岩戸神社(福知山市大江町佛性寺)
詳しくは
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京丹後鉄道 大江駅から府道9号経由で北上 約2.0km 車5分程度
府道9号の入り口に社号標と案内板があります
社務所の横には゛近畿五芒星゛の案内板があります
石燈籠が建ち 石段があります
豊受大神社(福知山市大江町天田内)に参着
石段を上がると黒木鳥居が建ちます
〈黒木鳥居・・・極めて原始的な鳥居の形式 樹皮のついたままの鳥居のこと〉
一礼をして 黒木鳥居をくぐると 石垣が組まれた一段高い境内に社殿が建っています
社殿は南南西を向いて建ちます
社殿の正面には 注連柱の様に立つ二本の御神木に注連縄が掛けられています
紙垂(しで)〈白い紙飾り〉のある この注連縄には 神様がいらっしゃる神聖な領域である゛常世(とこよ)゛私たちの住む世界である゛現世(うつしよ)゛を分ける印を意味していて 境界を作り 神域に不浄なものが入り込むことを防います
深く一礼をして 注連縄をくぐり抜けて
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 茅葺の御本殿
拝殿の両脇・両後には 四所引宮
境内社が 社殿をコの字に取り囲むように祀られています
社殿に一礼をして 参道石段を下ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛久次村に在す゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為神社
比沼麻奈為は假字なり
〇祭神 豊宇賀能賣神
〇久次村に在す〔舊事記〕
〇神名秘書云、酒殿神者、伊弉冉尊子、和久産巢日神子、豊宇賀能賣神、〔中略〕丹波國與謝郡比沼山頂有井、其名號ニ麻井、此處居神也、同竹野郡奈具社亦同神也、
〇倭姫世紀云•雄略天皇廿一年丁巳十月、倭姫命夢数覚給久、皇太神吾一所耳不坐、御饌安不ニ聞食、丹波國與佐之小見比沼之魚井原坐、道主子八乎止女乃齋奉、御僕都神止由氣太神乎、我坐國欲止調覚給支、爾時大若子命乎差使、朝廷仁令ニ参上、御夢狀令レ申給支、即天皇勅、汝大若子使罷往天、布理奉宣支、故率ニ手置帆負彦狹知二神之齋、以ニ齋斧齋鋤等、始採ニ山材、擢ニ立實殿、而明年七月七日、以ニ大佐々命天、從ニ丹波國余佐郡眞井原〔志天〕奉レ迎ニ止由氣皇太神、‘度會山田原乃下津磐根爾、大宮柱廣敷立、高天原爾千木高知、鎭定坐止、稱解竟奉利、奉饗利神賀告詞白賜
〇鎮坐傳記云、御問城入彦五十瓊殖天皇三十九歳壬戌、天照太神乎遷ニ幸但波乃與佐宮、積ニ四年奉斎、・・・・・・
・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 比沼麻奈為神社について 所在は゛此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
【抜粋意訳】
比沼麻奈為(ヒヌマナヰノ)神社
此治山の麓 鱒留村にあり、藤社大明神といふ、〔神社遺志流倍、考案記、久美縣神社調、〕
盖 豊宇可乃賣神を祀る、〔摂津國風土記、〕
〇按 摂津國風土記、比沼を比遅に作り、古事記裏書引丹波風土記、共に比治に作る、今猶 比治山あり、之に據に比沼疑は、比治の訛りなり、姑附て考に備ふ、
上古皇孫の命 天降坐時、天村雲命天上に参上りて、食國の水は熟(ニゴカ)らす、荒水に在けりと奏せば、神御祖命 天忍石(アマノオシハ)の長井の水を取り八盛(ヤモリ)て、誨給て、此水持下て、皇太神の御饌に八盛献て遺水は食國の水上に灌和て、朝夕御饌に献れと詔ひき、其時 日向高千穂宮の御井定め崇居奉り、又 但波眞井石井に鎭移し居ゑ、其後止由氣宮の御井に遷居て、二所皇太神の朝ダ大御饌に仕奉る、所謂但波眞井即是也、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 比沼麻奈為神社について 祭神と所在について考証にしています
所在は゛鱒留村 字大光田゛〈現 藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)〉と記しています
゛久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども゛〈現 比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)〉とあり 論社とみずからとなえているが 確証がないと記しています
【抜粋意訳】
比治麻奈為(ヒヂマナヰノ)神社
祭神 豊宇加能賣(トヨウカノメノ)命
今按等由氣大神宮儀式帳に天照シ坐皇大神云々 大長谷(オホハセツ)天皇ノ御夢・・・・・
祭日 九月二十八日
社格 村社所在 鱒留村 字大光田(中郡五箇村大字久次)
今按 道志流倍に池臣考るに伊勢五部書類 其外の書又本居氏平田氏の著書等を始 其外の書に至迄 悉比沼に作れり 皆誤なり堵養抄に比治山とあり云々 其證は攝津風土記に稻倉山昔シ上與吁可乃賣神居ニ山中以盛飯因以爲 名又昔宇可乃賣神常居ニ稲掠山而爲ニ膳厨之處後有ニ事故不可得止遂還ニ 於丹波ノ國 比遅乃麻奈韋とあり
扨今 比治山とて高き山あり 其麓に藤社大明神とて養蠶の守神なりと云が 卽麻奈奈爲神社なり 衰ては坐ども 社地廣く清らかにて 前に川流れて 式社の備紛れなし
又 久次村なる眞名井明神を專ら比沼麻奈爲と云來れども 其社は久比志ケ嶽の續にて峰山の奧なり 社地も藤社よりは狹く 其備も式社の形に非ず 安産の神なりと云も不都合なり 比治山は但馬出石郡の界にて 此遅神社も此山の南面藤ケ森村に山姥稲荷とて前に河ありて清らかなる社地なり 社は衰へて坐此神社も池臣出石郡巡村せし時に考出しなり
そは藤森とは 比治が森なり 藤社は比治社なり 共に藤と唱へ換たるなり云々とみえたる據ありて聞ゆるが 上に式社考にも鱒留村とし豊岡縣神社取調記にも同所とせり故今之に從ふ
【原文参照】