豊比咩神社〈豊姫神社〉(とよひめじんじゃ)は 由緖は不詳ですが 社説には天平年中(729~749年)の鎭座と云う古社です 江戸時代は゛宝満宮゛と称していたようで 明治六年(1873)には村社に定められた 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
豊比咩神社〈豊姫神社〉(Toyohime shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市北野町大城1115
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》玉依姫命(たまよりひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
『福岡県神社誌』中巻〈昭和20年〉に記される内容
【抜粋意訳】
村社 豊姫神社
三井郡大城村大字大城字大屋敷
祭神 豊玉姫命
由緖 不詳、明治六年三月十四日村社に定めらる。
社説に天平年中の鎭座なりと云ふ。例祭日 舊暦十一月十五日
主なる建造物 本殿、幣殿、拜殿、社務所
境内坪数 四百二十八坪
氏子區域及戸数 十七戸
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に封戸 並びに位田が充てられています
【抜粋意訳】
卷九 天安元年(八五七)冬十月丁卯〈三〉
○丁卯 在に筑後國に從三位 高良玉垂命名神 從五位下豐比咩(トヨヒメノ)神等 充封戸(フツフゴ)并位田を 又請ふ僧六十人を於冷然院に限て三ケ日を轉に讀 大般若經
【原文参照】
天安元年(857)5月に豊比咩神社の社殿を焼失した際 高良玉垂宮にも被害があった記録が記されています
【抜粋意訳】
卷十 天安二年(八五八)夏五月甲戌〈十四〉
○甲戌 雨終夜不止 先是より 高良玉垂神 及び 比咩神 等の正殿遇く失火 位記皆被に燒損 仍今日勘て舊文を案 更に令書之 玉垂〔但彦〕神 本位從三位 今授に正三位を 比咩神本位從五位下 今授に從四位下を 又同神殊に授くに封廿七戸を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
豐比咩神が 官社に列したことが記されています
【抜粋意訳】
卷三 貞觀元年(八五九)秋七月七日庚申
○七日庚申 筑後國 從四位下 豐比咩神 列を於官社に
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷九 貞觀六年(八六四)七月廿七日〈辛亥〉
○廿七日辛亥 勅曰 去年七月(フミツキ)廿五日 頒下五畿并に伊賀 伊勢 志摩 遠江 相摸 上総等國に云 鎭護國家を消伏す災害を 尤も是れ敬ひ神祇を 欽むの祭禮を之所なり致す也 是を以て格制頻り下し 警告慇懃なり 今諸國の牧宰不愼制旨を 專任て神主禰宜祝等に 令神社を破損し 祭禮疎慢なら 神明由て其發し祟を 國家以て此を招く災を 今欲す令に諸社を一時に新たに加んと華餝し 而經月を踰て年を 未有に修造 宜早く加に修餝を勿る致す重怠を
進に筑後國 從二位 高良玉垂命の神階を加に正二位を 從四位下 豐比咩神に從四位上を 武藏國 從五位下 若雷神に從五位上 右京の人無位民の首(ヲフト)方永に賜姓を眞野臣と 天足彦國忍人命之後也
【原文参照】
高良玉垂命名神と豐比咩(トヨヒメノ)神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十六 貞觀十一年(八六九)三月廿二日庚辰
○廿二日庚辰 進に筑後國 正二位 高良玉垂命の神階を加に從一位を 授に從四位上 豐比神に正四位下 但馬國從五位上養神 石見國從五位上物部神並正五位下 豐後國无位西寒多神從五位下 令に下総國非違使を帶劔を把笏を
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・豊比咩神社 一座 巳上 筑後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後國 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社について
・豊姫神社〈天満宮境内〉(久留米市)
・豊比咩神社(久留米市北野町)
・赤司八幡宮(久留米市北野町)
