楯縫神社(稲敷郡美浦村木原)〈『常陸國風土記』『延喜式』所載〉

楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 創建は・紀元十八年・推古天皇十六年(608)・大同二年(807)と三説があり『常陸國風土記(713)』には「普都大神が 天降り山河の荒ぶる神を平定し 身に着けた杖・甲・戈・楯・剣・玉等を脱ぎ天帰された所」と伝承あり 延喜式内社 常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)です

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

楯縫神社(Tatenui shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

茨城県稲敷郡美浦村木原2988

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》普都主命経津主命(ふつぬしのみこと)

《配》彦狭知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)
   大己貴命二座(おほなむちのみこと ふたくら)
   宇蒼魂命(うかのみたまのみこと)
   市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)〈厳島神社合祀1873年〉
   須佐之男命(すさのをのみこと)
   神皇産霊命(かみむすひのみこと)
   熊野加夫呂岐命(くまぬかぶらぎのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

延喜式内 小

一の宮 楯縫神社 元県社

  普都主命

 磐筒男・磐筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って 此の国を平定し給う時に 自ら齋主神となって神祇を祀り給うた その為 後世戦陣の門出には命を祀るにが例となった。昔古 大神 葦原を平定し復命の時 此の地に暫時留り賜へ 楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが 同年七月三日 城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内 神代大杉 五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に 大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中 吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし 御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し 霞ヶ浦を渡御竹来二の宮 阿彌神社へ送り奉る 古式祭が行われた。往古は 御神領五十三町歩余ありしが 興国年中(西一三四〇)高師冬以 賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人 屋代信経と云う者を嚮道として 信太の荘を侵し 此の時神領不残椋奪され無禄となる。

 勤請年歴 人皇捨四代 推古天皇の十六年 宮造り六〇七 大同二年再建八〇七 文明八年再建一四七六 天正十七年藤原利勝 拝殿寄進一五八九 嘉永七年再建一八五四

 例大祭 五月十五日 神幸祭 旧六月二十一日~二十三日
 新嘗祭 十二月一日 祈年祭 二月二十五日

現地案内板より

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【由  (History)】

楯縫神杜

美浦村大字木原

 楯縫神社(たてぬいじしんじゃ)の祭神は普都主命(ふつぬしのみこと)。元県社て信太荘の一の宮としで崇敬されてきました。常陸風土記には、「普都大神が国土鎮定の大任を果たされ、高天原(たかまはら)に復命のため、身につけられていた器・杖・甲(よろい)・才・楯。剣、玉珪などをぬぎ、やがて天より迎えの白雲にのっていかれた」という伝えがあることから、社伝にはこの地を楯脱と称しのち楯縫に改められたとあります。

 創建については、紀元十八年、推古天皇十六(六〇八)年、大同二(八〇七)年の三説があります。 文明八(一四七六)年の再建は江戸崎城主 土岐原景成(とさはらかげなり)が外護(げご)棟札、天正十七(一五八九)年の再建は木原城主 近藤利勝の寄進によるものです。境内北の方に杉の巨木の根幹があり、木原の地名の起こりといわれています。

村指定文化財

狛犬(こまいぬ)(ケヤキ材、一木造り)一対

 阿形像 高さ五四センチメートル
 吽形像 高さ五〇センチメートル

 狛犬はシルクロードを通って日本に伝わりました。平安時代に、御所の中で天皇や皇后の御帳台(みちょうだい)の垂れ布の裾を押さえるために置かれた鎮子(ちんし)、または魔除けの意味で獅子と狛犬とが対になった置物が神を護る目的で神社に持ち込まれるようになりました。最初は社殿の中に置かれるようになり、主に木や焼き物で造られていましたが、江戸時代になると社殿の中から外へ置かれるようになり、石造で参道などに置かれることが多くなりました。狛犬は、向かって右側が獅子(唐獅子)で角が無く口を開けた阿形像、向かって左側が狛犬(高麗犬)で角があり口を閉じた吽形像で、二体一対となっています。

