日本武尊
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島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉
島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座
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島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉
島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です
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劔刀神社(伊豆の国市戸沢)〈『延喜式』剱刀乎夜爾命神社〉
劔刀神社(たちじんじゃ)は 『伊豆国神階帳』に所載の「従四位上 たんかいの明神」で 延喜式内社 伊豆國 田方郡 剱刀乎夜爾命神社(つるきたち をやにのみことの かみのやしろ)の論社です 祭神について 剣刀乎夜爾命(たちおやにのみこと)とされますが 一説には 日本武命と草薙劔とも云われます
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松尾神社(甲州市塩山小屋敷)〈『延喜式』松尾神社〉
松尾神社(まつおじんじゃ)は 社記によると 遠く景行天皇四十二年 山城国松尾大社より勧請し 現在地の東方四丁余りの地に創祀したと伝えられ 日本武尊(やまとたけるのみこと)が 武蔵へ向かう途中にここで休んだという褥塚(しとねつか)があります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 松尾神社(まつのをの かみのやしろ)とされます
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細草神社(甲府市平瀬町)〈『延喜式』黒戸奈神社の論社〉
細草神社(ほそくさじんじゃ)は 由緒は不祥ですが 社伝には゛この地は 皇師〈日本武尊〉の駐屯せし所なり゛と云い伝え 『甲斐国志』には 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)としています 『甲斐国社記・寺記』に 大永三癸未年(1523)地頭駒井越後守本願 窪寺豊前守御崇敬し社殿を建立とあります
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黒戸奈神社(山梨市牧丘町倉科)〈『延喜式』黒戸奈神社〉
黒戸奈神社(くろとなじんじゃ)は 景行天皇の御宇創立〈天皇皇子 日本武尊 東夷平定の後 当国鎮護 萬民幸福を祈る爲め 素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り 唐土明神と称へ奉る〉文武天皇 大宝二年(702)勅を奉じて社号を黒戸奈神社としたと云う 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 黒戸奈神社(くろとなの かみのやしろ)とされます
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山梨岡神社(山梨市下石森)〈『延喜式』山梨岡神社〉
山梨岡神社(やまなしおかじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が東夷征伐の折 勧請したと云う 尊が腰を掛けたという御腰掛石があります 神護景雲2年(768)坂上苅田丸が社殿を造営し 貞観元年(859)甲斐守紀貞守 幣を奉る 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の論社です
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吾妻屋宮(笛吹市春日居町鎮目)〈『延喜式』甲斐奈神社・山梨岡神社〉
吾妻屋宮(あずまやぐう)は 社記に「日本武尊が東征の折に当地の山路〈虫切坂〉で休息したことに因み 旧跡を「四阿山権現(あづまやさん ごんげん)」として尊を祀り創祀」と云う 延喜式内社 山梨岡神社(やまなしをかの かみのやしろ)の旧鎮座地とする説 甲斐奈神社(かひなの かみのやしろ)であるとする説があります
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神部神社(北杜市須玉町小尾)〈『延喜式』神部神社〉
神部神社(かんべじんじゃ)は 崇神天皇の御代 当社前の御門 神戸は神地とされたと云う 又 日本武尊が東征の折り 東小尾で湯治し当社前を通り猛獣 毒蛇 叛賊を退治して東征に向かったと伝わり 文武天皇の大宝元年(701) 四柱を祀ったのが創立と云う 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)の論社です
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熱那神社(北杜市高根町村山西割)〈『延喜式』神部神社〉
熱那神社(あつなじんじゃ)は 社伝には 創立の年代は不詳であるが その昔 日本武尊の神徳を尊崇し 地主神として社に奉祀し 石剣を奉安し神体とした 古来 神部神社 又は 熱那神総社と称し 近傍九ヶ村の総称 熱那ノ庄の総社なることは明白であると伝わる 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 神部神社(かむへの かみのやしろ)とされます
