高積神社(たかつみじんじゃ)は 高積山〈和佐山 わさやま〉の山頂に゛上の宮゛麓に゛下の宮゛が鎮座します 上の宮は゛髙宮・髙三所明神゛下の宮は゛氣鎭社゛とも呼ばれ 式内社の都麻都比賣(つまつひめの)神社(名神大 月次 新嘗)とも 同じく式内社の髙積比古(たかつみひこの)神社 髙積比賣(たかつみひめの)神社ともされています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高積神社 上の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
高積神社 下の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
【通称名(Common name)】
〈明治時代以前には〉
高積神社 上の宮⇒ 高三所大明神社・髙社・髙宮
高積神社 下の宮⇒ 氣鎮社
【鎮座地 (Location) 】
高積神社 上の宮⇒ 高積山〈和佐山 わさやま〉の山頂
高積神社 下の宮⇒ 和歌山県和歌山市禰宜1557
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
高積神社 上の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
《主》都麻都比売命 (つまつひめのみこと)
五十猛命 (いたけるのみこと)
大屋津比売命 (おおやつひめのみこと)
高積神社 下の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
《主》都麻都比売命 (つまつひめのみこと)
五十猛命 (いたけるのみこと)
大屋津比売命 (おおやつひめのみこと)
《配》天照皇大神、須佐男命、八王子神
大山祇神、気津別神、応神天皇
神功皇后、比賣大神
《合祀》明治四十三年(1910)旧和佐村内に点在していた三十数ヶ所の神社
〈内務省認可により高積神社に合祀〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
高積神社 御由緒
高積神社は、和歌山市の東部に南北に続く和佐山連峰の北端に聳える「高積山」(通称「高山」「高の山」の山頂(海抜二三五米)に位置している。地番は以前「海草郡和佐村大字禰宜字高山一五五七番地」だったが、昭和三十一年(一九五六)の町村合併に伴い「和歌山市禰宜一五五七番地」(下の宮は禰宜一三九〇番地)となっている。
当神社は「高山」の地にあることから、古くから「高の御前(ごぜん)」「高の宮」の名で呼ばれており、人々の信仰は格別に厚い、特に疱瘡(天然痘)流行の節は、県内外からの参詣者が絶えなかったとのことである。なお、山頂にある本殿は「上の宮」、麓にある遥拝所は「下の宮」として親しまれてきた。
主祭神は、「都麻津比売命(つまつひめのみこと)・五十猛命(いたけるのみこと)・大屋津比売命(おおやつひめのみこと)」の三人の兄妹神で、紀ノ国に木の種を伝えられた素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子(おんこ)である。
垂任天皇の十六年、日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)両神宮(りょうじんぐう)が浜宮(はまみや)から秋月に遷られた折、この三神が秋月から伊太祈曽に遷られた、更に、文武天皇(もんむてんのう)の大宝二年(七〇二)に三神分祀の勅令によって、五十猛命は伊太祈曽に都麻津比売命(つまつひめのみこと)は高山に大屋津比売命(おおやつひめのみこと)は川永宇田森に祀られることになった。一応は三神分祀だが、中央に都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀り、両側に他の二神を祀っていることから、当神社を「高三所大明神(たかみどころだいみょうじん)」とも称えられてきた。なお、明治四十三年(一九一〇)に、旧和佐村内に点在していた三十数ヶ所の神社が、内務省認可により高積神社に合祀された。
当神社の所在地「高山」は、麓から八百米余登った景勝の地にあり、北方の紀ノ川は帯のように豊かに流れ、西方の和歌山市は足下に見え、遠く淡路・四国まで一望できる。東は竜門山、高野山、南は生石山や有田の山波が続いている。また、愛郷家によって育てられた春の桜が全山を色どり、秋の紅葉とともに風情は一入(ひとしお)である。
・古銭埋蔵地(こせんまいぞうち)