 楯縫神社の狛犬はケヤキ材の一木造りで彩色は施されていません。制作年代は、一五〇〇年代 (室町時代)と推定されます(社伝)。

美浦村教育委員会(二〇一三年)

現地案内板より

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『新編常陸国誌』下 に記される内容

祭神は 彦狭知命と云伝ふ と記しています

又 この神は専ら盾を縫ひ作られし故に 楯縫神とも申せしなり とも記しています

【抜粋意訳】

第七巻 巻六十五至巻七十一 神社 信太郡二座

楯縫神杜

〔補〕信太郡木原村にあり、祭神 彦狹知命と云傳ふ、
郡中東三十三村の鎭守にして、即本郡の一宮也、〔社記、二十八社考、二十八社略縁誌、〕

この神は神代の時に、紀伊國ノ忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御爲に、瑞ノ御殿を造り、又諸ノ祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、盾縫神とも申せしなり、〔日本紀、古語拾遺、〕

古老相傅云、上古 此處茫々たる廣原にして、杉槍處々に生ず、因りて木原と號く、或時 一人の翁 忽然出現し、里人に告げて曰く、汝等家屋甚だ拙し、•此ノ宮を見て作り立つべしと、ーツ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、郷人再拜教に從て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り、〔二十八社略縁誌〕延喜ノ制、小社に列れり、〔延喜式〕

凡 祭は正月朔より七日、及び七日御戸開十五日粥占祭、六月七月晦八月新米祭あり、〔二十八社略縁誌〕

【原文参照】

中山信名 編 ほか『新編常陸国誌』下,積善館,明32-34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763974

中山信名 編 ほか『新編常陸国誌』下,積善館,明32-34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763974

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

楯縫神社 本殿

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楯縫神社 拝殿

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・御神木

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・参道

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・二の鳥居

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・一の鳥居

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『常陸風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承

普都大神(ふつのおほかみ)が (よろい)・戈(ほこ)・楯(たて)・劒(つるぎ)を脱いだ所と記されています

※「楯縫神社社伝」には この地を楯脱(たてぬぎ)と称し のち楯縫(たてぬい)に改められたとあります

【抜粋意訳】

信太郡

ここから西に行くと 高来里(たかくのさと)があり

古老の曰(いわ天地(あめつち)の權輿(はじめ)草木(くさき)言語(ことといし) 天降(あめよりくだり)来たる神の名を 普都大神(ふつのおほかみ)と称ふ 葦原中津国(あしはにのなかつくに)を巡行(めぐり) 山河の荒梗(あらぶるのたくい)を和平したまいき 大神(おほかみ)化道(ことむけ)已畢(すでに終えたまい) 心に天歸と存し 即時(やがて)身に隨(そえ)たまへる器仗(いつのつえ)〔俗に曰ふ 伊川川惠(いつのかわへ(よろい)・戈(ほこ)・楯(たて)・劒(つるぎ) 執所(とりまいし)玉珪(たま)悉皆(みな)脱屣(ぬぎて)茲の地に留め置き 即ち白雲に乗りて 蒼天(あめ) (かへり)昇りたまいき

【原文参照】

西野宣明 [校]『常陸風土記』,和泉屋金右衛門,天保10 [1839]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536069

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸國 38座(大7座・小31座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)信太郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 楯縫神社
[ふ り が な ]たてぬひの かみのやしろ
[Old Shrine name]Tatenuhi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

楯縫神社祭神 彦狹知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)について

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承

『日本書紀』では 彦狹知命は 紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)〈楯縫連の祖神とされ
 彦狭知神は 盾を作る 作盾者(たてぬい)と記されます

