奈良県

船山神社(平群町三里)〈『延喜式』舩山神社〉

船山神社(ふなやまじんじゃ)は 大正4年(1915)現在の東光寺(平群町三里)の東側にあった延喜式内社 大和國 平群郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)が 春日神社(安明寺の氏神)の境内地に遷座したものです 又 合祀している船上神社(ふなかみじんじゃ)の御神体とされる「三つの船石〈巨石〉」が矢田丘陵八合目にあります

石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉

石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました

石床神社(平群町越木塚)〈『三代實録〉』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉

石床神社(いわとこじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 「舒明天皇三年(631)肇国創業の御功神 饒速日命を祀らせ給いしに創る」と石碑文にあり 古来 御神体の巨岩(陰石)を祀る旧鎮座地〈現在地の南方〉より大正13年(1924)現在地に遷座しました

平群坐紀氏神社(平群町上庄)〈『延喜式』平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕〉

平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)は 平群に居住した紀氏の名をとって名付けられたことは『類聚國史』天長元年(824)紀百継・末成らの奏上から明白で 創建はそれ以前とされます 延喜式内社 大和國 平群郡 平郡坐紀氏神社〔名神大 月次新嘗〕(へくりにます きのうじの かみのやしろ)です

平群神社(生駒郡平群町西宮)〈『延喜式』平群神社五座〔並大月次新嘗〕〉

平群神社(へぐりじんじゃ)は 『興福寺官務牒疏(1441年)』に「平群大明神」と記載以来 延喜式内社 大和國 平群郡 平群神社 五座〔並大月次新嘗〕(へくりの かみのやしろ いつくら)の論社とされ 五座については 平群木菟宿禰の裔に平群臣・佐和良臣・馬御樴連・韓海部首・味酒首等があり この祖神を祀ったとする説があります

長柄神社(御所市名柄)〈『日本書紀』長柄杜『延喜式』長柄神社(鍬靫)〉

長柄神社(ながらじんじゃ)は 御祭神の下照姫命を葛木一言主神社や高鴨神社の姫宮と考え 別名「姫の宮」と云う 又 鎮座地は『日本書紀』天武天皇 即位九年の条に「長柄杜(ながらのもり)で゛馬的を射させ゛」と流鏑馬をご覧になった記述があり 延喜式内社 大和國 葛上郡 長柄神社(鍬靫)(なからの かみのやしろ)の由緒を持ちます

大歳神社(橿原市石川町)〈『延喜式』大歳神社 二座〉

大歳神社(おおとしじんじゃ)は 創建年代は不明ですが 創祀について鎮座地の石川村を開発した人物「石川楯〈雄略天皇の臣下〉」であると推測されています 延喜式内社 大和國 高市郡 大歳神社 二座(おほとしの かみのやしろ ふたくら)の論社で 中世両部習合神道から大山咋命を主神として社名を山王社と云ったと棟礼にみえています

魚吹八幡神社(姫路市網干区宮内)〈『延喜式』中臣印達神社(名神大)〉

魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)は 神功皇后摂政三年(202)三韓征伐の往路 御舩で宇須伎津に御滞泊の際 皇后神託を受けて 小社を建立し敷嶋宮と号したのが起源 後に仁徳天皇七年 天皇霊夢を御覧になり創建されたと云う 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)の論社です

菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉

菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます

丹生川上神社〈上社〉(吉野郡川上村大字迫)〈龍神総本宮〉

丹生川上神社〈上社〉(にうかわかみじんじゃ かみしゃ)は 天武天皇の御代白鳳四年(六七五)「人の声も聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬き祀らば天下(あめのした)のため甘雨(うましあめ)を降らし霖雨(ながきあめ)を止めむ」の神宣により 御社殿を建立奉祀されました それ以降 祈雨・止雨の神として崇敬されました

丹生川上神社〈下社〉(吉野郡下市町長谷)〈延喜式内社 名神大社〉

丹生川上神社〈下社〉(にうかわかみじんじゃ しもしゃ)は 天武天皇白鳳四年(六七六)「人声の聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば 天下のために甘雨を降らし 霖雨を止めむ」との御神誨に因り創建と伝 朝廷の尊崇篤く 天平宝字七年(七六三)幣帛の外 黒毛の馬を奉献され その後 祈雨には黒馬 祈晴には白馬を献ずることが恒例とされた

丹生神社(本宮)〈中社の旧跡〉(吉野郡東吉野村小)