大正十四年(一九二五)本殿前のすぐ北の平地で、古銭一万数千枚が発掘され、本県の文化財に指定されている。・古城跡(こじょうあと)
高積山の南方、五百米余の城ヶ峯(通称「城(じょう)」と言い、海抜は二五五米・和佐山連峰の最高峰)は、延文五年(一三六〇)の南北朝時代の古戦場で、土塁・空堀などの陣地跡が残されている。[例祭日] 春祭は「上の宮」で行う。
春(四月第二日曜日)・夏(七月十五日)・秋(十月体育の日)・冬(十二月十五日)平成十六年(二〇〇四) 高積神社総代会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
髙積神社は、和佐荘祢宜高山(現在の高積山)の上にあって、『延喜式』「都麻都比売神社、本国神名帳従四位上都麻都比売大神」が即ちこの御神である。
古から相伝えて高社とも、又高ノ宮とも、又高三所大明神とも、又高ノ御前とも称へ奉り、和佐高山の嶺に坐すによって高と云うのである。
高三所大明神と云うのは1社であるが、後述の三神相殿に在すから云うのである。
『続紀』に、「大宝二(702)年二月己未、分遷伊太祈曽、大屋都比売、都麻都比売三神社」とあって、この御神初め、五十猛命、大屋都比売命と三神ともに今の日前・国懸両神宮の鎭り座す地に在わしたが、垂仁天皇16年目、日前・国懸両神宮浜の宮より今の地に遷り給うたによって、五十猛命の三神その地を去って、今の山東の伊太祈曽の地に遷り給い、その後大宝2年に三神を分遷の勅命があり、三神所を異にして鎭り座したのである。
五十猛命は、山東荘にましまし、大屋都比売命は紀の中の北平田荘に遷り、都麻都比売命はこの高山に遷り給い、三神三所に分れ鎮り座したのであるが、三神ともにその神を中央に祀って本社とし、外二神は猶左右に祀って旧の如く三神となしているのである。
これ則ち是地の名を高三所大明神と称え奉っている所以である。
『日本書紀』(神代)の、宝剣出現の段の一書にみえ、五十猛命らとともに紀伊国に木種をもたらした神と伝えられる。
当社の所在地高山は、南北朝時代の古戦場で未だにその遺跡があり、又50数年前萬余の古銭が発掘されたこともある。
和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1034
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・高積神社 上の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
・高積神社 下の宮(Takatsumi shrine)(和歌山市祢宜)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・当初の鎮座地は 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の地と伝えます
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
全国 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社とともに 紀伊國 都摩都比賣神が 並從四位下を奉授されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品
・・・・
・・・・紀伊國
從四位下 伊達神 志摩神 靜火神 並正四位下
從五位下勳八等 丹生都比賣神 伊太祁會神 大屋都比賣神 都摩都比賣神 鳴神 並從四位下
從五位下 須佐神 熊野早玉神 熊野坐神 並從五位上
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
紀伊國には 10座の名神大社が記されています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・日前(ヒノマヘノ)神社 一座
国懸(クニカカスノ)神社 一座
伊太祁曽(イタキソノ)神社 一座
大屋都比賣(オホヤツヒメノ)神社 一座
都麻都比賣(ツマツヒメノ)神社 一座
鳴(ナルカミノ)神社 一座
伊達(イタテ)神社 一座
志磨神社 一座
静火(イツヒノ)神社 一座
須佐神社 一座
巳上 紀伊國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
高積神社(和歌山市祢宜)は 三つの式内社〈①都麻都比賣神社(名神大 月次 新嘗)②髙積比古神社③髙積比賣神社〉の論社となっています