【抜粋意訳】

巻第二 神代下 第九段 第二 一書

時に 
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が 大物主神(おほものぬしのかみ)に勅された
「汝(なんじ)が もし国神(くにつかみ)を妻とするなら 吾(われ)は汝(なんじ)が まだ疏心(うときこころ)〈揺れ動く心〉があると思う それ故 我が娘の三穂津姫(みほつひめ)を 汝に娶あわせ 妻とさせたい 八十万神(やおよろずのかみ)を率いて 永く皇孫(すめみま)を守り奉りなさい」

そして 還り降らせられた(地上に戻された)紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)
手置帆負神(たおきほおいのかみ)を 笠を作る「作笠者(カサヌイ)」とされた
彦狭知神(ひこさちのかみ)を 盾を作る「作盾者(タテヌイ)」とされた
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を 「作金者(カナダクミ)」〈鍛冶〉とされた
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を 作木綿者(ユウツクリ)とされた
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を 作玉者(タマツクリ)とされた

太玉命(ふとたまのみこと)を 弱々しい肩に太手繦(フトタスキ)をかけて 「御手代(ミテシロ)」とされた
この神を祀るのは これが始まりです

天児屋命(あめのこやねのみこと)は 神事を司る宗源者(モト)なり
だから 太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)をして神事に参加された

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して曰く
「吾(われ)は 天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を樹(たてて)吾孫(すめみま)に斎奉(いつきたてまつる)
天兒屋命と太玉命は 天津神籬(あまつひもろぎ)をもって葦原中国(あしはらなかつくに)に降りて 吾孫(すめみま)を斎奉(いつきたてまつり)なさい」

そして 二神をそえて従わせ遣わし 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を降らせられた

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承

神代段は  手置帆負神と共に 天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し 御笠・矛・盾を制作したと記され
神武天皇段にも 再び父と共に 太玉命の孫・天富命に率いられて山から木を伐採し 神武天皇の正殿を造営し また その裔は紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいると記しています

【抜粋意訳】

古語拾遺 一巻 神代段

 一(ひと)は聞くところによると 天地の初め伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の二神は共に夫婦と成り 大八州国(オオヤシマノクニ)及び山川草木を生み 次に生まれたのは 日の神と月の神 その後に 素戔嗚神を生まれた 素戔嗚神は常に激しく泣き喚いていた
故に 人民(ひとぐさ)を夭折(あかにさま)にし 青山は枯山と成り 父母の二神は 勅(みことのり)して曰く 汝の行いは無道(あるべきみち)ではない 早く根の国に退去しなさい」

 天地が別れ 初めに天で生まれた神の名は 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)

次に 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古語で 多賀美武須比 これは皇親神留伎命(スメラカムツカミルキノミコト)
次に 神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは 皇親神留彌命(スメラカムツカミルミノミコト) この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の祖先]

高皇産霊神が生んだ娘の名は 栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖 天津彦尊の母なり
其のの名は 天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖]
又 の名は 天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]

太玉命の率いる神の名は 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐国の忌部の先祖]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊国の忌部の先祖]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲国の玉作りの先祖]
天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)[筑紫・伊勢の両国の忌部の先祖]

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

高皇産霊の神は 八十萬(ヤヲヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集め 今後の方策を議論された

