三重県

石大神(鈴鹿市小社町字脇の山)〈古代から信仰の対象 巌岩〉

石大神(しゃくだいじん)は 鈴鹿山脈の断層によって形成された断層微地形「ケルンバット」(分離丘陵)で 急峻で錘状岩柱形の岩峯(がんぽう)地形の自然景観は 古代から信仰の対象となっており 社殿はありませんが巨岩を神体とする 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 石神社(いはの かみのやしろ)の論社とされています 敏達天皇が行幸されたという言い伝えもあります

〈伊勢國一之宮〉椿大神社(鈴鹿市山本町)〈地祇猿田彦大本宮〉

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は 社伝には 垂仁天皇二十七年 倭姫命の御神託により御船磐座の邉に 伊勢開拓神として猿田彦命を奉斎のため社殿を創建 神主は 代々山本家の世襲で 山本家は猿田彦大神の神裔とされます 社殿は瓊瓊杵尊が船でここに到着された場所「土公神陵」は猿田彦大神の古墳だと伝える 由緒ある伊勢国一之宮です

〈伊勢國一之宮〉都波岐神社・奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)

都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)は 社伝には 雄略天皇の勅により 現在地に2つの社殿を造営したのが起源 明治時代に2社を合併し 両社の祭神は1つの社殿に奉祀されます 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 奈加等神社(なかとの かみのやしろ)都波岐神社(つはきの かみのやしろ)の論社です

志寶屋神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

志宝屋神社(しおやじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛土賣屋社゛と載る古社 明応7年(1498)大地震の津波により大鹽村ともども流失 その後 村民によって再興 寬永21年(1644)豊受大神宮(外宮)末社と確認され 明治25年(1892)復旧して現在に至ります

加努弥神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

加努弥神社(かぬみじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)末社〉は 『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に所載される古社です 明治以後 西鹿海(ニシカノミ)村の産土神〔鹿海神社〕を本社としましたが 村人等の反対により 明治十九年(1886)その東方に新地を卜して鎭祭されたのが 現社地の゛田中の森゛です

小社神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

小社神社(おごそじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)末社〉は 『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に所載される古社です 中世に頽廃して社地も不明となりましたが 明治13年(1880)小社村の産土神を以て本社の舊地と爲して再興されたものです

津布良神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

津布良神社(つぶらじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)の末社で『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に所載される古社です 中世に廃絶し 明治六年(1873)積良(ツムロ)の産土神 八柱神社の社地内に再興されました その後 八柱神社は明治四十一年に外城田神社に合祀されました

鴨下神社〈皇大神宮(内宮)末社〉

鴨下神社(かもしもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の末社として『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に所載される古社です 中世に廃絶していましたが 明治7年(1874)に再興されて現在に至ります

小俣神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉&八柱神社(伊勢市小俣町元)

小俣神社(おばたじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る古社で 豊受大神宮(外宮)の摂社です 中世に頽廃するも 産土神として八王子祠と称し里人に祀られてきました 小俣神社は 寛文三年(1663)現地に一社両殿として再興されました 明治6年(1873)境内を〈神宮側・村側〉の二等分にして現在に至ります

宇須乃野神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〈御同座 縣神社(外宮 末社)〉

宇須乃野神社(うすののじんじゃ) 〈御同座 縣神社(あがたじんじゃ)〉は 豊受大神宮(外宮)の摂社・末社で 両社ともに『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る古社です 中世に廃絶し社地も不明となり 寛文三年(1663)宇須乃野神社は現在地に再興され 明治三年(1870)縣神社は御同座されました

今社(伊勢市宮町)

今社(いまのやしろ)は 『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に載る「清野井庭神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉」の旧鎮座地とされる古社です 今社(いまのやしろ)と呼ぶのは 井庭の社(いばのやしろ)の訛とも伝わります

清野井庭神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

清野井庭神社(きよのいばじんじゃ)は 『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に載る豊受大神宮(外宮)の摂社で 『延喜式神名帳〈927 AD.〉』には伊勢國 度會郡 清野井庭神社(しのゐての かみのやしろ)と所載される古社です 中世に頽廃し社地不明となりました 現在の社地は 寛文三年(1663)大宮司・河邊精長により 再興されたものです

佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉

佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります

四至神〈豊受大神宮(外宮)所管社〉&九丈殿・五丈殿(外宮境内)

四至神(みやのめぐりのかみ)は 元々は 豊受大神宮(外宮)の神域各所〈二百除前〉に祭祀されていた四至(神域の四方の境界)を守る所管社です 中世に廃絶 近世に一所〈九丈殿南側 石畳に榊(さかき)が立つ所〉に再興されています その奥には・九丈殿(くぢょうでん)・五丈殿(ごぢょうでん)・玉串行事所〈石を敷きつめた広い石原〉があります

下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内)

下御井神社(しものみいのじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の所管社で 覆屋の中には井戸があり 外宮の祭りに供える水を汲む上御井神社の水に不都合があった場合は この井戸の御水をいただくと伝わります 元來 下御井は 多賀宮の御料水とされ 上御井神社に対し 下御井神社 又は少宮(わかみや)とも称せられます

大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉

大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)・子安神社(こやすじんじゃ)は 宇治橋の東詰(内側)から約五〇メートル 神宮司廳の南側(内宮境内)に鎮座する皇大神宮(内宮)の所管社です 鎌倉時代初期の(1192年)『建久三年皇太神宮年中行事』には記載のある古社です

御酒殿神・由貴御倉〈皇大神宮(内宮)所管社〉&忌火屋殿(内宮境内)

御酒殿神(みさかどののかみ)は 古くは諸神にお供えする神酒を醸造する所・由貴御倉(ゆきのみくら)は 古くは御饌祭(みけさい)の御贄(みにへ)時菓(ときじく)〈果物〉などを納めておく倉 どちらも皇大神宮(内宮)所管社です 忌火屋殿(いみびやでん)は忌火〈清浄な火〉神饌を調理する殿です

四至神〈皇大神宮(内宮)所管社〉&五丈殿(内宮境内)

四至神(みやのめぐりのかみ)は 皇大神宮(内宮)所管社で『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉の「一、年中行事幷月記事の條」に゛宮廻神百二十四前を祭る゛ことが二月十三日・六月・九月の十八日に記され 古くからの神であることが分ります 五丈殿(ごじょうでん)は 雨儀の時に祓の行事等の行われる所です

御稲御倉〈皇大神宮(内宮)所管社〉&外幣殿(内宮境内)

御稲御倉(みしねのみくら)は 神宮神田から収穫した抜穂(ぬいぼ)〈三節祭で大御饌(おおみけ)として神前にお供えされる〉御稲が納められます 祭神は御倉の守護神とされ 皇大神宮(内宮)の所管社です その少し北側には かつて天皇以外のものから奉られた幣帛も納めた外幣殿(げへいでん)があります

滝祭神〈皇大神宮(内宮)所管社〉(内宮境内)

滝祭神(たきまつりのかみ)は 社殿を持ちませんが『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛瀧祭神社(たきまつりのかみのやしろ)゛と載せられている古社です 格式は 皇大神宮(内宮)所管社とされていますが 神饌は別宮に准じられ 幣帛は攝社格に據って祭祀されています

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