①都麻都比賣神社(名神大 月次 新嘗)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 名神大社
[旧 神社 名称 ] 都麻都比賣神社(名神大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](つまつひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsumatsuhime no kaminoyashiro)
②髙積比古神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙積比古神社
[ふ り が な ](たかつみひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takatsumihiko no kaminoyashiro)
③髙積比賣神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊國 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙積比賣神社
[ふ り が な ](たかつみひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takatsumihime no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 都麻都比賣神社 名神大の遷座の歴史について
①゛当初の鎮座地゛は 現在 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の鎮座する地
当時 都麻都比賣神社は 三社〔伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣〕で 一つの社とされていた
日前宮が 当初の鎮座地 濱宮(和歌山市毛見)から 現在の(和歌山市秋月)へ遷座した時期は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉と伝えられます
・日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)
②゛二度目の鎮座地゛は 日前・國懸両神宮に社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へ遷座
日前宮が 当初の鎮座地 濱宮(和歌山市毛見)から 現在の(和歌山市秋月)へ遷座した時期は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉
その頃に 三社〔伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣〕が 秋月(現在の日前宮鎮座地)より 山東(現在の伊太祈曽周辺)〈亥の森〉に遷座されたと推察されています
・三生神社(和歌山市伊太祈曽)〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉
③゛三度目の鎮座地゛は 大宝2年(702年)三神〔伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣〕で一つであったものが 3社に分遷され 三神 所を異にして鎭座したと伝わります
大宝二年(702)二月 巳未ノ日 を遷座の日 とする説
『続日本紀(Shoku Nihongi)』文武天皇 大宝二年(702)二月 巳未
「〈勅命〉この日 伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣 を分遷〈分けて遷座〉し 三つの神社とした」に記される
④゛3社に分遷後 式内社 都麻津比賣神社゛は 現在は 三通りの論社が存在
3社分遷〈三神〔伊太祁曽 大屋都比賣 都麻津比賣〕が 各々遷座して 所を異にして鎭座した〉によって 式内社 都麻都比賣神社の鎮座地については その後はよくわからず 現在は 三通りの論社が存在しており いずれが正しいのかは不明
・都麻津姫神社(和歌山市吉礼)
・都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)
・高積神社(和歌山市祢宜)⇒
伊太祁曽神社(名神大月次相嘗新嘗)(いたきその かみのやしろ)
・伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
・三生神社(和歌山市伊太祈曽)〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉
大屋都比賣神社(名神大月次新嘗)(おほやつひめの かみのやしろ)
・大屋都姫神社(和歌山市宇田森)
都麻都比賣神社(名神大月次新嘗)(つまつひめの かみのやしろ)
・都麻津姫神社(和歌山市吉礼)
・都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)
・高積神社(和歌山市祢宜)
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式内社 髙積比古神社・式内社 髙積比賣神社について
『紀伊国名所図絵』では「高津比古神は山上に齋き奉り 高津比売神は山下に齋き奉りし」とあり
つまり
山上は 式内社 髙積比古神社(たかつみひこの かみのやしろ)
山下は 式内社 髙積比賣神社(たかつみひめの かみのやしろ)と記しています
『紀伊国名所圖會(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
【抜粋意訳】
紀伊国名所圖會 巻之四上
氣鎮神社(きつめのじんじゃ)
〔禰宣村東二町にあり〕祀る神 紀直祖(きのあかたのそ)天御食持神 例祭(れいさい)毎歳(まいねん)九月廿日
〔本国神名帳に云ふ 従四位上気津別神 〇社伝に大直日神と御同体なりといふ あるひは和佐の山上に坐(いま)すを高津比古の神とし 気鎮乃神はすなはち高積比賣の神なりともいへり 〕尚ほ くわしくは 次下の高御前神社にいふべし
高御前神社(こうのごぜんのじんじゃ)
〔同じ村の東 山のうへにあり〕祀(まつ)る神三座〔高津比古神 高津比賣神 氣鎮社〕
当荘五ヶ村〔禰宣・中村・関戸・井ノ口・栴檀木 以上五ヶ村〕産神(うぶすな)にして 例祭(れいさい)毎年九月廿日 又 毎歳(まいねん)十一月十四日夜戌刻(よいぬのこく)薪十二束を積みてこれを燃やし 烈火中を社司ふみ渡るの神事あり
〔延喜式神名帳に曰 高積比古神社(たかつみひこのじんじゃ)・高積比賣神社(たかつみひめのじんじゃ) 本国神名帳」に云く従四位上高積比古(たかつみひこ)神社・高積比賣(たかつみひめ)神社〕
社伝に云 高神社(たかのじんじゃ)と申し奉るは 則(すなわち)大直日神にまします 魔神降服(まじんこうふく)の御姿(おすがた)にして 甲冑を帯し 矛(ほこ)を持ちたまへり されは軍神(ぐんしん)とも仰がれ玉ひ または悪風邪気を駆除したまふをもて 小児疱瘡の憂(うれひ)を免れしめ玉へりといふ
〔疱瘡流行のときは 山下(さんか)氣鎮社へ土人(どじん)群参(ぐんさん)して これをいのるに かならずまぬがる々といふ
〇当社は或説に 天照大神の荒魂をまつるなりともいふ 倭姫世紀(やまとひめせいき)に曰く 多賀宮一座 豊受荒魂なり 伊弉那伎神 所生神名 伊吹土戸主 亦名曰 神直日比神云々 此の記によっていへるなるべし 多賀之宮は 八社たがひありて 處とするにたらざれども 社伝の大直日神といへるに 天照大神の荒魂なりといへるが よくも叶へれば さもあるべきか
按するに古事記に 伊弉那伎大神 伊弉那美大神の黄泉国(よみのくに)に至りたまふを追求きたまうて つひに穢國のけがれをうけま玉ふをもて 筑紫日向橘小門之阿波岐原にいでまし 御身の汚垢(けがれ)を禊祓なし玉へる段に 於是詔之上瀬者速 下瀬者瀬弱而 初於中瀬随迦豆伎而 滌時所成坐神名 八十禍津日神 次大禍津日神 此の二神者 所至其穢繁国之時 因汚垢而所成之神なり 次為直其禍而所成神名 神直毘神 次大直毘神 次伊豆能売神云々 これ今も世間にありませるなれば 神の御教えに いにしへよりかく汚垢を除ふの禊わざはあるなり
扨(さて)神直毘・大直毘とは 其の禍を直したまふ所の御神なり 伊豆能売神とは 其の穢・悪・禍を神直びに直し清めて 明けくなし給へる御神なり
これをもて思ふに 社伝に当社の御神を大直毘神とし 魔神降服の御正体といへること いと由縁ある事にこそ 魔神とは 則かの禍津日神をいふなり
また世に疱瘡の神などいへるものは もとより夜見の国の穢氣の成りませる神なれば 人の目には見えずして もろ々々の禍害をなすなり
氣のわざわひをなす例は 書記 神武巻に曰く 天皇独與皇子 手研耳命 帥軍而進至熊野荒坂津 因誅丹敷戸畔者 時 神吐毒氣 人物咸瘁云々
