大海神社(たいかいじんじゃ)&志賀神社(しがじんじゃ)は 住吉大社の境内摂社です 大海神社は かつては別宮で『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 摂津国 住吉郡 大海神社二座(元名 津守安人神)(たいかいの かみのやしろ ふたくら)とされます 社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ 山幸彦が海神より授かった潮満玉を沈めたところと伝えられます 志賀神社は大海神社の境内摂社であったと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大海神社(Taikai shrine)
〈Shrine located on the grounds of Sumiyoshi Taisha Shrine〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89〈住吉大社境内〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 住吉大社 摂社〈住吉大社の別宮とも〉
【創 建 (Beginning of history)】
『住吉大社神代記』によれば
津守連(津守氏)の祖〈おや〉手搓足尼(たもみのすくね)は 新羅征伐の折 神功皇后の御裳(みも)を搓(も)み 鎮懐石(ちんかいせき)を御裳腰に挿して祈誓した功によって 名を賜ったと記され
西暦200年に神功皇后が新羅征伐から帰還した時 手搓足尼(たもみのすくね)が 当時は住吉郡であった”七道の浜”〈現 堺市七道〉で 神功皇后をお迎えした
この時 住吉三神の神勅が「「吾の住居(すま)はむと欲(おも)ふ地は 渟名椋の長岡の玉出の峡(を)ぞと」と 神功皇后にあった その地は手槎足尼(たもみのすくね)の居住地(すむところ)であったので
神功皇后は 神功があり その地に住んでいた 手槎足尼(たもみのすくね)に 住吉三神を神主として祀(まつ)るように命じて 住吉(すみのえ)の國と名を改め号し 大社を定めた
是を以て 渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出の峡を改めて 住吉(すみのえ)と号(まお)す と記しています
この渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出の峡は 大海神社の鎮座地は かつて玉出嶋(たまでしま)と呼ばれていて「大海(おほうみ)神社 玉出嶋(たまでしま)の上に西向の社なり」の地のこと
【由 緒 (History)】
大海神社(だいかいじんじゃ)『重要文化財』
海の神様
本宮域の北側に鎮座する大海神社は、摂社の中でも最も社格が高く、住吉の別宮、住吉の宗社と称えられ古代の祭祀においても重要視された神社です。祭神は、海幸山幸神話の海宮の竜王とその娘にあたる豊玉彦と豊玉姫の二柱をお祀りしています。
社殿は、本社と同じ「住吉造」の本殿で、四本宮よりも古く宝永5年(1708)に造営されたものです。幣殿、渡殿、西門と共に重要文化財に指定されています。
鎮座地の西方は、往古より「玉出嶋」といい、神域の杜は「磐手の森」と称し、萩と藤の名所でありました。社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ、山幸彦が海神より授かった潮満玉を沈めたところと伝えられています。住吉大社公式HPより
https://www.sumiyoshitaisha.net/grounds/sessya.html#anchor01
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・〈住吉大社 境内摂社〉志賀神社(しがじんじゃ)
現在 志賀神社は 住吉大社の摂社となっています かつては大海神社の境内摂社であったとも伝わります
・祭神《主》底津少童命・中津少童命・表少童命
志賀神社(しがじんじゃ)
海の神様
大海神社に並列、西面して鎮座し、一つの社殿内に三座(ワタツミ三神)が並祀されています。
このワタツミ三神は住吉大神であるツツノオ三神と出現を同じくし、海の神として表裏一体の関係とされています。
