大阪府
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河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)
河内国(かは〈わ〉ちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 河内国の 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)の神社のことです
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走落神社(豊能町木代)
走落神社(はしりおちじんじゃ)は この場所にあった小玉神社に 明治40年(1907)に東能勢村にあった8つの神社を合併して 計9つの神社が合併した神社です その際に合併神社の中でも由緒のある式内社の「走落神社」と名称を改称しました
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走湯神社旧跡地(豊能町切畑)
走湯神社旧跡地(はしりゆじんじゃ あと)は かつて走湯天王と称し『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「走落神社(はしりおちの かみのやしろ)」とされています 明治40年(1907)9月 小玉神社〈現 走落神社〉に合祀され 現在は旧跡地となっています
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片埜神社〈一の宮〉(枚方市牧野阪)〈延喜式内社〉
片埜神社(かたのじんじゃ)は 社伝に 第11代垂仁天皇〈在位BC29~AD70年頃〉創建とある古社 延喜式内社 片野神社とされ 明治期に 延喜式内社 久須須美神社を合祀しています 戦国時代には兵火にかかり荒廃 天正11年(1583)豊臣秀吉公が大坂城の鬼門鎮護の社と定め 方位鬼門除けに霊験あらたかな社と世に知られます
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服部天神宮(豊中市服部元町)
服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です
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呉服神社(池田市室町)
呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています
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神服神社(高槻市宮之川原元町)
神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます
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新屋坐天照御魂神社(西河原)
新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています
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新屋坐天照御魂神社(宿久庄)
新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています
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新屋坐天照御魂神社(西福井)
新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です
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長柄神社跡(八尾市)
長柄神社跡(ながらじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国若江郡 長柄神社(鍬)』とある祈年祭に鍬一口を加えられた由緒ある式内社ですが 明治40年(1907)10月神社統合令で「矢作神社(八尾市)」に合祀されました
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都夫久美神社(八尾市)
都夫久美神社(つぶくみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』に 河内国高安郡 都夫久美神社とある式内社ですが 明治40年(1907)12月 神社統合で 玉祖神社(八尾市)に合祀されました その後 昭和49年(1974)10月 65年ぶりに社殿を新築して 元の鎮座地に復興しました
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御祖神社跡(八尾市)
御祖神社跡(みおやじんじゃ あと)は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に『河内国高安郡 御祖神社』とある式内社ですが 明治41年2月「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました 現地(旧鎮座地)には昭和13年5月に建立された「式内御祖神社跡」という碑が残されています
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玉祖神社(八尾市神立)
玉祖神社(たまのおやじんじゃ)は 和銅3年(710)周防国一之宮「玉祖神社」から分霊を勧請したもので 御祭神は櫛明玉命です 通称「高安明神」とも呼ばれていて 高安11ヶ村の氏神です 鎮座地は 生駒・信貴連山の中腹の高台にあり 社頭にある「大楠」から一望する 河内平野は絶景です
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加茂神社跡(八尾市)
加茂神社跡(かもじんじゃあと)は 『延喜式神名帳』に『河内国 高安郡 鴨神社』とある式内社ですが 明治40年(1907)「玉祖神社(八尾市)」に合祀されました その後 大正12年 大竹地区の氏子が 旧社地に小祠を建て 御分神を奉祀して 現在にいたっています
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坐摩神社行宮(御旅所) (坐摩神社 旧鎮座地)
坐摩神社行宮(御旅所)(いかすりじんじゃ あんぐう)(おたびところ)は 摂津国一之宮「坐摩神社」の旧鎮座地です 神功皇后(応神天皇の御生母)が 新羅より御帰還の折 淀川南岸の大江 田蓑島のちの渡辺の地「現 行宮の地」に奉祀されたのが始まりとされています 全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります
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住吉 大鳥 両大社 宿院頓宮 (住吉大社・大鳥大社 両大社の御旅所)
住吉 大鳥 両大社宿院頓宮(sumiyoshi ohotori ryotaisha shukuintongu)は 摂津国一之宮「住吉大社」と和泉国一之宮「大鳥神社」の両大社(両社ともに 一之宮)の御旅所とされています 1つの社殿に・住吉大社に所縁のある「波除住吉神社」・大鳥大社に所縁のある「大鳥井瀬神社」が 両大社に所縁ある神社として祀られています 境内の飯匙堀(iigaibori)は 水のない空堀ですが 住吉大社の神功皇后にまつわる伝説などがあります
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大鳥羽衣濱神社(高石市羽衣)
大鳥羽衣濱神社(おおとりはごろもはまじんじゃ)は 羽衣をまとう天女を連想させるような神社名を持ちます 御祭神は 大鳥大社に祀られている「日本武尊」の后神で 仲哀天皇の皇太后となる「両道入姫皇女」が祀られています また 当社は江戸時代には 井戸守明神といわれていて 社殿前にある井戸から上がる水は神水として尊ばれたと伝わります
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大鳥北濱神社(堺市)
大鳥北浜神社(おおとりきたはまじんじゃ)は 大鳥五社とも呼ばれる いずれも「大鳥(otori)」を冠している五つの神社の1社です 和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の式内社で ご祭神は「日本武尊(yamato takeru no mikoto)」の后神の一柱「吉備穴戸武媛命(kibino anato takehime no mikoto)」を祀ります
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国神社 古社地(堺市 南区 鉢ヶ峯寺)
国神社(くにじんじゃ)古社地は 「垂仁天皇8年 天照大神が 鳳凰に化して この襲峯(おいそのみね)に降りました」との伝承をもち 現在の「大鳥美波比神社」の古社地ともされています