福井県
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久須夜神社(小浜市堅海)〈『延喜式』久湏夜神社〉
久須夜神社(くすやじんじや)は 久須夜ヶ岳を神と崇めた古代信仰とされ 山中に「大神岩」〈里人は狼岩といって畏怖〉があり 往古 大神がこの岩上に鎮座されたと云う 社伝に 社殿の創建は大化元年(645)・斎衡年間(854~857)現在地に社殿を建て鎮座 延喜式内社 若狭國 遠敷郡 久湏夜神社(くすやの かみのやしろ)です
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酒列神社(越前市牧町)〈『延喜式』麻氣神社〉
酒列神社(さかつらじんじゃ)は 神社明細帳には「創建不詳と雖も 從來 當村 稲葉山峰に安置したると村老の云、然る處 明治十年(1877)四月 類焼に罹り社殿失より該地に再建す」とあり 地名「牧」祭神「少名彦尊」の類似から延喜式内社 越前國 丹生郡 麻氣神社(まけの かみのやしろ)の論社とされています
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麻氣神社(丹生郡越前町真木)〈『延喜式』麻氣神社〉
麻氣神社(まきじんじゃ)は 『越前官社考』に「此御社は眞木村に座す〔牧神社 牧村ならんが神龜三年(726)民部省のロ宣に依て麻気の二字を用ひしものなり〕つまり郡や郷名を二文字の「好字」で表せとの詔勅に対応して゛麻氣゛としたと云う 延喜式内社 越前國 丹生郡 麻氣神社(まけの かみのやしろ)の論社です
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麻氣神社(南条郡南越前町牧谷)〈『延喜式』麻氣神社〉
麻氣神社(まきじんじゃ)は 創建不祥とされるが 一説として荒樫神社の伝があり「大男迹王(継体天皇)二歳にして 御生母(振媛命)と是の国に御鳳來の時 先づ麻和介命(振媛の兄)の家に御着留ありと云 此の如き御親戚の因なみに依り祭りしものなり」とあります 延喜式内社 越前國 丹生郡 麻氣神社(まけの かみのやしろ)の論社です
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加茂廼神社(福井市鮎川町)〈『延喜式』雷神社〉
加茂廼神社(かものじんじゃ)は 口碑によれば 往昔は式内の大社で社領八十石を有し 近郷の総社であったと云う 延喜式内社 越前國 丹生郡 雷神社(いかつち かみのやしろ)の論社とする説があります 社伝に 多田満仲(藤原藤房卿)は 天徳元年(957)社殿を改築し金銭穀類を寄進 祭典には甲冑を着し参詣したと伝えます
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賀茂神社(福井市加茂町)〈『延喜式』雷神社〉
賀茂神社(かもじんじゃ)は 養老元年(717)京都賀茂両宮の御神霊を奉斎して賀茂下上大明神(かもしもかみだいみょうじん)と尊称された古社 神職は養老元年 神社創建より代々奉仕し現宮司で45代を数えています 延喜式内社 越前國 丹生郡 雷神社(いかつち かみのやしろ)の論社です
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雷神社(越前市広瀬町)〈『三代實錄』廣湍雄推神『延喜式』雷神社〉
雷神社(いかずちじんじゃ)は 社伝に廣瀬開闢の産神 往昔 八幡山の嶺に鎭座と伝える 延喜式内社 越前國 丹生郡 雷神社(いかつち かみのやしろ)です 文化三年(1806)出火し古記等焼失 明治七年(1874)現社地に再建遷座 現地は元々『三代實錄』廣湍雄推神の境内で 貞観三年(861)雷神社の御領所となり遥拝所があった
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八坂神社&雨夜神社〈『延喜式』 雨夜神社〉(丹生郡越前町天王)
八坂神社(やさかじんじゃ)は 社伝に 約1800年前 神功皇后が三韓出兵の帰途に天下安寧を祈願し 蛇谷山に祇園牛頭天王を祀ったのが当社のはじまりと云う 又 明治43年(1910)雨夜神社(朝日村天屋)〈延喜式内社 越前國 丹生郡 雨夜神社(あまよの かみのやしろ)の論社〉を八坂神社の境内に移転しています
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岡太神社(越前市岡本町)〈『續日本紀』雨夜神『延喜式』雨夜神社〉
岡太神社(おかふとじんじゃ)は 延喜式内社 越前國 丹生郡 雨夜神社(あまよの かみのやしろ)の論社です 式内社 雨夜神社は 当初は岡本山山頂にあったとされ 岡太神社と称していたとの事 現在も山頂の祠に゛雨夜神社 岡本山上宮 祭神水波乃売命゛と刻字されています 岡本山の麓にあった白山神社に遷座したと伝わります
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大虫神社(越前市大虫町)〈『延喜式』大虫神社 名神大・雨夜神社・小虫神社・雷神社〉
大虫神社(おおむしじんじゃ)は 崇神天皇7年(BC91)丹生岳の峯(現 鬼ヶ嶽山頂)に鎮座 垂仁天皇26年(BC4)現在地に遷座 延喜式内社 越前國 丹生郡 大虫神社〔名神大〕(おほむしの かみのやしろ)です 相殿には三つの式内社〔・雨夜(あまよ)・小虫(をむし)・雷(いかつち)神社〕が天正11年(1583)合祀された
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石部神社(鯖江市磯部町)〈『延喜式』石部神社〉