又 古事記 水垣宮巻に 天皇の大御夢に 大物主神の詔に 令祭我御前者神氣不起云々
これ天下疫氣の行はるヽときのことなり これらみな其証なり こヽをもてその穢氣を神直び大直びに直したまふ御神なるをもて 氣鎮の義をとりて 氣(いぶき)の伊夫と鎮の志とを略きて 伎豆の神とは称へたてまつるなり
或いは云ふ 氣は疫氣・神氣などの氣にて 祁豆の訛ならんといへるはわろし 氣の伊を略ける類をいはば なほ置の於を略きて日置・玉置などといはんがごとし さて氣鎮のことは 遷都崇神祝詞に 山川乃広久清地爾遷出坐弖 神奈我良鎮坐世止辞竟奉とあるも その崇神をうつし鎮むるのことなり
また 高積の美を豆の韻通にて 高とは是を美称ふる御名なり また高津比古 比賣の御名は 高積の美を略けるなり されば当社三座の御神を大直毘の神と申し奉ること 是にていと々々明けくきこゆるなり
さてこれをわかちて 高津比古神は山上に齋き奉り 高津比売神は山下に齋き奉りしを すべての御名を氣鎮社と申せしなるを のちにあやまりつたへて 三座の神のごと齋き祀るなるべし
しかるを或人のいへるは 高積比古神とは 紀直の祖 天道根命の六世孫 若積命にして 紀氏の祖廟なりといへり 若積命は 姓氏録 右京神別に 大村直の祖とす また紀直は 同書 河内國神別に 神魂命五世孫 天道根命之後なり 同書 和泉國神別に 神魂命子 御食持命の後なりとも見えたり さすれば若積命は 紀直の祖ならざること明けし しかのみならす 紀國造〔國造と直は同氏なり〕は 当国日前・国懸両大神天降の時 御従に奉仕せし神孫にして 国造系図に 第一天道根 第二比古麻 第三鬼刀禰 第四久志多麻 第五大名草比古 第六宇遅比古と序でたり
こは今の世 若山の内に宇治といへるところあり 此の地によれる名なるべければ いよいよ若積命ならざることをしるべし 中葉以来干戈の変によって 往々鵲巣にして居るものすくなからず 正さずんばあるべからず
【原文参照】
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR和歌山線 千旦駅から南東方向へ約1.7km 車5分程度
祢宜地区の東 高積山の西麓に 下の宮 が鎮座します
高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)に参着
一礼をして鳥居をくぐりながら 参道の石段を上がります
石段の上は 平らな境内 すぐ右手に手水舎があり 清めます
ここから境内は さらに二段高くなって 次の段は祓い所 最上段の境内地に本殿が祀られています
拝殿はなく 神門が拝所となっています
社殿は西を向いています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の向かって左側に その上の段に 境内社の祠が 三宇 祀られています
〈北側〉を向いて社務所があり 一社だけ離れて 社務所と同じように
右側〈北側〉を向いている祠は゛金山彦神・五十猛神゛
その後ろに 西向きに二社並んで建つ祠は 手前が゛水波能売神・宇迦之御魂神゛奥が゛金比羅社゛
社殿に一礼をして 参道を戻ります
高積神社 上の宮へは 社頭の鳥居から北へ30mほど進むと山に上がる道があり 之をひたすら上がれば到着します
一回目は 写真撮影に失敗したので 二度目は7月の下旬に再度上がりました
最初は 舗装道路で軽四駆なら上がれそうな道ですが 途中で徒山道になります
恐らく 境内社の淡島尊 だと思います
冬に来たときは ここから未舗装の道だったが・・なんと7月の下旬 笹で道が覆われていて 藪漕ぎが必要な感じ 服装も対応していないので引き返しました
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『紀伊續風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
高積神社 上の宮(和歌山市祢宜)は 高三所大明神社
高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)は 氣鎭社
と記されています
【抜粋意訳】
紀伊續風土記 巻之十一 名草郡第六 和佐荘 禰宣村
○高三所大明神社
境内〔東西三十間 南北十五間〕 禁殺生
五 十 猛 命
都麻都比賣命 合殿〔方二間半〕
大屋都比賣命廳 瑞籬 鳥居
末社七社
帝釋天社 結神社 山王社
辨財天社 衣比須社 塚主神
粟島社延喜式神名帳 名草郡 都麻都比賣神社〔名神大 月次 新嘗〕
