延喜式神名帳
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天神神社(対馬 佐護北里)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋上縣郡 天神多久頭多麻命神社(あめのかみたくつまのみことの かみのやしろ)」の論社です もともと天神(あめのかみ)と称する祭祀所であったとされます
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春日大明神(対馬 佐護東里)
春日神社(かすがじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の深山に鎮座します 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社(あまのもろはのみことの かみのやしろ)」の論社です 深山では「春日大明神(かすがだいみょうじん)」と呼ばれ 深山村落の鎮守のようです
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天諸羽神社(対馬 佐護深山)
天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の深山に鎮座します 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社(あまのもろはのみことの かみのやしろ)」の論社との説もあり かつては「つのかみ明神」と呼ばれました 深山村落の裏山〈中々わかりにくい所〉に鎮座しています
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天諸羽神社(対馬 佐護恵古)
天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の中心であった恵古に鎮座します 藩政時代には 島主の宗家は 対馬の吉凶を 亀卜(キボク)や太占(フトマニ)により占わせたと伝わり 豆酘〈下縣〉と佐護〈上縣〉の地では〈明治4年(1871)の廃藩までは〉毎年旧暦の正月3日に 亀卜神事が執り行われていたようです
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島御子神社(対馬 曽)
島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です
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那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります
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元嶋神社(対馬 唐洲)
元嶋神社(もとしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 大嶋神社(おほしまの かみのやしろ)」の論社です 写本によっては「大嶋(オホシマ)」が「本島(モトシマ)」と書かれている場合があり ここから当社が論社となっています
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國本神社(対馬 瀬田)
国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります
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厳原八幡宮神社(対馬 厳原)
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)は 文明8年(1476)の棟札に「当社は 雍州 男山八幡宮の原廟と記す」とあり 八幡信仰の中心 京都 男山の「石清水八幡宮の起源」とも云われ 社伝には 神功皇后(ジングウコウゴウ)〈第14代 仲哀天皇の皇后〉が 三韓征伐からの凱還の時 対馬の清水山に行幸し 神霊の止まるべき山であるとして 山頂に神鏡と幣帛を置き 天神地祇(テンジンチギ)を祀り 磐境(イワサカ)を設けた その後 第40代 天武天皇の勅命(677)により 清水山の麓に社殿を造営 5柱の神を祀り 八幡宮と称したと伝
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海神神社(対馬 木坂)
海神神社(かいじんじんじゃ)は 八幡神が神風を吹かせたと伝わる 木坂の伊豆山の麓に鎮座します 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐より凱旋の折に 対馬で掲げたと伝わる 八旒の旗〈8本の旗〉「振波幡」「切波幡」「振風幡」「切風幡」「豊幡」「真幡」「広幡」「拷幡」ここから 八幡(ヤハタ)が発祥しているとして「八幡信仰の源流」とされ 江戸時代までは「八幡本宮」と号していました 対馬国一之宮であり 由緒正しき古社です
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宇倍神社(鳥取市国府町宮下)〈因幡国一之宮〉
宇倍神社(うべじんじゃ)は 因幡国一之宮です 鎮座する稲葉山(イナバヤマ)の麓一帯は・奈良・平安・鎌倉時代を通し因幡国府があり 政治経済・文化の中心地であり 大和朝廷が『名神祭』〈国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀〉を司る名神大社です
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嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
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〈知知夫國新一之宮〉秩父神社(秩父市番場町)
秩父神社(ちちぶじんじゃ)は 秩父の武甲山(ブコウサン)を神奈備の山として遥拝する聖地で 第10代 崇神(スジン)天皇〈在位BC97~BC30年頃〉の勅命で 初代 知知夫国造(ちちぶくにのみやつこ)に任命された 八意思兼命の十世の子孫「知知夫彦(チチブヒコ)命」が 大神をお祀りしたのが創建と伝わります 武蔵国(むさしのくに)成立以前から栄えていた 知知夫国(ちちぶのくに)の総鎮守として 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される 関東でも屈指の古社に数えられています
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乙和多都美神社(対馬 久和)
乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません
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波良波神社(和多都美神社 境内)
波良波神社(ハラハジンジャ)は 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に「対馬島 上県郡 波良波神社(Harae no kamino yashiro)」と所載されている古社です もともとは 仁位(ニイ)の波浪(ハロウ)と呼ばれた場所に鎮座したか もしくは 濱殿神社の場所であったとも 言われています いつの頃か 和多都美神社(対馬 仁位)の境内に移し祀られたと云い伝わります
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濱殿神社(対馬 仁位)
濱殿神社(はまどのじんじゃ)は 仁位川(にいがわ)の河口近くの畔丘にあり「豊玉彦命(とよたまひこのみこと)の御陵慕」との言い伝えがあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「対馬島 上県郡 波良波神社(はらへの かみのやしろ)」の論社でもあります
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能理刀神社(対馬 芦見)
能理刀神社(のりとじんじゃ)は 神宮皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐の時 この地「芦見(アシミ)」で 鷲(ワシ)を見て吉凶を占ったとの伝説があり 故に 鷲見(ワシミ)から葦見(アシミ)へと訛ったとされ 境内社の「仮殿神社」は その時の行宮(アングウ)〈天皇・皇后が外出移動の時の仮御所〉の跡で 雷大臣命(イカヅチノオオオミノミコト)の亀卜処で在ったとも伝えます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「對馬嶋上縣郡 胡簶御子神社」の論社です
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和多都美御子神社(対馬 仁位)
和多都美御子神社(わたつみみこじんじゃ)は 承和7年(840)11月 に官社となり 927年12月編纂『延喜式神名帳』には「名神大」として所載される古社です 貞和5年(1349)大宰府より天満宮を勧請し合祀して「天神宮」と称していたので 明治初期に和多都美御子神社と改称したけれども 和多都美としての由緒は無いとしています
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胡禄御子神社(対馬 琴)
胡禄御子神社(ころくみこ じんじゃ)は 琴(キン)地区に鎮座 御祭神は 神功皇后の三韓征伐 出陣伝説で 琴崎東沖を過ぎて 御船の碇が海底に沈んだ時 海中に入って取り上げた 舵取りの「安曇磯武良(あずみいそら)」〈御祭神 磯武良(いそたけら)〉が 住吉三神とともに祀られています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社として 琴崎(キンザキ)鎮座「胡禄神社」が 胡禄御子神社であるとの説もあります
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宇努刀神社(厳原八幡宮 境内社)
宇努刀神社(ウノトジンジャ)は 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐(サンカンセイバツ)より 凱旋の時に 対馬の上縣郡 豊村に現れて 島大国魂(シマオオクニタマ)神社を拝しのち 佐賀村に 島大国魂神社の御分霊を 皇后(コウゴウ)親(ミズカ)ら祀ったとされ 更に 延徳3年(1491)6月14日 佐賀村より下県郡 厳原八幡宮 境内へと 遷座したと伝わります 六国史『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)(901年)成立』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に神階の昇叙が記され 『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される古社です