・高良大社(久留米市)に合祀
〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉
・新開宝満神社(高田町北新開)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西鉄甘木線 大城駅から南下 約2.5km 筑後川を渡り東へ 車7分程度
筑後川の土手を走ると見えてきた鎮守の杜があります
道路沿いに鳥居が建ちます
車を降りてお参りをします
鳥居の扁額には゛宮地嶽神社 玉垂御子神社゛と刻字があります
豊比咩神社〈豊姫神社〉ではなかったようです
゛宮地嶽神社 玉垂御子神社゛に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 境内に進むと
由緒の案内板があり
南宮司 宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)玉垂御子神社(たまたれみこじんじゃ)
(北野町大字金島字米出(こめだし)に祀る)
筑後川は太古から山地を浸食(しんしょく)して谷を穿(うが)ち、土砂を流して、沖積地造りながら網流していた。平地に拡がるにつれて一定の本流ができて、やがて蛇行(だこう)するようになった。そうなれば大雨が続くと水はけが悪くて、洪水となり害を起こす、そこで大城・金島地区では、南部の大湾曲(わんきょく)する基部(もとぶ)に洪水時 水捌(みずはり)のため明治三十一年(1898)に金島放水路が開削された。
ところで金島の宮司地区は、この放水路のため部落の大部分が南と北に分断されて、家屋の移転をよぎなくされた。
従って氏神の宮地嶽神社・玉垂御子神社も昭和十五年(1941)十月一日に現地に遷座を完了した時 恰(あた)かも皇紀二千六百年に当り、鳥居もその折に新しく奉献されている、その額には珍しく二つの神社名が二行に刻まれている、祭神は、宮地嶽神社の主神は神功皇后で脇神はお子神で左は藤髙磨勝村大明神、右に藤助磨勝頼大明神、別に八神があり、開運、交通安全、商売繁昌のご神徳がある。一方玉垂御子神とは、高良神社に祀る武内宿弥のお子神で、長子の斯礼賀志命(しれがしのみこと)神外八御子神とあるが、実のところ宮地嶽神社と同殿に祀ってあるのは、不動明王との説もあるが、このことは昔からの神仏混淆(しんぶつこんこう)の名残であろうと思われる。皇紀二千六百年奉納の鳥居をくぐり境内に入ると、遷座以前の奉納物は、旧藩末から明治初期のもので、その他は昭和十五年以降のものである、なお遷座記念の碑があって、少い戸数で果たされた苦労を伝える尊い記念碑で、また昭和四十五年神社修理の寄附芳名碑が並んで建造されている、なお米出は米を船積したところである。
現地案内板より
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には幣殿 本殿が祀られています
境内には゛水神゛が祀られていました
境内に一礼をして
筑後川の土手を下りるように100m程下ると豊比咩神社の社頭の鳥居がありました
豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町)に参着
こちらの鳥居には゛豊比咩神社゛と刻字があり 間違いありません
一礼をして 鳥居をくぐります
゛豊比咩神社 修復記念碑゛があります
平成の初め頃には 社殿は朽ちていたらしく
その後の修復記念碑なのだと想います
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 祭神・所在は不明と記しています
久留米志の説として三説を挙げています
一、今は廃絶している
一、御井郡上津荒木村有に小祠 乙姫社
一、御原郡塚島有に石蒙 豊比咩
【抜粋意訳】
豊比咩神社
豊は 登與と訓べし、比咩は假字なり、
〇祭神 明か也
〇在所詳ならず久留米志云、古昔天子數授に位 豊比咩神、或充に封戸、或更、書記等、文徳實錄、三代實錄所載皆謂に此神也、今廃に失其地、或云、御井郡上津荒木村有に小祠、稱に乙姫社、是其神、或又云、御原郡塚島有に石蒙、稱に豊比咩、即此、未知に是否、〔考証云、豊玉姫命乎、郡名 三井坐に與井同訓、蓋以に三神坐名地歟、此三坐前後海神陰神、而中日陽神也、此表に水中含陽生物云々例の論に足らず泥むべからず、〕
類社
豊前國 田河郡 豊比咩命神社神位
