焼火神社(たくひじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の参考論社ですが むしろ式外社と考えられています 島前(とうぜん)の西ノ島の最高峰である焼火山(たくひやま)は 隠岐の島前カルデラを生み出した火山島の中央火口丘の名残りです 約600万年前に現在の島の原型が造り出されました 隠岐を創り出した源を神体として祀る神社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
焼火神社(Takuhi Shrine)
(たくひじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
島根県隠岐郡西ノ島町焼火山
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大日霊貴命(Ohirumemuchi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社〈参考〉
・ 式外社との説もあり
【創 建 (Beginning of history)】
十四. 縣社 焼火神社
知夫郡 黒木村 大字美田の南方海角に屹立せる焼火山あり
山腹の巨巌に大空洞ありて 焼火神社その中に鎮座す
神徳と風光とを以って古くより彰れ 6月24日を以って祭日とす
土地幽遂水清く空気新にして 夏なお寒し
社殿は岩窟に倚りて壮巌神雅 自ら頸を挽せしむ
海運業者の崇敬特に数百人を宿泊せしむべき設備あり
一条天皇の御宇に創建せりと伝ふ
宇波止より18町にして社に達す『隠岐西郷町誌』 大西音吉 著 出版年月日 大正10 国立国会図書館デジタルコレクションより
焼火山(たくひさん)と焼火神社(たくひじんじゃ)
焼火神社のあるところ
焼火神社の立地は、祀られている神様と関係があります。この神社の神様は航海安全の神様です。周囲から良く見える島前の真ん中の高い山にあり、かつては、この神社に灯された明かりに向かって船を進めることで、嵐の夜にも波の届かない穏やかな海にたどり着くとができました。
神社の周囲にある内海では、カルデラの外輪山由来の島々が防波堤の役割を果たすからです。島前カルデラ
島前は630~530万年前の火山活動で形成されました。
その地形は活動の最中の陥没で作られた窪地(カルデラ)と焼火山(中央火口丘)を持ち、島前カルデラと呼ばれています。現在、このくぼ地は水没して内海になっています。島根県
参道入り口案内板より
【由 緒 (History)】
焼火(たくひ)神社について
御祭神
大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)鎮座地
島根県隠岐郡西ノ島町焼火山焼火山(海抜452m)の中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。 旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。 以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前どうぜんの各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。
例大祭は7月23日・24日の2日間、昔は島前中から集って神輿をかついだが、昭和30年の遷宮を最後に廃止された。江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保17年(1732)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおうか)。平成4年には国指定の重要文化財に指定された。 城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿きゃくでんという場所にその名残をとどめている。
山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成五年には神社から頂上まで遊歩道も整備された。10年以上かけて開通した焼火林道は市部いちぶから始まって大山おおやまへ至り、平成5年には波止はしから焼火参道までは舗装整備されるまでになり波止からは車で5分、そこから徒歩で15分で神社まで到着可能となった。
焼火神社公式HPより
http://takuhi-shrine.com/index.html
【境内社 (Other deities within the precincts)】
参道の途中に一座
社務所の手前に一座
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)隠岐国 16座(大4座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)知夫郡 7座(大1座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大山神社
[ふ り が な ](おほやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoyama no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
式内社「隠岐國 知夫郡 大山神社」 3つの論社について
・大山神社(隠岐 西ノ島町美田)
・大山神社(隠岐 知夫村仁夫)
・焼火神社(隠岐 西ノ島町美田 焼火山)
隠岐の式内社〈16座〉について
隠岐国には16座(大4座・小2座)の式内社があります
その論社も含めてご紹介します
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
別府港フェリーターミナルから焼火山へと南方向にR485号を約9.3km 車で約25分で駐車場まで そこから徒歩25分程
本来は焼火山の東側から上がっていくのが表参道のような気がします
大山遊泳場の少し先に 海からの参道入り口と思える焼火神社の鳥居が建っています
しかし 車で焼火山を上がるのであれば 西側の波止(はし)から回り込むように焼火神社遊歩道入口まで進んだ方が良いような気がします 西周りの道でも結構細い道ですから
焼火神社遊歩道入口には数台分の駐車場があります 「焼火神社」の社号が書かれている参道案内 入り口にはコンクリートの階段があり すぐにわかります
隠岐島前の最高峰 西ノ島町の焼火山(たくひやま)(452m)の中腹に鎮座し一条天皇の時代(1000年頃)の創建と伝えられます
かなりの急坂を2kmほど登ります 途中視界が開けると島前カルデラと外海を上から望めます 絶景です
参道の脇に鳥居と祠があり お詣りをします 神社名が書かれていますがかすれていて判読不能