思兼神(オモイノカネノカミ)が 深謀遠慮して「太玉神(フトタマノカミ)に諸部神(トモノオノカミ)を率いて 和幣(ニギテ)を作らせ
石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で 作鏡(カガミツクリ)の遠祖]に 天香山(アメノカグヤマ)の銅(アカガネ)を取り 日像(ヒカタ)の鏡を鋳(い)させ
長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢国の麻績(オミ)の先祖 今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの由縁]に麻を植え 青和幣(アオニキテ)[古語は爾伎弖(ニキテ)]
天日鷲神(アメノヒワシノカミ)と津咋見神(ツクヒミノカミ)とに 殻(カヂ)の木を植えせ 白和幣(シロニキテ) [是は木綿(ユフ) その前の二つのもの(麻・殻)は一夜で生い茂りました]
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖]に 文布(シツ)を織らせ 天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせ 所謂、和衣(ニギタエ)古語 爾伎多倍(ニギタヘ)と言う]
櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に 八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ
手置帆負(タオキホオヒ)と彦狹知(ヒコサシリ)の二柱の神 天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名]を使って 大峡・小峡の木を伐り瑞殿(ミヅノミアラカ)を造り[古語は美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う]また 御笠と矛盾を作らせました
天目一箇神(アマノメヒトツカミ)に 雑(クサグサ)の刀(タチ)・斧(オノ)、また、(クロガネ)の鐸(サナキ)古語は佐那伎(サナギ)と言う]を作らせ それらの物が揃ったら 天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古語は 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う]を堀って
上の枝には玉を掛け 中の枝には鏡を掛け 下の枝には青和幣・白和幣を掛け 太玉命に捧げ持たせて讃えさせ

また 天児屋命(アメノコヤネノミコト)に命じて 相共に祈祷させ また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古語は天乃於須女(アメノオスメ)と言う・・・
・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

神武天皇の段

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫] は 手置帆負(タオキホオイ)と彦狹知(ヒコサシリ)の2柱の神の孫を率いて 斎斧(イミオノ)・斎鉏(イミスキ)を持ち 始めて山の木を採り 正殿(ミアラカ)を建てた 所謂 底津磐根(ソコツイワネ)に(ミヤハシラ)を建てて 高天原に届くほど搏風(チギ)は高く 皇孫命(スメミマノミコト)の御殿を作り 奉りました

その末裔は 今は紀伊国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居ます古語は正殿を麁香(アラカ)と言う]
材を採取する斎部の居る所を 御木(ミキ)と言い 殿を造る斎部の居る所を麁香(アラカ)と言うのはその

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『訂正古語拾遺』選者:斎部広成 大同2年(807年)編纂/校訂者:猿渡容盛 刊本,明治02年,木村正辞 https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047473&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式927 AD.』に所載 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社について

延喜式内社 楯縫神社には いずれも 彦狹知命を祀るとする伝承があります 下記に現在の論社を記します

常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)

楯縫神社(稲敷郡美浦村木原

丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)

・楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)

但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)

・楯縫神社(養父市建屋字宮山)

・齋神社(養父市長野字東山)
・楯縫神社〈齋神社の境内摂社〉(養父市長野字東山)

但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)

・楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)

丹波國 多紀郡 川内多多奴比神社二座(かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)

・川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR常磐線 土浦駅から 霞ヶ浦の南岸沿いに東へ約13.7km 車21分程度

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R125号の旧道を進むと左手

楯縫神社(稲敷郡美浦村木原に参着

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古名は信太郡一宮と呼んでいて 鳥居の扁額には゛一宮 楯縫神社
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進むと 二の鳥居は木製の両部鳥居が建ちます

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拝殿にすすみます

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拝殿の向かって
右手前には手水舎
左手前には御神木

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には幣殿 本殿が坐します

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 楯縫神社について 所在は゛信太郷木原村に在す、゛〈現 楯縫神社(稲敷郡美浦村木原〉と記しています

【抜粋意訳】

楯縫神社

楯縫は多天奴比と訓べし

○祭神 彦狭知命、地名記

○信太郷木原村に在す、式社考、地名記、〕例祭  日、

○鎮座記云、相 信田郡第一宮也、社側有大杉樹、周員四丈五尺余、爲神木、見者皆以為奇

 常陸誌には、今不知其所在、又未考其爲何神と云り、

類社
 丹波國氷上郡、但馬國養父郡、同國氣多郡 楯縫神社、各一座

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 楯縫神社について 所在は゛今 木原村にあり、゛〈現 楯縫神社(稲敷郡美浦村木原〉と記しています