ツツノオ三神が主として航海、港湾守護の神であるのに対し、ワタツミ三神は海そのものの霊威と持つ神として信仰されてきました。
住吉大神、神功皇后、大海神との深い関係性からこの住吉の地に祀られたといわれています。住吉大社公式HPより
https://www.sumiyoshitaisha.net/grounds/sessya.html#anchor01
・玉の井
社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ 山幸彦が海神より授かった潮満玉(しおみつたま)を沈めたところと伝えられています
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
詳しくは 住吉大社の記事をご覧ください
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
詳しくは 住吉大社の摂社末社の記事をご覧ください
住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について 続きを見る
住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(えんぎしき)巻3-4』〈延長5年(927)〉神祇「八十島祭」について
八十島祭(やそしままつり)〈八十嶋祭/八十島神祭〉は 平安時代から鎌倉時代に天皇の即位儀礼の一環として 難波津を祭場とした祭祀〈計22回が確認されている〉
『延喜式』には 八十島祭は 難波津の地主神〈住吉神四座(住吉大社)・大依羅神四座(大依羅神社)・海神二座(不詳)・垂水神二座(垂水神社)・住道神二座(中臣須牟地神社)〉に幣帛が供えられる規定が記されています
この神々の・海神二座(不詳)が 大海神社二座であるとの説もあります
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 八十嶋神(やそしまのかみの)祭〈中宮准此〉
五色帛各一疋二丈、絁一疋二丈、絲卅絇、綿卅屯、倭文一端三丈八尺、木綿、麻各卅斤、庸布十段、紙二百張、挿幣木一百廿枝、麁御服八具料庸布八段、御輿形卌具覆料紫帛四丈、鍬卌口、銭三貫文、〈二貫文散料、一貫文雑鮮魚菓子直、〉金銀人像各八十枚、金塗鈴八十口、鏡八十二面、〈二面五寸、八十面一寸、〉玉一百枚、大刀一口、弓一張、矢五十隻、胡籙【竹+禄】一具、黄蘗八十枚、瓫、堝各廿口、坏八十口、米、酒各一石、糟八斗、缶六口、鰒、堅魚、腊、海藻各八籠、鮭五十隻、塩五籠、槲二俵、稲廿束、席、薦各八枚、食薦八枚、輿篭五脚、明櫃四合、匏十柄、祝詞料絁二疋、調布二端、
巻3神祇 臨時祭 東宮八十嶋祭
五色帛各二丈、絁二丈、絲八絇、綿八屯、倭文二丈、木綿、麻各八斤、庸布四段、紙五十張、麁服八具料庸布四段、輿形廿具覆料紫帛二丈、鍬八口、銭六百文、〈二百文散料、四百文鮮魚菓子料、〉挿幣帛木六十枝、金銀人像各卅枚、金塗鈴卅口、鏡卌面〈二面径五寸、卅八面径一寸、〉大刀一口、弓一張、矢五十隻、胡籙【竹+禄】一具、黄蘗廿枚、瓫、堝各八口、坏卌口、米、酒各四斗、缶二口、鰒、堅魚、腊、海藻、塩各二篭、鮭十隻、槲廿把、稲四束、席、薦各二枚、食薦二枚、輿篭二脚、明櫃二合、匏二柄、夫四人、祝詞料絁一疋、調布二端、
巻3神祇 臨時祭 住吉神四座、大依羅神四座、海神二座、垂水神二座、住道神二座、
座別五色帛各五尺、絹五尺、絲一絇、綿一屯、倭文一尺、裹料布三尺、住吉社神主料絹一疋、祝并大依羅祝料各布二端、垂水社祝布二端、海神住道社祝布各一端、生嶋巫各絹二疋、布二端、擔夫十人、⇒右八十嶋祭御巫、生嶋巫、并史一人、御琴弾一人、神部二人、及内侍一人、内蔵属一人、舎人二人、赴難波津祭之、
【原本参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)住吉郡 22座(大10座・小12座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大海神社二座(元名 津守安人神)
[ふ り が な ](たいかいの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Taikai no kamino yashiro futakura)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳927 AD.』に所載される「大海神社二座(元名 津守安人神)」の注記について