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諏訪大神社(甲斐市宇津谷)(日本武尊が創始 延喜式内社)
諏訪大神社(すわだいじんじゃ)は 倭建命(やまとたけるのみこと)が北山・武川・逸見の賊を平定し 残党の復起せぬよう平穏を祷り 鎮護の神として倭文神 建葉槌命を祀り 良民初めて安居するを得て 初在家の名これより起ると口碑に伝わる 延喜式内社 甲斐國 巨麻郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)の論社です
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猿投神社(豊田市猿投町大城)〈国史見在社・延喜式内社〉
猿投神社(さなげじんじゃ)は 主祭神 大碓命〈第12代 景行天皇の第一皇子 日本武尊と双生児〉を祀り 社伝によれば 第14代 仲哀天皇元年(192)勅願により現在地に鎮座と伝わる 『六国史』にも神階の奉授が記さる国史見在社 『延喜式』には 式内社 参河國 賀茂郡 狭投神社(さなげの かみのやしろ)と所載されます
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高座結御子神社(名古屋市熱田区高蔵町)〈熱田神宮摂社 式内名神大社〉
高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)は 『六国史』承和二年(835)熱田の御子神〈日割御子(ひさきのみこの)神・孫若御子(ひこわかみこの)神・高座結御子(たかくらむすひのみこの)神〉三前が並び 名神を授ったと記される 延喜式内社 尾張國 愛智郡 髙座結御子神社(名神大)(たかくらむすひみこの かみのやしろ)です
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孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮)〈熱田神宮の境内摂社〉
孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)は もと鎭皇門內 御田社の西に鎮座したが 明治七年(1874)現在地に遷坐 延喜式内社 尾張國 愛智郡 孫若御子神社(名神大)(ひこ わかみこの かみのやしろ)の論社で 祭神については 遷座頃までは 稚武彦王(ワカタケヒコノキミ)〔日本武尊の第七男 母は弟橘姫命〕とされていました
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日割御子神社(名古屋市熱田区神宮)〈熱田神宮の境内摂社〉
日割御子神社(ひさきみこじんじゃ)は 祭神は・熱田大神(天照大神)の御子神 天忍穂耳尊とも・日本武尊の御子神 武鼓王とも・日本武尊を焼津で救った火打石の霊とも諸説あり 鎮座地は 熱田神宮境内の熱田丘陵の先端に当り 太古には水際に張り出た洲崎の名残で 干崎(ひさき)と云われていた 延喜式では名神大社とされます
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天神社(名古屋市緑区鳴海町)〈成海神社の創祠の地・現 御旅所〉
天神社(てんじんしゃ)は 現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で 太古は鳴海潟の波打ち際で 日本武尊がこの地にお立ちになり 対岸の火高丘陵(現 大高)の尾張氏館〈宮簀媛命〉へと渡られた地であり 是を由縁とし 天武天皇 朱鳥元年(686)尊の御東征の旗頭であった建稻種命と宮簀媛命を祀り この所に創建された〈成海神社創祠の地〉
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成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)〈日本武尊ゆかりの延喜式内社〉
成海神社(なるみじんじゃ)は 日本武尊が 東征からの帰還の際 鳴海潟(現 鳴海駅北)から対岸の宮簀媛命の居住する火高丘陵〈建稲種命の館〉(現 氷上姉子神社)まで船で渡ったと伝わる地に 天武天皇の朱鳥元年(686)草薙神剣が熱田に還座の時に鎮座しました 延喜式内社 尾張國 愛智郡 成海神社(なるみの かみのやしろ)です
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幡頭神社(西尾市吉良町宮崎前留谷)〈延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社〉
幡頭神社(はずじんじゃ)は 日本武尊の東征の際 旗頭であり 大功を立てた建稲種命は 帰途海上で御薨去 御遺骸が この岬に着かれたのをお祀りしたのが本神社で 大宝二年(702)文武天皇が勅して 社殿を建て官社に列せられたと伝えられる 延喜式内社 参河國 播豆郡 羽豆神社(はつの かみのやしろ) です
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旧妙見宮奥之院〈巌屋神社〉(春日井市内津町)〈内々神社 当初の鎮座地〉
旧妙見宮奥之院(きゅう みょうけんぐう おくのいん)は 内々神社(うつつじんじゃ)〈延喜式内社 尾張國 春日部郡 内内神社(うちうちの かみのやしろ)〉の当初の鎮座地とされ 内々神社から山道を登り 断崖岩の絶壁の割れ目にお堂〈巌屋神社〉があり 今は鉄の階段ですが かつては梯子や鎖で登ったと云う゛奥の院゛です
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内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う