丹生神社(にうじんじゃ)は 丹生川上神社〈中社〉の旧跡とされ゛本宮゛と呼ばれています 現在は〈中社〉の摂社となっています 祭られた初めは何時代か分からぬ位古く 日本最古の水神とされる 水神総本社です 恐らく神武天皇の頃には この辺りに神籬(ヒモロギ)式の神として祭られていたとされ 天武天皇の時に社を建てたと伝わります

丹生川上神社 中社(吉野郡東吉野村大字小)〈延喜式内社 名神大社〉

丹生川上神社〈中社〉(にゅうかわかみじんじゃ)は 白鳳4年(675)に創祀され 雨師明神・水神宗社として 雨乞いには黒馬を 雨止めには白馬又は赤馬が献上された 延喜式内社 大和國 吉野郡 丹生川上神社(貞・名神大 月次 新嘗)(にふの かはすみの かみのやしろ)で 下社・上社・中社の三つの論社の内 中社(なかしゃ)です

佐紀神社〈西畑鎮座〉&釣殿神社(奈良市佐紀町字西畑)

佐紀神社〈西畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式(927年)所載 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)の論社です しかし 佐紀神社〈西畑鎮座〉を佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀とする説もあります 釣殿神社(つりどのじんじゃ)は 佐紀神社〈亀畑鎮座〉の分祀であり 三社は同じ神を祀ります

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(奈良市佐紀町)〈延喜式内社〉

佐紀神社〈亀畑鎮座〉(さきじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 添下郡 佐紀神社(さきの かみのやしろ)です 由緒は 天武天皇御宇 白鳳三年(674)鎮祀 寛平3年(891)官社に列し 治承4年(1180)焼失し 文治6年(1190)超昇寺と併せて再興 天正6年(1578)再び兵火のため焼失 その後再興されて現在に至ります

葛木坐火雷神社〈笛吹神社〉(葛城市笛吹)〈延喜式内社 名神大社〉

葛木坐火雷神社(かつらきにいます ほのいかづちじんじゃ)は 延喜式内社 葛木坐火雷神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)(かつらきにます ほのいかつちの かみのやしろ ふたくら)です 創建は 神代とも神武天皇の御代とも云われ 二座の内 笛吹神社は 上古以来 朝廷が大事を卜定められる毎時 波波迦木を進献していたと伝わります

為志神社(葛城市林堂)〈延喜式内社 為志神社(いしの かみのやしろ)〉

為志神社(いしじんじゃ)は 創建・由緒は不詳ですが 延喜式内社 大和國 忍海郡 為志神社(いしの かみのやしろ)です 明治四十三年(1910)神社合祀政策により 式内名神大社 葛木坐火雷神社に合祀され 当地に石碑を立てて旧跡の地されましたが 昭和五十七年(1982)旧地に復し再建され現在に至ります

火雷神社(五條市御山町)〈二つの式内社〈①宮前霹靂神社②火雷神社〉の論社〉

火雷神社(ほのいかづちじんじゃ)は 丹生川の吉野川への合流地点に近い南岸に鎮座 『延喜式』には火雷神を祀る゛大和國 宇智郡 火雷神社(ほのいかつちの かみのやしろ)゛とされます 祭神は・火産霊神・軻遇突智神など諸説あり 又一説に 火雷神とは 井上皇后の若皇子とされ 地元では若宮大明神とも称されます

宮前霹靂神社(みやさきのかんとけ じんじゃ)(五條市西久留野町)

宮前霹靂神社(みやさきかんとけじんじゃ)は 社号゛靂霹゛は 一般に「へきれき」と読みますが 当社の祝詞では「かんとけ」です また 井上内親王が 当社に御祈願され荒坂で御子を産まれた地と伝えられ゛おびや峯明神゛と俗称されます 延喜式内社 大和國 宇智郡 宮前霹靂神社(みやさきのかんとけの かみのやしろ)です

高天岸野神社(五條市北山町)〈延喜式内社「高天三座」の一つ〉

高天岸野神社(たかまきしのじんじゃ)は 現在 一尾背神社の境内に祀られています〈一説に 里宮とも遥拝所とも 遷座先とも〉 延喜式内社 大和國 宇智郡 髙天岸野神社(鍬)(たかまのきしのの かみのやしろ)とされ 江戸時代には旧鎮座地にあり 岸野辨天さんと俗称されていました 祭神などの伝承は途切れています

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