『延喜式神名帳』の記載通り(元名 津守安人神)とする説は ・安人神・安必登神とは 現人神社(那珂川市仲)〈住吉神社(福岡市博多区住吉)〈筑前一之宮〉の元宮〉の祭神〈現人神(あらひとのかみ)〉の意味であると解釈する説があります
又 この(元名 津守安人神)を「津守氏人神」と校訂して 以来 当社を住吉大社奉斎氏族の津守氏(津守連のち津守宿禰)の氏神と解釈する説があります
又 『住吉大社神代記』に記される「津守安必登神 二前 号海神」を大海神社に比定して 『延喜式』神名帳の記載(元名 津守安人神)を津守安必登神ち同神とする説もあります
津守氏(つもりうじ)との関係が示唆されています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される津守氏(つもりうじ)の伝承
津守氏(つもりうじ)は 摂津国 住吉郡の豪族 田蓑宿禰(たもみのすくね)を祖とすると記されています
※〈『住吉大社神代記』によれば 手搓足尼(たもみのすくね)〉
【抜粋意訳】
神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年12月14日の条
その時 穴門直(あなとのあたい)の祖先の踐立(ほむたち)・津守連(つもりのむらじ)の祖先の田裳見宿禰(たもみのすくね)は
「神の居たいと思われる土地を必ず定め 奉りましょう」と皇后に申し上げた
それで即ち 踐立(ほむたち)をもって荒魂(あらみたま)を祭る神主(かむぬし)とした
よって 穴門(あなと)の山田邑(やまだのむら)に祠(やしろ)を立てました
【原文参照】
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される「津守氏」の伝承
津守氏は 天火明命の裔〈子孫で流れをくむ一族〉と記しています
【抜粋意訳】
摂津国 神別 津守宿禰(つもりのすくね)
尾張宿禰(おはりのすくね)〈尾張氏〉と同祖(おなじきおや)
火明命(ほあかりのみこと)〈天火明命〉八世孫(やつぎのひこ)大御日足尼(おほみひすくね)の後(すえ)也(なり)
津守(つもり)
火明命(ほあかりのみこと)の後(すえ)也(なり)
【原文参照】
住吉大社(大阪市住吉区)の宮司を世襲した津守氏(つもりうじ)について
大和朝廷の外交の津〈重要な港〉として 河内湖〈現 淀川の河口辺り〉は 海上交通の要所として栄えていました
この津〈港〉を守護する職務を大和朝廷から与えられていた氏族が 津守氏でした
住吉の津〈港〉を守護する神は`住吉大神`ですので 代々 住吉大社(大阪市住吉区)の宮司を世襲した祭祀氏族として 明治維新の後は華族の男爵家にも列していました
すなわち「津守(つもり)」という氏名(うじな)は 住吉津を守った氏という 津守氏の職種からきています
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
住吉大社の境内の北側にあります
住吉大社の境内摂社の扱いですが 別宮ともいわれていて 独立した神社のように鳥居もあり 参道も設けられ 神塀に囲まれて境内があります 又 本殿は 住吉大社の4つの本殿と同様に西〈海〉を向いて鎮座しています
社殿の西に参道があり 鳥居が建ちます
大海神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 緩やかな石段参道を上がります 鳥居の扁額には 大海神社と記されています
石燈籠の先に神門〈西門〉があり 境内となります
神門をくぐり抜けると 正面に拝殿が見えてきます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 住吉大社 本社と同じ「住吉造」の本殿で 四本宮よりも古く宝永5年(1708)に造営されたもので 幣殿、渡殿、西門と共に重要文化財に指定されています
南側から本殿を仰ぐと その手前に 志賀神社が鎮座しています
志賀神社は 現在は 住吉大社の摂社となっていますが かつては大海神社の境内社の扱いでした
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『摂津名所図会(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