本國神名帳 名草郡 従四位上 都摩都比賣大神村の東 和佐山の嶺にあり 和佐山一に高山といふ 故に古より 高社 又 高宮 又 高三所大明神 又 高御前とも稱す
關戸井口禰宣中村の産土神なり 古は 那賀郡小倉荘三毛村邉まで當社を氏神とすとい
當社往古は 伊太祈曾神 大屋津比賣神と共に 今の神宮郷 日前國懸兩宮の地に在し 後 山東荘 伊太祁曾の地に遷り 大寶二年(702)三神を分祀して都麻都比賣命は此山に遷り玉ふ
三代實録 貞観元年(859)従五位下勲八等 伊太祁曾神 大屋津比賣神 都摩都比賣神 並授従四位下とあり 其後 従四位上に授け給ふと見えたり
三神三所に分れ鎭り坐る後も 三所とも各其御神を中央に祀り外二神を猶左右に祀る 故に當社を 三所大明神と稱す
寛文記に 古は三社造りとあり
〔當社の事 元禄年間(1688年~)誤りて高積彦高積姫を祀るといふ 其辨詳に 伊太祇曾神社の條に見える〕
祭禮九月二十日なり 舊は十一月十四日火踏(ヒフミ)の神事あり 日前宮神事記に 當社の神事正月十一月十二月としるせり 又 兩宮の社人 及 伊太祁曾の社人 神事を勤るの事あり 昔は 祭禮に神輿渡御あり 流鏑馬ありしに 天正兵亂の後 皆廢せりといふ 元和(1615年~)以来 廢を起し 別當歓喜寺を罷て 唯一に復せられ 漸く今の姿となれり
後鳥羽院 及 達智門院領家藤原宰相等諸家より 當社への寄附状 今猶 歓喜寺に傳えたり 神主を神下周防といふ〇氣鎭社〈現 高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)〉
境内〔東西六十間 南北三十間〕 禁殺生
村の東三町許 和佐山の麓にあり祀神詳ならず 按ずるに氣鎭(けちん)を假字にて弦鎭(けちん)と書くへし 弦鎭を 後世 蟇目なといふを 同じ義にて 弓の弦音にて悪魔を降伏せる名にて 寛文記に此御神 御装束を甲冑を御ろひ魔王と軍をし給ふ時の御姿を祀む申するより 荒神にて軍神とも申奉るとなり
〔寛文記 村民の説をそのままに書せし故 高三所明神と氣鎭明神とを混同せる誤なり〕然るは神名を定めるらされとも御手に弓をと執らせ給ふ御姿にて弦鎭大明神と稱せられる如し 禰宜 井口 關戸 布施屋 四箇村の氏神にて 古を國造家にて高社を祭る事など其時 此社前の楠樹を三遍匝にて後 山上に登る 是を和佐の三匝といふ事は 國造家舊記に見えていて 今も此式絶えたり神主を關本左内といふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 都麻都比賣神社 名神大 月次 新嘗について 所在は゛山東荘吉禮村に在す゛〈現 都麻津姫神社(和歌山市吉礼)〉と記しています
【抜粋意訳】
都麻都比賣神社 名神大 月次 新嘗
都麻都比賣は 假字也、和名鈔、〔郷名部〕津麻神戸、
〇祭神 抓津姫命、左 五十猛命、右 大屋津姫命、〔名勝志、神社録、〕
〇山東荘吉禮村に在す、〔同上〕例祭九月十四日、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕紀伊國都麻都比賣神社一座
〇日本紀、〔神代上〕一書曰、素戔嗚尊之子號曰ニ〔中略〕抓津姫命云云、即奉渡ニ於紀伊國也、神位
三代實錄、貞観元年正月廿七日甲申 ,奉授ニ紀伊園 從五位下 都麻都比賣神 從四位下、本國神名帳、從四位上 都麻都比賣大神、遷座
續日本紀、大實二年二月己未、是日分ニ遷〔中略〕抓津姫命云云、
【原文参照】
式内社 高積此古神社・高積比賣神社について 所在は゛禰宜村の束方 和佐山に在す゛〈現 高積神社 上の宮・高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)〉であるとする〔名所圖會〕の説を採用しています
【抜粋意訳】
高積比古神社
高積比賣神社高積は多加都美と訓べし、比古比賣は假字也、
〇祭神明か也
〇禰宜村の束方 和佐山に在す、〔名所圖會〕
神社錄云 此彦姫の二社 及 氣鎭社、〔祭神 天御食持神〕を以て、高三所神社と稱す、』例祭九月廿日
神社錄云、按ニ高積比古神ハ、天道根命六世孫 若積命也、始祖 天御食持神ヲ山下ニ祀リ、以テ氣鎭社卜稱シ、若積命ヲ山上ニ祀リテ、高積比古社卜稱スルモノ也、高積比女ハ、若積命ノ妃歟、若積ヲ謂テ高積卜稱スルモノハ、蓋追尊ノ辭ニテ是皆紀氏ノ祖廟ナリ、
後世 其稱謂ヲ混シテ 神直日命卜稱シ、或ハ大山祇ト稱スルモノハ誤レリト謂ツベシ、舊事紀云、神魂尊兒 天御食持命、紀伊直等祖也、又云、神魂尊五世孫 天道根命定ニ賜 紀伊國造云云、然ルトキハ道根命ハ、御食持命ノ四世ノ孫也、若積命ハ道根命六世ノ孫ナリ、姓氏錄ニミエタリ、神位