古文書、〔同前〕嘉祥三年十二月廿九日、奉授に從五位下、
文德實錄、天安二年五月甲戌、先是、高良玉垂神、及比咩神等正殿遇に失火、位記皆被に燒損、仍祐今日勘に舊文案更令書之、〔中略〕比咩神本位從五位下、今授に從四位下、
三代實錄、貞観六年七月廿七日辛亥、奉授に筑後國從四位下 豊比咩神從四位上、〔但 貞観正廿七にも見ゆ、今古文書に據る〕、同十一年三月廿二日庚辰、授に從四位上豊比咩神正四位下、古文書、〔同前〕寬平九年十二月三日、奉授に正四位上、官社
三代實錄、貞観元年七月七日庚申、筑後國從四位下 豊比咩神列に於官社、封戸 位田
文徳實錄、天安元年十月丁卯、在に筑後國 從五位下 豊比咩神、充に封戸並位田、同二年五月甲戌、同神殊授に封廿七戸、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 豊比咩神社について 高良の御手洗山にあり と記しています
この高良の御手洗山とは・高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉のことです
【抜粋意訳】
豊比咩(トヨヒメノ)神社
今 高良の御手洗山にあり、〔筑後神社改正調べ〕 豊比咩命一名淀姫と申す、蓋 海神 豊玉姫神を祀る、〔肥前風土記、神名帳頭注、土人口碑、〕
文德天皇 嘉祥三年十二月壬す、蓋海神豊玉姫神を祀る、〔筑後國神名帳〕
天安元年十月丁卯、封戸位田を充奉り、〔文徳実録〕二年五月甲戌、從四位下を加へ、〔文徳実録、筑後國神名帳〕
清和天皇 貞観元年七月庚申、官社に預り、〔三代実録〕六年七月辛亥、從四位上を給ひ、〔〇按 三代實錄、本年正月甲申、既に此叙位を載る者、恐らくは桁也、今筑後國神名帳に據て之を削る、〕十一年三月庚辰、正四位下を授け、〔三代實錄、筑後國神名帳〕、
醍醐天皇 寬平九年十二月甲辰、正四位上に叙され、〔筑後國神名帳〕、
延喜の制、名神大社に列る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 豊比咩神社について 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )〈現 高良大社(久留米市)に合祀〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉〉と記しています
【抜粋意訳】
豊比咩神社 名神大
祭神 豊比咩神
今按 社傳に海神の女豊玉姫命を祀るとあれと豊前國田川郡豊比咩神社 肥前國佐喜郡與止日女神社とみえ 肥前風土記に此川上在 石神名謂世田姫海神之長女也とあれと 必ずしも豊玉姫命と云へき證もあらねば式の神名によりて 豊比咩神」と記すそ正しかるへき故今社傳に從はす
神位
仁明天皇 嘉祥三年十二月廿九日奉授從五位下〔天慶七年解文〕
文德天皇 天安二年五月辛酉朔甲戌 雨終夜不止先是 高良玉垂神 及 比咩神等正殿遇失火位記皆被焼損仍今日勘舊文案更令書云々 比咩神本位從五位下 今授從五位上 貞観元年七月七日庚申 筑後國從四位下 豊比咩神列於官社 同六年七月廿七日辛亥奉授 筑後國從四位下 豊比咩神從四位上 同十一年三月廿二日庚辰 授從四位上 豊比咩神 正四位下 寬平九年十二月三日奉授正四位上〔寬平以下天慶七年解文〕祭神
社格(縣社)所在 高良神社同域内 (三井郡御井町高良玉垂神社域内 )
今按 神社明細帳本社遺跡や詳ならすされと鎭坐地は高良山中なりし事は天安二年玉垂命神社及び比咩神等の正殿火災ありて位記みな焼損すと古文書に見えたる如く 神社同く火災にかかり 又 今現存する神位記も」紙に記されたるにても知られ 長保五年の十講念縁起文に両宮権現九王子とある両宮そ卽 玉垂命と當社にはおはしける 又 足利家の判物に當社姫神とあるも同し御事にて其頃まては疑はしき事もなかりしものと見えたり さて此姫神 今何處に坐すそと云んに高良社の相殿にます 八幡宮其御正體なる事知へし 其八幡と云故は 中古以來 此神を八幡の御叔母とも御妹とも云説あるよりの事なる事疑なし 故に今假に山中の新清水の地を祓清めて祭奠を修むと云る如くなるへし
【原文参照】
豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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