祠の直ぐ上から 先程とは反対側の海が見下ろせます 望遠で撮ってみると海底が透けて見えています 海が透き通っているのか良くわかります
暫く進むと 比較的平らな道になり 銅製の鳥居が建っています
一礼をして鳥居をくぐります
厳めしたお顔の狛犬が睨みを効かせて座しています 会釈をしながら通り抜けます 立札には神社まであと200mとあります
50m程進むと左手に急な石段があり その上に社殿が建っています 石段を上がります おそらく境内社の一宇であろうと思います 傷み始めていますがとても立派な本殿です お詣りをします
石段を上がって来たのは良いけれど 下を見て降りるのを躊躇っていると左手に緩やかな道が付いていますのでそちらを下ります
下へ降りると看板があり 現在地は社務所で神社まで徒歩3分とあります
しかし どう見ても社務所ではなく山城を思わせる石垣が立ちはだかります
山城か大名館のように見えますが 宮司本邸と雲表閣(うんぴょうかく)と呼ばれる〈海運業者の崇敬者などが 数百人も宿泊していたという〉ものです
更に老杉に囲まれた境内をしばらく行くと再び 狛犬が座していて この お顔も厳しく 迂闊な者は通せずと申している気配を感じます
手水鉢の石は 穴が沢山開いているので 軽石なのだろうか 参道は人が歩く所のみ草がなく続いています
大木の御神木の奥には 大岩窟の中に半分を隠して岩屋に造れた社殿が建っています
焼火神社(Takuhi Shrine)に参着
御神木の手前で深く一礼をしてから
拝殿にすすみます 霧など一切出ていませんでしたが 何やら神氣が漂うようにぼやけて見えます
拝殿の扁額には「焼火山」とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
精巧を極める彫刻に飾られた社殿は享保年間(1716~1736年)の改築と伝えられています 拝殿の内部彫刻も凄い
本殿は 山の断崖岩壁の大きな空洞に鎮座しています
御垣の外側の岩肌に穴が開いていて 覗き込むと水が湧いて溜まっています
この様な山肌に水があるとは 正に神業としか言いようがありません
拝殿は 本殿の真下にありますが 本殿の向きは南 拝殿の向きは西とほぼ直角に建てられています 写真では分かりにくいのですが 拝殿の南側は すぐ断崖絶壁の斜面で見下ろすと恐ろしいぐらいです
この山肌によくぞ これだけの社殿を立てたものだと驚くばかりです
御神木の横から 振り返り社殿に一礼をして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『隠州視聴合記(Onshu shichogakki)』〈寛文7年(1667年)著〉に記される伝承
もとは焼火山雲上寺(うんじょうじ)として焼火権現(たくひごんげん)が祀られていましたが 明治以降は焼火神社と改称されました
大時化(おおしけ)のとき祈願をこめると 神の導きの光明によって救われるという故事があり 島民だけではなく諸国の舟人の海上信仰の対象となりました 焼火山縁起が記されています
【意訳】
知夫郡 焼火山 縁起
神の在る焼火山は
焼火山 雲上寺・真言宗・寺領十石・神主吉田岩見当山は 本郷より巳ほ方へ壱里三町也、端村よりは一四町 鳥居よりは九町、大山明よりは五〇町在、其路何れも険難九折を経ていたる、嶺に巨岩在り、其半腹に穴あり、是に宮殿を作れり、拝殿より長廊を造り続けり、鐘楼在り、宝蔵有、山上へ行道在て到れば神銭涌出る一壷在り、人壱銭を得る時は水難をまぬがれ疫病をさける、一銭を受けて二銭をなしける故に、日々数十倍に及、しかれどもあえてあふるる事なし、西の方に僧房在、昼夜参拝の客無絶、貴賎を不分饗応をなす、古樹立並て茂れり、山中に双鴉在り、常に堂前に遊ぶ、山樹に巣ふ、客来とする時者庭樹噪ぎ屋上に啼く、是によって社僧祠人は之を知る、神前に出て以待之、子が産れた時は反哺して去る。縁起有、神徳を記して説くにいとまあらず、神火を施して闇夜の漂船を助け給う、凡そ秋津州は言うに及ばず、高麗に到っても神火を請う時は出ずと云事なし、承久の昔し後鳥羽上皇御来島の時波瀾暴風強く、御船中御製在て神火の出事は海士村勝田山に記す、其時より焼火山雲上寺と号すとかや、是上皇の賜所の号なり、晴に望時は雲州伯州の山を見る、曇る時は墓島、赤灘、葛島等も雲霧に阻てらる、気景に勝れたる地なり、他国にも有かねる山なり、所々より多宝物を捧奉る也、宝蔵、ただ神徳の致す処にあらず、寛永之始、水無瀬中納言、勅に依て勝田の御廟へ来りし時、上皇の御取立被成山なれば、昔の跡を慕い御参詣在て、所々巡礼せられしに、彼御寄進の薬師仏も僧房に在とかや、其時之詠歌とて・・千早振神の光を今も世にけたて焼火のしるしみすらん・云々
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『隠州視聴合記』寛文7年(1667年)著者:斎藤弗緩[数量]5冊[書誌事項]写本[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037315&ID=M1000000000000066833&TYPE=&NO=
『隠州神名帳(Onshu Shinmeicho)』〈貞観5年(863)付の太政官符の命により編纂〉に記される伝承
知夫郡の15座の内に 大山明神 として記されています
【意訳】
知夫郡
従三位上 大山明神
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『隠州神名帳』続群書類従[書誌事項]写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037315&ID=M1000000000000066833&TYPE=&NO=
『隠州視聴合記(Onshu shichogakki)』〈寛文7年(1667年)著〉に記される伝承
大山神社は 大山(焼火山)を祀る神社として創祀されたのであろうと記されています
【意訳】
巻之4 嶋前紀 知夫郡 美田郷の条
按〈考えるに〉
神名帳の知夫郡に有る 大山神社は この〈焼火山〉山上の 焼火神(たくひのかみ)欤〈であろう〉謂(い)うに 脇とは 則ち この山 可為(たるべし)大山者可知矣脇は その麓根の義〈麓にある意〉欤〈であろう〉
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『隠州視聴合記』寛文7年(1667年)著者:斎藤弗緩[数量]5冊[書誌事項]写本[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037315&ID=M1000000000000066833&TYPE=&NO=
焼火神社(Takuhi Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)