本國神名帳、従四位上 高積此古神 従四位上 高積比賣神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 都麻都比賣神社 名神大 月次 新嘗について 所在は゛山東庄平尾村に在り゛〈現 都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)〉と記しています
【抜粋意訳】
都麻都比賣(ツマツヒメノ)神社
今 山東庄平尾村に在り、〔南紀名勝志、陽國名跡志、紀伊式社考、〕
素戔嗚尊の女(ムスメ) 抓津姫命を祀り、 五十猛命、大屋津姫命を相殿とす、〔日本書紀、延喜式、寛文五年記〕
平城天皇 大同元年神封七戸を寄し給ひ、〔新鈔格勅符〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從五位下 都麻都比賣神に從四位下を授け、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、月次新嘗の祭に預る、〔延喜式〕凡 毎年九月二十日祭を行ふ 日前國懸及伊太祁曾神官、其祭に預る、〔紀伊續風土記、〕
【原文参照】
式内社 高積此古神社・高積比賣神社について 所在は゛和佐庄 禰宜村 和佐山の嶺に在り゛〈現 高積神社 上の宮・高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)〉と記しています
【抜粋意訳】
高積比古(タカツミヒコノ)神社
高積比賣(タカツミヒメノ)神社並びに今 和佐庄 禰宜村 和佐山の嶺に在り、土人 之を高の三社神と云ふ、〔南紀名勝志、陽國名跡志、神名帳考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 都麻都比賣神社 名神大 月次 新嘗について 所在は 三通りの説あり
吉禮村〈現 都麻津姫神社(和歌山市吉礼)〉
和佐高山〈現 高積神社(和歌山市祢宜)〉もあるが
平尾村〈現 都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)〉を採用するとしています
【抜粋意訳】
都麻都比賣神社 名神大 月次 新嘗
祭神 抓津姫命
神位 清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申 奉授 紀伊國 從五位下動八等 都麻都比賣神 從四位下
祭日 九月十一日
社格 村社所在 平尾村 (海草郡東山東村大字平尾 )
今按
續風土記に 和佐莊 稱宜村 高三所大明神社 都麻都比賣命 五十猛命 大屋都比賣命を合祭る 和歌山 (和佐山か )顚にあり 和佐山一に高山と云 故に高三所大明神と稱す
大寶二年 三神分祀の後 此神は此山に遷り玉へり されと猶三所とも各其神を中央に祀れり 是式内 都麻都比賣神社なりと又 山東庄平尾村に妻御前と稱する社あり 是 本國神名帳に 從一位下妻都比咩大神とある神にて 此地 妻神戸なる故に祭れるなるへし 明曆記に平尾村 妻大明神は 伊太祁曾大明神付属之宮なり 正月朔日十月初亥十一月初巳に毎年伊太祁曾の社人出仕し 御供を備へ來れり 古は社殿も莊嚴なりしか今は皆廃して僅に舊跡を存するのみになれるは 式の都麻都比賣神社は吉禮村に在すと云説 世に行れて 此地の妻津姫は並々の神なりとして かくは衰微に至れりしなるへし されは當社を式内ならんと云説あるは 本社の和佐高山に在すを知さるより 疑をなせるなりとみえ 神社覈録には吉禮村と云ひ 式社考には山東庄平尾村にあるを式内とし 吉禮村なるは式外吉禮津比女神社な りとも 又 近き説に和佐高山なりと云れと信すへからすと云ひ 明細帳にも平尾村なりと云へり 故今姑く 式社考明細帳の説にしたかふ
【原文参照】
式内社 高積此古神社・高積比賣神社について 所在は゛禰宜村 和佐山上゛〈現 高積神社 上の宮・高積神社 下の宮(和歌山市祢宜)〉と記しています
【抜粋意訳】
高積比古神社
祭神 高積比古命
高積比賣神社
祭神 高積比賣命
祭日 九月廿日
社格 村社所在 禰宜村 和佐山上(海草郡和佐村大字禰宜)
今按 績風土記にこの村にます高三所大明神を以て 式の都麻都比賣神社と定めたれと 其條下に云る如く 諸説異同あれは從はす 式社考に高積比古神社 高積比賣神社 和佐庄稱宜村和佐山上にあり 今高宮高三所大明神とも云 高三所と云は 梺にます氣津別神を合して云なりとみえ 高宮高御前なと云も 高積の御名より出たるにて 證とすへし故今之に從ふ
【原文参照】