【抜粋意訳】

楯縫(タテヌヒノ)神社

今 木原村にあり、〔巡拜舊祠記、廿八社、郡郷考

盖 彦狹知命を祭る〔日本書紀、古語拾遺、〕

郡中三十三村の民 共に以て鎭守とす、
正月七日、四月四日、七月上丑日 祭を行ふ、〔廿八社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 楯縫神社について 所在は゛木原村 (稻敷郡木原村大字木原)゛〈現 楯縫神社(稲敷郡美浦村木原〉と記しています

【抜粋意訳】

楯縫神社

祭神 經津主神

 今按 楯縫の社號による時は 彦狹知命を祭れるが如くなれど 出雲風土記意宇郡橘縫郷の條に布都怒志命之天石楯縫直給之故云楯縫と云とあるに 社説を合せて經津主命なることしるし 程遠からぬ竹來村に阿神社ありて 建御雷命を祭り 一郡九十五村の半を分て 二社にするも由あれば 今社傳に從へり

祭日 一月十五日 五月二十八日 六月十八日 九月十一

社格 縣社

所在 木原村 (稻敷郡木原村大字木原)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇茨城縣 常陸國 稻敷郡木原村大字木原

縣社 楯縫(タテヌヒノ)神社

祭神 普都主(フツヌシノ)

配祀 大己貴(オホナムチノ)二座
   須佐之男(スサノヲノ)
   宇迦魂(ウカノミタマノ)二座
   皇産霊(ムスビノ)
   市杵島姫(イチキシマヒメノ)
   熊野加夫呂岐(クマヌカブロギノ)

 創立年代詳ならず、社に拠れば 推古天皇十五年の創建とす、此の地 神代の跡にして、始め大神國平の功成り暫く此地に留り、後 竹来の里に徒り登天し給ひしと、楯縫のは蓋し大神登天に際し身に随ふ所の甲楯を脱かれし故に、楯脱(タテヌギ)と称せしを 後世 脱を縫に誤りしものなり、楯脱山の脱以て証すべしと云ふ、
 此地 上古茫々たる廣原にして、杉檜々に生ず、因りて木原と號く、或時 一人の翁 忽然として出現し、里人に告げて曰く 汝等家屋甚だ陋なり、此の宮を観て造るべしと、一尺度を授け杉の小陰に入る、郷人再拝教に從て 神前に群参し、此里に家居を始めたりと、
延喜の制式内小社に列せられ、古来 舊信太郡一の宮と称し奉り、の宮 阿彌神社と郡を二分し、其一半三十三ケ村の氏神たり、明治年縣社に列す。

 明治四十一 同村大宇須賀津 無絡社 厳島神社を本社に合併せり、
社殿は本殿、拝殿及幣殿等にして、境内は三千九百八十一坪(官有地第一種)たり、松杉陰々として四境を掩ふ、内に一巨杉あり、大神の霊を留め給ひし霊木なりと、土俗 之を神代杉と称す、周囲実に五丈八尺高さ百二十尺なりしと、惜しい哉、明治元年月命尽きて自ら倒る、今尚其根幹を存す。

 世に社号楯縫の文字に泥み、当社祭神を彦狭知命(ヒコサチノミコト)とす、特選神名牒 祭神 経津主之神とし、之を弁じて云く、

「今按、楯縫ノ社号ニヨルトキハ、彦狭知命ヲ祭レルガ如クナレドモ、出雲風士記意宇郡楯縫郷ノ条ニ、布都怒志命之天石楯縫直給之、故云楯縫トアルニ、社説ヲ合セテ、経津主命ナルコトシルヘシ、程遠カラヌ竹来村ニ阿彌神社アリテ、健御雪命ヲ祭リ、一郡九十五村ノ半ヲ分テ二社ニ属スルモ由アレバ、今社伝ニ従へリ、

境内神社 御龍社 琴平社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

楯縫神社(稲敷郡美浦村木原 (hai)」(90度のお辞儀)

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