大海神社の鎮座地 玉出嶋と 境内社 志賀神社について 記しています
【抜粋意訳】
玉出嶋(たまでしま)
住吉社頭にあり。歌枕名寄(うたまくらなよせ)に所しれずとあり。社伝に云神宝満珠(かみたからまんしゅ)を蔵め祀る所なり。故にその地を指す所を当社の神秘(しんぴ)とす。島は海の中にのみあるをいふにあず。一區なる所をいふ名なり。国中(くになか)にて山川(やまかわ)などのめぐれる地にもいへり。平安(へいあん)の塩竃(しほかま)の旧跡(きゅうせき)籬島も海(うみ)にあらず。島は志まる。志じまるなるべし。
新拾遺 君がため玉出の岸に和らぐるひかりのすゑは千世もくもらじ 津守国平
大海(おほうみ)神社
玉出嶋(たまでしま)の上に西向の社なり。祭神 豊玉彦(とよたまひこ)豊玉姫(とよたまひめ)。
延喜式に大海(たいかい)神社二座(元は津守の安人神とあり)志賀(しが)明神社
大海神の摂社にして北側にあり。一棟三扉(ひ)海少童(わだつみ)三神を祭る。又 彦火火出見(ひこほほでみ)尊 豊玉(とよたま)姫 豊玉(とよたま)彦の三神ともいふ。
按(あんず)るに近州(きんしゅう)志賀郡(しがのこおり)辛崎(からさき)一ツ松の神社も海少童命(わたつみのみこと)を祭る 故に志賀神社となづくるならんか。
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
大海神社 元津守氏人神
大海は於保和多都美と訓べし
○祭神 大綿津見神、玉依姫命、(社家説)
○住吉神社境内に在す、今 磯御前社と称す、(摂陽群談、摂津志、)
○元津守氏人神の五字は、後人加筆なるべし、
社家説云、(考証引用)大綿津見神、玉依姫神、而津守嫡流大領氏此社司也、
祭祀
扶桑略樹曰、天暦元年七月祭 住吉海神(摂津志所引用)
雑事
玉葉、承安四年十二月六日己未、蔵人左衛門権佐光雅為関白使來、余相逢、光雅云、住吉社大海神殿寸法相違事出來、子細在國司申状、(別在解状)
何様可被行哉、件事子細神殿宇長如長承覆勘文者三丈六尺也、而仁平神殿(当時神殿)三丈七尺五寸也、和違長承例、今所造之神殿任彼仁平例同三丈七尺五寸也、而旧殿新殿其処相重有頬于造営(彼社之習股宮所於前後、彼是相替造営、今度奉還後宮地度也)検仁平覆勘文之処三丈六尺也、同長承見在之法輿覆勘之正文
連胤云、当社も八十島祭の一処也、式文住吉神社の條下見合すべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
延喜式の旧名について「田裳見宿禰の裔 津守氏、世々本社の社司たり、仍て本社の旧名を津守氏人神と云ふ、」と記しています
【抜粋意訳】
大海(オホワタツミノ)神社二座
今 住吉神社の西北 玉出島の上にあり、之を住吉摂社とす、摂津志、名所図会 盖 海神 豊玉彦命 豊玉姫命を祀る、
〇按 住吉社記云、本社一棟三座あり、塩土老翁 豊玉姫命 彦火火出見尊を祀る、一説に豊玉彦命一座を祭る、附て考に鑑ふ、
田裳見宿禰の裔 津守氏、世々本社の社司たり、仍て本社の旧名を津守氏人神と云ふ、
醍醐天皇 延喜の制、住吉神と同じく八十島祭に預かる、延喜式
村上天皇 天暦二年七月壬子、祭使を住吉海神に遣し給ふ、即是なり、日本紀畧
凡六月晦、祭りを行ふ、式社考証
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
大海(オホワタツミノ)神社二座(元名 津守氏人神)
祭神 豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)祭日 六月晦日
社格 住吉神社 摂社
所在 住吉村住吉神社域内(東成郡住吉村大字住吉)
【原文参照】
大海神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
住吉大社の記事をご覧ください
・住吉大社(大阪市住吉区)摂津国一之宮
住吉大社の摂社末社の記事をご覧ください
住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について 続きを見る
住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について