石部神社(いそべじんじゃ)は 周囲には磯部(いそべ)古墳群もあり もとは鳥立山の山頂部に旧鎮座地があって 貴船明神と称されていたと伝わります 明治九年(1876)「参拝の便が悪く」との事で 現在地〈集落の奥 山の中腹〉に遷座した 延喜式内社 越前國 今立郡 石部神社(いそへの かみのやしろ)とされます
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若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について
若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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天伊弉奈彦神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこじんじゃ)は 祭神の天伊弉奈彦大神が氣比大神の御子神であると『続日本後紀』承和7年(840)9月13日(乙酉)の条に「奉授 越前國 從二位勳一等 氣比大神之御子 无位 天利劔神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並從五位下」と記される由緒格式ある古社です
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天利劔神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)は 祭神の天利劔大神が氣比大神の御子神であると『続日本後紀』承和7年(840)9月13日(乙酉)の条に「奉授 越前國 從二位勳一等 氣比大神之御子 无位 天利劔神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並從五位下」と記される由緒格式ある古社です
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天伊弉奈姫神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
天伊弉奈姫神社(あめのいざなひめじんじゃ)は 祭神の天比女若御子大神が 氣比大神の御子神であると『続日本後紀』承和7年(840)9月13日(乙酉)の条に「奉授 越前國 從二位勳一等 氣比大神之御子 无位 天利劔神 天比女若御子神 天伊佐奈彦神 並從五位下」と記される由緒格式ある古社です
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大神下前神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)は 氣比大神四守護神の北方鎮守社で元は北東の天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に境外末社として鎮座していた 明治四十四年(1911)鉄道敷設に伴って現在の地に遷座 稲荷神社 金刀比羅神社を合祀しました
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越前國 式内社 126座(大8座・小118座)について
越前国(えちぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越前国には 126座(大8座・小118座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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角鹿神社〈氣比神宮境内〉(敦賀市曙町)
角鹿神社(つぬがじんじゃ)は 社伝には 祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)〈任那(みなま)の皇子〉は 崇神天皇の御代 氣比の浦に上陸し 天皇に貢物を奉り 氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられたとあり その政所(まんどころ)の跡に鎮座する門神〈往古は氣比神宮の東門口が表参道〉でした 敦賀(つるが)の地名は 御神名 角鹿(つぬが)が語源とされる
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氣比神宮 土公〈氣比大神降臨の地〉(敦賀市曙町)
氣比神宮 土公(どこう)は 氣比之大神 降臨の地とされます 御祭神 氣比之大神は 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)とも 笥飯大神(けひのおほかみ)御食津大神(みけつおほかみ)とも称し 2千有余年 天筒の嶺に霊跡を垂れ 境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝わり 神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を今に留めています
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氣比神宮(敦賀市曙町)
氣比神宮(けひじんぐう)は 太古 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)〈氣比大神〉1柱を祀りましたが 大宝2年(702)文武天皇の勅命で 仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉妃命・武内宿禰命の神々が合祀され七柱の御祭神となりました 延喜式には「祭神七座並 名神大社」とあります











