奈良県

菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉

菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます

丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村大字迫)〈龍神総本宮〉

丹生川上神社〈上社〉(にうかわかみじんじゃ かみしゃ)は 天武天皇の御代白鳳四年(六七五)「人の声も聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下(あめのした)のため甘雨(うましあめ)を降らし霖雨(ながきあめ)を止めむ」の神宣により 御社殿を建立奉祀されました それ以降 祈雨・止雨の神として崇敬されました

丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)〈延喜式内社 名神大社〉

丹生川上神社〈下社〉(にうかわかみじんじゃ しもしゃ)は 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば 天下のために甘雨を降らし 霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建と伝 朝廷の尊崇篤く 天平宝字七年(七六三)幣帛の外 黒毛の馬を奉献され その後 祈雨には黒馬 祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた

丹生神社(本宮)〈中社の旧跡〉(吉野郡東吉野村小)

丹生神社(にうじんじゃ)は 丹生川上神社〈中社〉の旧跡とされ゛本宮゛と呼ばれています 現在は〈中社〉の摂社となっています 祭られた初めは何時代か分からぬ位古く 日本最古の水神とされる 水神総本社です 恐らく神武天皇の頃には この辺りに神籬(ヒモロギ)式の神として祭られていたとされ 天武天皇の時に社を建てたと伝わります

丹生川上神社 中社(吉野郡東吉野村大字小)〈延喜式内社 名神大社〉

丹生川上神社〈中社〉(にゅうかわかみじんじゃ)は 白鳳4年(675)に創祀され 雨師明神・水神宗社として 雨乞いには黒馬を 雨止めには白馬又は赤馬が献上された 延喜式内社 大和國 吉野郡 丹生川上神社(貞・名神大 月次 新嘗)(にふの かはすみの かみのやしろ)で 下社・上社・中社の三つの論社の内 中社(なかしゃ)です

佐紀神社〈西畑鎮座〉&釣殿神社(奈良市佐紀町字西畑)

佐紀神社〈西畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式(927年)所載 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)の論社です しかし 佐紀神社〈西畑鎮座〉を佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀とする説もあります 釣殿神社(つりどのじんじゃ)は 佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀であり 三社は同じ神を祀ります

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(奈良市佐紀町)〈延喜式内社〉

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)です 由緒は 天武天皇御宇 白鳳三年(674)鎮祀 寛平3年(891)官社に列し 治承4年(1180)焼失し 文治6年(1190)超昇寺と併せて再興 天正6年(1578)再び兵火のため焼失 その後再興されて現在に至ります

葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

為志神社(葛城市林堂)〈延喜式内社 為志神社(いしの かみのやしろ)〉

為志神社(いしじんじゃ)は 創建・由緒は不詳ですが 延喜式内社 大和國 忍海郡 為志神社(いしの かみのやしろ)です 明治四十三年(1910)神社合祀政策により 式内名神大社 葛木坐火雷神社に合祀され 当地に石碑を立てて旧跡の地されましたが 昭和五十七年(1982)旧地に復し再建され現在に至ります

火雷神社(五條市御山町)〈二つの式内社〈①宮前霹靂神社②火雷神社〉の論社〉

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は 丹生川の吉野川への合流地点に近い南岸に鎮座 『延喜式』には火雷神を祀る゛大和國 宇智郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)゛とされます 祭神は・火産霊神・軻遇突智神など諸説あり 又一説に 火雷神とは 井上皇后の若皇子とされ 地元では若宮大明神とも称されます

宮前霹靂神社(みやさきのかんとけ じんじゃ)(五條市西久留野町)

宮前霹靂神社(みやさきかんとけじんじゃ)は 社号゛靂霹゛は 一般に「へきれき」と読みますが 当社の祝詞では「かんとけ」です また 井上内親王が 当社に御祈願され荒坂で御子を産まれた地と伝えられ゛おびや峯明神゛と俗称されます 延喜式内社 大和國 宇智郡 宮前霹靂神社(みやさきのかんとけの かみのやしろ)です

高天岸野神社(五條市北山町)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉

高天岸野神社(たかまきしのじんじゃ)は 現在 一尾背神社の境内に祀られています〈一説に 里宮とも遥拝所とも 遷座先とも〉 延喜式内社 大和國 宇智郡 髙天岸野神社(鍬)(たかまのきしのの かみのやしろ)とされ 江戸時代には旧鎮座地にあり 岸野辨天さんと俗称されていました 祭神などの伝承は途切れています

一尾背神社〈通称゛水分さん゛〉(五條市北山町)

一尾背神社(いちおせじんじゃ)は 創建について年代等は不祥ですが その歴史は古く 延喜式内社 大和國 宇智郡 一尾背神社(ひとをせの かみのやしろ)とされます 江戸時代以前は゛水分社゛と称し 現在も通称゛水分さん゛と呼ばれ 里人から篤い信仰があります

高天山佐太雄神社(五條市大澤町)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉

高天山佐太雄神社(たかまさたおじんじゃ)は 金剛山の尾根を、千早峠に向かう途中の神福山 (七九二メートル )の頂上に鎮座します 金剛山(kongo san)山麓に東から南に並び鎮座する式内社「高天三座」の一つ 延喜式内社 大和國 宇智郡 髙天山佐太雄神社(鍬)(たかまのやまさたをの かみのやしろ)とされます

〈大和神社御旅所〉御旅所坐神社〈大和稚宮神社〉& 齒定神社(天理市中山町)

〈大和神社御旅所〉御旅所坐神社(おたびしょにますじんじゃ)〈大和稚宮神社〉&歯定神社(はじょうじんじゃ)は 第10代 崇神天皇が 地主神・倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の斎女として勅した 皇女 ゛淳名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)の御墓゛と伝える前方後円墳゛大塚山゛の南麗にある大和神社の御旅所に鎮座します

大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉

大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります

白堤神社(天理市長柄町)〈延喜時内社 白堤神社の論社〉

白堤神社(しろとりじんじゃ)は 江戸時代以前は゛白鳥明神゛と称し゛日本武尊゛が祀られていました 一方で゛白堤氏゛の氏神との説もあり 創建年代などは不祥です 旧鎮座地は南池〈白鳥池〉と呼ばれる堤の上にあったと伝わります 延喜式内社 大和國 山邊郡 白堤神社(しろつつみの かみのやしろ)とされます

久度神社(王寺町久度)〈延喜式内社 久度神社の論社〉

久度神社(くどじんじゃ)は 『續日本紀』延暦二年(783)には゛官社に列す゛『延喜式神名帳』には゛大和國 平群郡 久度神社(くとの かみのやしろ)゛と所載される由緒ある古社です 尚〈延暦十三年(794)〉奈良〔平城京〕から平安遷都に際し創建された平野神社の第二座には 当社から遷された゛久度神゛が祀られています

龍田神社(斑鳩町龍田)

龍田神社(たつたじんじゃ)は 第10代 崇神天皇の御代 年穀の凶作が続いた時 帝自ら卜占をもって占い 天神地祇を龍田山の聖地に祀られたことに始まり 後 推古14年(606)2月25日 聖徳太子が 白髪の老人に化身した龍田大明神に「斑鳩(いかるが)の里こそ仏法興隆の地」とのお告げを受け 法隆寺を建立した  鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したと伝わります

龍田大社(三郷町立野南)

龍田大社(たつたたいしゃ)は 社伝によると 第10代 崇神天皇の御代に凶作が続き 天皇が夢で風神のお告げをうけて創建されたと伝わる 祭神は・天御柱大神(志那都比古神)・国御柱大神(志那都比売神)〈別名を龍田神・龍田風神とも云い〉第40代 天武天皇(675年)に始まる風鎮祭は今も毎年行われ 歴代の朝廷からも深く信仰された延喜式 名神大社に列した由緒ある神社です

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